Ⅲ 尚真王世代の嘉靖年間(1522年~1526年)の5年間の出来事について。ノート3

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尚真王世代の嘉靖年間(1522~1526年)の八重山での出来事やその後18世紀頃までの初代の西表首里大屋子、与那国与人、竹富与人の継承について。

2006年1月1日、自著 (大濵永亘) は『オヤケアカハチ・ホンカワラの乱と山陽姓一門の人々』 (編集 : 先島文化研究所) を自費出版した。「第二章 慶田盛村の繁栄と古謡」の項で「八、琉球王国派遣の御使者の子息らの親族系図」を記載した。

3-1 『オヤケアカハチ・ホンカワラの乱と山陽姓の一門の人々』(2006年1月発刊)より

琉球王国から派遣された御使者のひとりに虞氏京阿波根親雲上實基(唐名:虞建極、生寿不明)がいる。彼は尚真王(1466~1526年卒)に仕え嘉靖年間(1522~1566年)に派遣され来島している。彼には現地滞在中に出生したと思われる二人の息子がいる。二人の息子の一人に上官姓大宗大浜親雲上正廟 ( 童名 : 真蒲戸、嘉靖年間〈1522~1566年〉生まれ~1586年卒 ) が慶田盛村に居住している。
虞氏京阿波根親雲上實基 ( 唐名 : 虞建極、生卒不明 ) の派遣理由や尚真王世代の嘉靖年間 (1522~1526年) の5年間に起こった八重山での出来事について1522年与那国島「鬼虎征伐」、1524年西塘の竹富大首里大屋子(竹富頭)任・竹富島の「八重山蔵元」創建、西表島の慶来慶田城(ケライケダグスク)の父親・用緒の西表首里大屋子任、子息の用庶の与那国与人に就いいていることなどについて記載された『家譜』や『球陽』を照合して考えてみた。

虞氏京阿波根親雲上實基(唐名:虞建極、生不明 1528年没)の嘉靖年間(1522年~1566年)に生まれた2人の子息たち

1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」で琉球王国の尚真王 ( 1465~1526年卒 ) に忠誠を誓ったのでオヤケアカハチ・ホンカワラの親子に殺害された石垣島の美良底村出身の那礼当 ( 生不詳~1500年卒、ナレイトウ・那礼塘=那礼堂・山陽姓大宗宮良親雲上長光の先祖 ) 、嘉平の仲間村出身の仲間満慶山 ( 生不伝~1500年卒、ナカマミツケヤマ ) 、波照間島の明宇底獅子嘉殿 ( 生不明~1500年卒、ミウスクシシカドゥン・シシカトノ・メウ底シジカドノ・獅子嘉) の子息たちが論功行賞で士族・系持ち ( ユカラピトゥ ) になり、字新川の美良底村 (ビロースクムラ ) の真乙姥御嶽 ( マイツバーオン ) の東南一帯の慶田盛村 (キイダムリィムラ) に島移り (居住) してくる。

3-2 石垣市役所発行『石垣市史叢書 6』(編集:石垣市総務部市史編集室/発行:1994年)より

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石垣市役所発行『石垣市史叢書 6』(編集:石垣市総務部市史編集室/発行:1994年)に記された「上官姓大宗系図家譜」の序文に元祖正廟について次のように記載されている。※(  )は筆者が記した。
(略)雍正七(1729)年に我※(上官氏六世慶田城与人正方=最終職歴は黒島首里大屋子、童名:真牛金、1684~1755年卒)は年貢を奉じて頭職の山陽姓長 ※.(山陽氏四世宮良親雲上長亮=保久利思、1669~1730年卒)に随行して中山王府へ行った。公務の暇に宮古島の官吏と会議し、兩島の仕籍に登る者(士族)の裔孫はみな家譜を修するの情=ことをもって一緒に願い出た。恭しく国王は、その請願を許可し、即ち兩島はまさに復姓を用うべきの命を賜った。そこでわれわれは復姓を久米村の程順則(※.七世隆勲紫金大夫加銜法司正卿諱順則 名護親方 童名:思武太、1663~1734年卒)に求め、上官の二字を得て姓とした。すなわち正廟を始祖として家譜を修した。八重山の家譜はこれから始まる。(略)

「程順則の元祖について」が、編集・発行:那覇市史企画部市史編集室『那覇市史 資料篇 第1巻6 家譜資料二(上)』(発行:1980年)の「二八 程氏家譜(原)程泰祚 名護家」に下記のように記載されている。
「六世小宗都通事諱泰祚‐古波蔵親雲上、童名:思五良、1635~1675年卒)、父諱秉憲 虞氏京阿波根親雲上實基 五世外間筑登之實房(1609~1642年卒)也」。
編集・発行:那覇市企画部市史編集室『氏集 那覇首里』の1983年第2版発行には「1989 大宗虞建極京阿波根親雲上實基 外間筑登之親雲上」と記されている。
上官姓大宗正廟の父は程順則の元祖である虞氏京阿波根實基(唐名:虞建極、生寿不明)だということが分かる。

3-5 『程氏家譜』(沖縄県立図書館所蔵)より。

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また、上記の『程氏家譜』に「母鄭氏久米村西の大阿母真牛金(1611~79年卒)、室陶氏真牛金(1666~93年卒)、継室牛氏真牛金(1673~1748年卒)などが記載されている。この母、室・継室の真牛金の名前は『上官姓大宗正廟』家譜に「上官氏二世小谷仁也正滝(童名:真牛金、万暦年間=1573~1619年間に生まれ~1596年卒)、上官氏四世黒島首里大屋子正繁(童名:真牛金、1610~86年卒)と記載されている。ちなみに、この童名真牛金は上官氏二世正滝の長女伊津思(1593年生まれ~卒不詳)の文珪姓大宗宮良与人師春(童名:真牛、生年忌月日不詳)と親族たちに受け継がれている。『上官姓大宗系図家譜』には下記のように「元祖正廟」要約が書かれている。元祖正廟 童名は真蒲戸、号は仁嶽府君、嘉靖年間(1522年~66年)の生れ。しかし生没年月日ともに伝わらない。父母ともに誰かわからない。
室は鍋山 父母および生年月日はともに不詳。万暦十八(1590)年死す。号は智心。長男正滝 母は本室所。
次男は正信 母は本室。別に家譜有り。尚永王世代(1573~88年)。万暦四(1576)年に八重山大浜間切の頭職に任じられ、官職に随い聖書、御印綬を賜うこと賜る 以前の官爵や勲功は年数を得ていて伝わらなので略す。
万暦十四(1586)年朝貢のことで王都に赴こうとしてすでに途中まで行ったが、にわかに風に吹かれて中国に飄流し、病にかかり死去。

『氏集 首里・那覇』編集・発行 那覇市企画部市史編集室/昭和58年3月
30日第2版発行(増補版)より、氏名索引の「虞」を検索し本文16番(P66)、1989「大宗虞建極京阿波根親雲上實基虞氏外間 親雲上」と記載されている。

3-8 『伯言姓大宗政通』家譜(宮良 当益先生所蔵より)

また、『伯言姓大宗政通』家譜の「一世政通、二世政保」が下記のように記載されている。※.(  )筆者挿入。
一世政通 大浜親雲上童名は蒲戸、號は福岩、行一(長男)、嘉靖年間(1522~66年)の生れ、寿不詳。
父が王府久米村京阿波根之後胤、生寿並道號不詳。※.(虞氏京阿波根親雲上實基=唐名:虞建極、生寿不明)。

母は不知為何人女(母が誰かわからない)。其名並生寿道號倶不詳。
室が西表村住民無系(百姓)真鍋、歴年久遠其父並生寿道號倶不詳。
嗣子は政保。※.伯言氏二世大浜親雲上政保(童名:五良志、生不詳~1624年卒)。
尚永王世代(1573~88年)
万暦十五(1587)年丁亥大浜頭職。歴年久遠以前之官級位階不詳。二世 政保 大浜親雲上童名は五良志、號は南岳。行一(長男)、万暦年間(1573~1619)の生まれ、寿不詳。原是王府久米村住人也。然、政通無嗣子故万暦十五(1587)年丁亥為嗣子而続家統。天啓四(1624)年甲子五月十七日卒す。其父母不詳。
父は政通。※.伯言姓大宗大浜親雲上政通(童名:蒲戸、生寿不詳)。母は真鍋。
室は毛裔氏宮良親雲上安英女於那比戸、万暦年間(1573~1619)の生まれ、生月日不詳。天啓三(1623)年癸亥十一月二十八日卒す。號は一鏡。※.毛裔姓大宗宮良親雲上安英(童名:二千代、1547~1619年卒)。
長男は安師 大浜親雲上也。毛裔氏宮良親雲上安英困無男子為嗣子続彼家統。別に家譜あり。※.毛裔氏二世大浜親雲上安師(童名:真蒲戸、1602~74年卒)。
長女は真比。万暦年間(1573~1619)年生まれ。嫁テ長栄氏石垣親雲上信本。順治八(1651)年辛卯任大阿母職。同九(1652)年壬辰十二月十四日卒す。寿不詳。號は妙浩。※.長栄氏五世石垣親雲上信本(童名:保久利、1592~1661年卒)。
次女は鍋山。万暦年間(1573~1619)年生まれ、嫁テ憲章氏大浜親雲上英森。順治元(1644)年甲申十一月十六日卒す。號は妙覚。※憲章氏四世大浜親雲上英森(童名:満慶山、1602~42年卒)。
三女は思戸。万暦年間(1573~1619)年生まれ。嫁テ大浜村住民無系(百姓)蒲戸。※.岳章姓大宗崎原目差致崇(童名:真蒲戸、生寿不詳)。
四女は真伊奴。万暦年間(1573~1619)年生まれ。生寿並無道號テ今不可考。
嗣子は政茂。※.伯言氏三世宮良親雲上政茂(童名:加那、1671~1748年卒)。
尚寧王の世代(1589~1620年)
万暦三十二(1604)年甲辰大浜頭職。歴年久遠、以前官級位階不詳。以上のことから伯言姓大宗大浜親雲上政通の父は虞氏京阿波根實基(唐名:虞建極、生寿不明)ということが分かる。

西表島西部の慶来慶田城(ケライケダグスク)・錦芳姓大宗西表首里大屋子用緒(童名:眞茂能、生日忌日寿倶不伝)、二世与那国与人用庶(童名:石山・石戸、生日忌日寿倶不伝)について。

 

3-9 『錦芳姓大宗用緒』家譜より。

3-10 『オヤケアカハチ・ホンカワラの乱と山陽姓一門の人々』(2006年1月)より。

琉球王国から派遣された虞氏京阿波根實基、竹富島出身の西塘(童名:石戸)と共に1522年与那国島「鬼虎征伐」に頭主の宮古の仲宗根豊見親玄雅(童名:空広)から依頼を受け、琉球王国へ忠誠を誓って参戦した西表島西部の慶来慶田城(ケライケダグスク)の親子がいる。論功行賞で尚真王の世代嘉靖年間(1522~1526年)に父親用緒(童名:眞茂能)が西表首里大屋子、嫡男用庶(童名:石山)は与那国与人に任じられた。一族(一門・沖縄では門中)の名称を「錦を芳す」錦芳姓とし、名乗頭を「用」とした。自著(大濵永亘)『オヤケアカハチ・ホンカワラの乱と山陽姓一門の人々』(編集:先島文化研究所、発行:南山舎/発行日:2006年)に『錦芳姓大宗用緒』家譜の「元祖慶来慶田城用緒・二世用庶」の要約が下記の通りに記載されている。

『錦芳姓大宗用緒』家譜元祖慶来慶田城用緒 西表首里大屋子童名は真茂能、号は端岳・生年・忌日・享年ともに伝わらず。父は何人たるか知れず。母は何人たるか知れず。室は何人たるか知れず。長男は用庶。尚真王の世代(1477~1526年)。
嘉靖年間(1522~66年)、西表首里大屋子職に任じられる。以前の官爵・勲席および元服の年紀月日不詳。

二世慶田城当・用庶 与那国与人
童名は石山、号は鶴嶺。長男。生日・忌日・享年とも伝わらず。父は用緒。母は何人たるか知れず。室は何人たるか知れず。
長男用尊。※.錦芳氏三世西表首里大屋子用尊(童名:真茂能、1527~99年卒)。
二男は用信。西表首里大屋子。別に家譜あり。※.錦芳氏三世西表首里大屋子用信(童名:満能、生忌月日不詳)。
尚真王の世代(1477~1526年)。
嘉靖年間(1522~66年)、与那国与人となる。以前の官爵及び元服の年紀月日不詳。

  1. 錦芳氏二世与那国与人用庶(童名:石山、生日・忌日・享年とも不伝)の二男用信は 分家し西表島より石垣島字石垣(桃林寺裏通り)に島移り(移住)している。「錦芳氏三世用信小宗」の家譜には三世用信(童名:満能=まんのう、生忌月日不詳)は尚元王世代嘉靖年間(1556~1566年)に兄用尊(童名:眞茂能=まんのう、1527~1599年)3代目西表首里大屋子を受け継いでいる。また、四世用在(童名:石戸、生忌月不詳)は尚寧王世代万暦年間(1589~1619年)に与那国与人に任じられている。童名は(まんのう=眞茂能・満能・萬能、石戸・石山・石戸能・山戸)のように居住地や一門により使用する漢字や呼び名が異なる。

1522年与那国島「鬼虎征伐」について『李朝実録』によると1477年2月(尚真王在位1年)に与那国島に朝鮮済州島の3人が漂着し島民に救助された。彼らの見聞録が記載されている。彼らは与那国島から西表島西部、波照間島、新城島、黒島、多良間島、伊良部島、宮古島に護送され2年後に琉球国那覇から博多経由で送還された。与那国島にはサンアイ・イソバ、西表西部の慶来慶田城、波照間島明宇底獅子嘉殿、多良間島・土原氏豊見親春源、伊良部島、宮古島仲宗根豊見親玄雅等がおり琉球国(尚真王)の官船は各島々との往来が頻繁にあったことがわかる。ところが竹富島、小浜島、人口の多い西表島東部の古見、石垣島との交流が無いことは不可解なことである。当時の八重山においては二分され琉球国との対立の構図がうかがえる

1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」の論功行賞で宮古の仲宗根豊見親玄雅一族が竹富島を拠点にして、西表島西部・与那国島を兼務しながら八重山頭職に就き八重山を統治した。与那国島の鬼虎は中国の明国(1368~1644年)への朝貢物産・先島の調達を拒否したため八重山頭主の仲宗根豊見親玄雅を中心に宮古総力で1522年与那国「鬼虎征伐」を行ったと推察される。

中国製の鉄釉・南蛮陶器片(方言スビガミ)。『宝貝』(方言スビガイ)が字印されている。
石垣島平得宇部御嶽遺跡採集。キイロダカラ 方言スビガイ

名蔵シタダル海底遺跡のクードー浜からシタダル浜にかけて無尽蔵にあり、キイロダカラを採取した。

1522年与那国島「鬼虎征伐」は『宮古系家譜』にだけ記載されている。平良市役所発行『平良市史 前近代 第三巻 資料編1』(編集:平良市史編さん委員会/発行:1981年)の「1522年与那国島鬼虎征伐に関する宮古系家譜」を自著(大濵永亘)『オヤケアカハチ・ホンカワラの乱と山陽姓一門の人々』(編集:先島文化研究所/発行:南山舎/1999年)に下記の通り要約を記載した。

『忠導氏系図家譜正統』
(略)童名は空広、天順年間(1457~64年)に生まれ、嘉靖年間(1522~66年)に卒す。号は徳巌本。(略)
嘉靖年間(1522~66年)八重山島与那国島の首長鬼虎、己の武勇をおうて王化にしたがわざる故、玄雅命を奉じ髄罰の時、聖上、ことに御剣冶金丸を恩借賜う。ここにおいて、謝恩して帰島し、宮古島の兵を卒いて彼の地方(与那国)に到り、逆徒を罰し、凱歌を唄う。入貢して御剣を返上と云々。

附録
鬼虎は無力無双にして智謀衆にはるかなり。身長一丈五寸。かつ与那国島の形勢四方巌出入りするなり。もし一夫これを守らば、すなわち万夫進むを得ず。故にその険所によりて、王化にしたがわず。この鬼虎は元来当地(宮古島)狩俣村の生れなり。この人五歳の頃、身長五尺ばかりあるなり。その頃、当地飢饉となり、時に与那国の人、当地に渡海して商売をす。鬼虎の形相に不凡夫を見、これを異として、米一斗を以て買いて帰島す。のちに成人して一島の酋長になると云々。
弘冶年間(1488~1505年)、八重山島退治の時、兵船を遣わし攻めせしむ。しかるに兵船、津口に入るをあたわずしてむなしく帰帆するなり。故に今、玄雅に使討を命じる。この時、宗徒の勇士、(玄雅の)嫡子金盛豊見親、二男祭金豊見親、三男知利真良豊見親、金志川金盛、同人弟那喜大知〈この人、従来は金志川豊見親と称す〉、精兵二四人、その外、美女四人、平良祝住屋大阿智城。祝砂川恋種司、伊良部伊安登之於母婦、砂川阿珷娥摩(あふがま)、あいしたがいて既に艤船し、与那国島に到りて先使美人らを入れ、「諸味麹」〔もろみ・こうじ力〕を献じ、告げていわく。我が宮古島はたびたび飢饉に遭いて、居民過半憔埣に及ぶ。故に貴地(与那国島)に投じ飢寒の苦を免れんと欲して、遠く風波の難を凌ぎ、今日幸いにして大人(鬼虎)の台顔に謁するを得る。大人、もと宮古島の人なり。願わくば故土の情を念じ、我らの残生を救わんと、涕泣きして訴える。鬼虎、美人の巧言令色に惑わされ、酔いに乗じて、本船をひき入れるなり。時に鬼虎大酔いして堤防せず。故に玄雅、兵を率いて直ぐに攻め入る。鬼虎、余丈の大角棒を振りて迎戦す。その勇、当たるべからず。玄雅これを避けんとして、田疇を飛越せんと欲し、忽然として深田に跌倒す。鬼虎、大笑いしていわく、汝ら今日釡中の魚たり、いかんせん飛び出ずるを得るや。その声、いまだ終わらざるに、左右より金志川兄弟、挟みて攻戦す。鬼虎、あたりて右を払い、左を大喝一声す。その威、なお迅雷のごとくして、庶人を愕す。しかりしこうして引退し、時に玄雅、田中より踊り出で、御剣冶金丸にて鬼虎の右膝をなぎ落とすなり。嫡子金盛、走りより首を取り、余賊ことごとく降参す。ここにおいて鬼虎の娘を捕らえ帰島すと云々。当時(宮古島)の綾語(あやご)、今に存す。

二世 八重山豊見親玄数。
童名は祭金。成加年間(1465~87年)生まれ、嘉靖年間(1522~66年)年に卒す。号は義伯。
父は玄雅。
母は大阿母。童名は宇津免嘉。野崎村の安嘉宇立親の娘なり。
室は免嘉。松原村の赤宇立親の娘なり。成加年間(1465~87年)に生まれ。嘉靖年間(1522~66年)に卒す。号は浄信祖入。
尚真王の世代(1477~1526年)。
弘冶十三(1500)年庚申、八重山島大浜の赤蜂退治のとき、父玄雅に従って彼の地方に至り、逆徒を討ち始め帰島す。これにより、命を奉じて八重山島守護のため彼の地に至り、勤職四年、ゆえに八重山豊見親と称す。嘉靖年間(1522~66年)の初め、八重山島のうちの与那国の酋長鬼虎が謀叛を起こしたときに、父玄雅従って彼の地に至り、すべて成功して帰島するという。

二世玄屯 平良親雲上童名は馬之子。弘冶年間(1488~1505年)に生まれ、嘉靖年間(1522~66年)に卒す。号は緑渓良因。
父母は兄玄数と同じ。尚真王の世代(1477~1526年)。
嘉靖元年(1522)年壬午、はじめて平良の頭職に任じられる。

『河充氏系図家譜正統』
(略)元祖川満大殿は成化年間(1465~87年)の人なり、弘冶年間(1488~1505年)、八重山島大浜の赤蜂兄弟が反逆したとき忠導氏仲宗根豊見親玄雅の官軍に従い、嘉靖年間(1522~66年)には同島のうち与那国島の酋長鬼虎が謀反を起こしたときに、再びに玄雅に髄従して彼地に至り、逆徒を征伐して帰島した。(略)

『土原氏家譜正統』
それ正統は木の根源に水があるごとく。しかるにすなわち、正統・支流(本家・分家)は自ら杼の貫通するにしたがい。わが元祖土原豊見親春源は、弘冶年間(1488~1505年)の人なり。そのころ八重山島大浜の赤蜂兄弟、与那国が鬼虎が己の武勇にたのみ、王化にしたがわずに謀反をしたとき、忠導氏玄雅に髄従して彼の地に赴いて逆賊を討った。玄雅の使いとして中山に至って賀を奉り、元祖春源は多良間島の酋長となって帰島したという。われ、八代の末孫(八世塩川与人春倫・1697~1761年卒)たるといえども、後世の子孫のため、旧聞記により謹んで誌す。波

1552年与那国島「鬼虎征伐」について琉球王国や八重山に史料がない。二人の子息の出生からみると琉球王国は京阿波根親雲上實基を八重山に派遣している。
 竹富頭に任じられ、竹富島浦皆治原に「八重山蔵元」を創建し八重山を統治している。
尚真王世代嘉靖年間(1522~1526年)に西表島西部の慶来慶田城(錦芳姓)の大宗・父用緒が初代西表首里大屋子に就き、嫡男用庶も初代与那国与人に任じられた。
『球陽』に名田大知(長栄姓大宗信保)の娘が宮古の仲宗根豊見親玄雅の三男、八重山頭知理(利)真良豊見親(宮金氏正統寛忠)に嫁いでいる事が記載されてる。
童名祖良広(空広)は宮古島の忠導氏家譜正統の元祖玄雅仲宗根豊見親(生卒不詳)で始まり、長栄氏三世石垣親雲上信有(生寿不伝)や文林姓大宗黒島首里大屋子方因(不可考)へ継がれた。山陽姓大宗宮良雲上長光(1584年生)や、信有の孫・長栄氏五世大浜親雲上信行(1589年生)に受け継がれているが、仲間満慶山の子孫憲章姓や嘉善姓らには17世紀中葉頃までは受け継がれていない。

ウェブサイトで「冶金丸」(ちがねまる)を検索すると下記のように記載されている。黒漆脇差拵刀身無銘(号 冶金丸)刀長53.8cm国宝
那覇歴史博物館所蔵
・無銘であるが、応永信国の作と推定されている。
・尚家伝来の刀剣。琉球の歴史書「球陽」によれば、1522年に宮古島の仲宗根豊見親(なかそねとぅみゃ)が尚真王に献上した刀とされる。
・「冶金丸宝刀ノ由来」によれば、大永2年(1522)に宮古島の豪族仲宗根豊見親が尚真王へ、八重山諸島平定の慶賀として献上したという。また王は阿波根に命じて、この刀を京都の研ぎ師に研がせたが、研ぎ師は偽物にすり替えて渡し、帰国してからそれが発覚したため、再び京都に戻り、3年の月日をかけてついに取り戻したという。これより阿波根は「京阿波根」と呼ばれるようになったという。

「冶金丸について」は石垣市教育委員会『石垣市史叢書 19―球陽 八重山関係記録集(上巻)』(編集:石垣市教育委員会市史編集課/発行:2013年)に下記のように要約が記載されている。
一四五四~六〇年(尚泰久王代)
3 つけたり。宮古の空広が中山に参内する。
明の天順年間(1457~64)、宮古に空広という者がいた。生来敏辰捷で、才知は群を抜いていた。幼少の時から島大立大殿(幼名は真佐盛大殿)に仕えた。大殿は、常にこれを寵愛すること、あたかも珍宝のようで、(空広に)その家政をことごとく皆任せていた。大殿はすでに老齢に及び、息子の後手盛と空広に宮古の政治を治めさせた。大殿が病死するに至り、後手盛が父の家統を継ぎ、陞って島主となった。中山に貢朝して帰島の時、久米島に漂着し、にわかに病気に感染して早世した。空広は君主の命により陞って島主職に任じられ、豊見親(トゥユミャー)と称した。後年に至り、空広は中山に至り国王にお目にかかった。時に恩をいただいて金銀の簪を賜った。弘冶年間(1488~1505)八重山の謀叛(アカハチの乱)の時、王府に文書に上申して子弟を率い(王府軍の)大将に従って八重山を討ち、平和をもたらした。空広は上納の制を定め、中山に行って冶金丸(ちがねまる)・藻玉一粒を献上した。次男の祭金豊見親は抜擢され八重山頭役となり、その島を統治した。三男の知理真良(ちりまら)は兄に従って八重山に至り、名田大知(ナータフーズ)の娘を妻にして、八重山の島に住み、子孫は繁栄して富貴栄華の身となった。

 写真2点は那覇市歴史博物館提供

引用
“ 黒漆脇差拵(号 治金丸) くろうるしわきざしこしらえ(ごう じがねまる) 概要  尚家伝来の刀剣。琉球の歴史書『球陽』によれば、1522年に宮古島の仲宗根豊見親(なかそね とぅゆみゃ)が尚真王に献上した刀とされる。  拵と刀身は日本製。刀身は平造りで無銘。鞘は黒漆塗り、柄は黒漆塗りに鮫皮がほどこされている。小柄には瑞雲文様が表されている。  料群 国宝・琉球国王尚家関係資料 資料コード 05000084 サイズ 拵 総長73.6 刀身 刃長53.8 制作年代 拵17世紀 刀身15世紀 点数 1 ”

虞氏京阿波根親雲上(唐名:虞建極、生不明~1528年没)について琉球王国時代のかつての阿波根村は現在の糸満市字阿波根にある。同じ敷地内右側に[大宗銭原成阿波根里主直張]と左側に[大宗虞建極阿波根親雲上實基]の神屋(拝所)がある。

拝所にて筆者

大宗銭原成阿波根里主直張位牌とその直系の子孫は、領地替えにより大田の姓字になっている。                写真提供者 (花城 誠氏)

真境名安興 県史編纂資料那覇之部より

オヤケアカハチ・ホンカワラの乱と山陽姓一門の人々より         

6、『銭姓家譜正統』

琉球王国側の『銭姓家譜正統』(真境名安興 県史編纂史料那覇の部)の「一世直張る阿波根里主」の項には次のように記載されている(原文の読点は筆者)。

【要約】銭姓家譜 正統(大宗家)記録一世直張 阿波根里主

童名は真五郎、唐名は銭原、成化十五年戊戌(「成化十五年」は己亥で1479年、「戊戌」は成化14年で1478年)生父は兼ね間切阿波根村(現糸満市)の塩間母は何人の娘たるか知れず。

室は銭姓儀間親雲上銭広の娘真伊奴金。生まれた日は伝わらず、嘉靖19年己亥(「嘉靖19年」は庚子で1540年、「己亥」は嘉靖18年で1539年)9月8日に死す、号は亘。長男は直方。尚真王の世代(1477~1526年)琉球の支配する地である宮古・八重山の二島は、先王の察度王代(1350~95年)に来貢(1390年・宮古、八重山の中山入貢)して以来、毎年朝貢して怠けることなく、喜んで恭順の誠をほめ、属島ごとに(宮古・八重山にそれぞれ)酋長三人に官職を授けて島事を管理させた。かつ、人物がおとろえて去ったので(あるいは、死んだので)、島の酋長の職をかえた。ここにいたり、八重山島に逆心の悪人ありて謀叛を起こし、まず宮古島を攻めた。宮古島より先勝の報告が首里にあり、

尚真王の逆鱗にふれ王は逆徒征伐のために阿波根里主を九番の将に任じた。銭原は、士卒三千を率いて、弘治13(1500)年2月2日吉日を選んで那覇港を出航、即日慶良間に到り、五日に慶良間を出航して久米島に到り、十二日に出航、宮古島より八重山島に到る。凶徒を征伐べく官軍は進勇してはからいをもって逆党を討ち、石垣の在家に放火し(逆党は)その煙の下にたおれた。その勢いは破竹のごとし。時に老翁一人が軍門にくだり、これは保里川原赤蜂の在所であることから、隠れる所なきゆえ、身命を助けるために「首尽」を延べて誠を口す。これにより凱歌をあげ(戦いに勝ち)国帰りて復命するなり。

嘉靖二十二(1543)年二月三日に亡くなり、享年66歳、号は恵照【氏集 首里・那覇】(編集・発行 那覇市企画部市史編集室/昭和58年3月30日第2版発行(増補版))よりⅠ氏名索引の「銭」を検索し本文十八番(p75)2266 「大宗銭原成阿波根里主直張銭氏大田筑登之」と記載されている。

[銭氏阿波根里主直張](童名:真五郎、唐名:銭原成 1478年~1543年)は1500年[オヤケアカハチホンカワラの乱]に参戦しまた、[虞氏京阿波根親雲上實基](唐名:虞建極 生不明 1528年没)1522年与那国島「鬼虎征伐」に参戦した。「銭姓阿波根里主直張」と「虞姓京阿波根親雲上實基」の2人は尚真王(1465年~1526年)に仕え同一世代の人物で兄弟であると思われる。

1524年竹富島の西塘は出身地の皆治原に[八重山蔵元](政庁)を創建した。竹富島は八重山の島々の玄関口であり各島々への連絡に最適な場所である。北は石垣島、南は黒島西に小浜島、西表島、新城島、波照間島、与那国島がある。京阿波根親雲上實基は嘉靖年間(1522年~1566年)に出生した2人の子息がいることから京阿波根實基や西塘は与那国島[鬼虎征伐]に参戦したことがわかる。京阿波根親雲上實基は[鬼虎征伐]と[八重山蔵元]の創建に王府の命を受け二度派遣され来島している。

1522年~1524年まで宮古の豊見親は名刀冶金丸を尚真王に献上した。尚真王はその刀を京に行き磨ぎ清めて来るよう阿波根親雲上實基に命じた。實基は京に赴き名刀を研ぎ師に依頼した。研磨された刀を持ち帰った。ところが刀は偽物にすり替えられていた。尚真王は再度京に行き取り戻して来るよう實基に命じた。京に上り探し求めた結果宝剣を発見無事王府に持ち帰り任務を果たす事が出来た。その後京阿波根と呼ばれるようになった。
1528年(尚清王在位2年)に京阿波根親雲上實基は首里城内で暗殺された。

写真提供者 花城誠氏

京阿波根塚は首里城に上る綾門大通中山門に面し美連嶽の後方崖の下にある。竹富島出身の竹富頭西塘(童名:石戸、生寿不明)について西塘は尚真王の在位中に弁ヶ嶽や園比屋武御獄の石門を造っている。西塘が造ったと言われる、琉球王国時代の聖域だった弁之御嶽の大嶽石門

尚真王の在位中西塘が造った弁之御嶽の大嶽石門


弁が嶽を代々まもって来たノロの方から西塘が造った石門や弁が嶽、久米島、於茂登岳の神女が三姉妹だという說明を受けた。

西塘が造った世界遺産に登録された園比屋武御嶽の石門

1524年、西塘による武(竹)富大首里大屋子職を拝受、「八重山蔵元」創建について

1522年与那国島「鬼虎征伐」の2年後「西塘について」、石垣市教育委員会発行『石垣市史叢書 19ー球陽 八重山関係記録集(上巻)』(編集:石垣市教育委員会市史編集課/発行:2013年)に下記のように要約が書かれている。
一五二四年(尚真四八・嘉靖三・大永四)

3-11

3-12
16 八重山の西塘が初めて武富(竹富)大首里大屋子を授かる。
八重山の武富島に西塘という者がおり、その人となりは賦性俊秀で器量非凡であった。中山の大里らは、その才能が衆に秀出ているので、ついにこの人を連れて中山に帰り、西塘を法司(三司官)家に奉公させた。西塘は十余年を経て、朝夕怠らずによく忠節を尽くした。ちょうどその時に園比屋武嶽の石門を建築することになった。法司は彼が善巧精工であることを朝廷に奉した。すると西塘は抜躍して建造主取とした。西塘は、これをなすについて祈って言った。「私よくその仕事を竣えて功を上げて故郷に帰ることができれば、必ずやこの神を供養して、以て崇拝を致す」と。未だ数十日を経ないうちに、石門は完成した。首里に来てすでに二五年が経ち、暇をもらって故郷に帰ることになった。三司官は、その功績があることを国王に奉し、(国王)深く褒嘉して武富大首里大屋子職を授けた。八重山に帰り着くや、すぐに国仲の他に園比屋武神を勧請し、初めて崇拝をなした。これより今まで、竹富村の諸役人らは、元旦・冬至および元宵節のたびに、公職(蔵元)に集まり、遥かに中山に向かって恭しく国王の万福を祈り、その後、必ずここ(園比屋武神勧請地)にやって来て、国泰民安を祈り、後、全ての御嶽に行って祈祷した。

1524年、西塘により竹富島西海岸の浦皆冶原に創設した八重山蔵元(政庁)の跡 西塘御獄(ニシトウオン)

西塘と関わりのある火炎宝珠が配された坊主墓

写真提供 阿佐伊 拓(以下2点)

17 武(竹)富村の西塘が竹富大首里大屋子職を拝受、八重山に公倉(蔵元)を創建する。
八重山の竹富村の西塘は、竹富大首里大屋子職を拝受し、満挽与人を継いで八重山のことを掌った。(以前の中山は満挽与人を遣わして、八重山のことを治めさせた。この時になって、満挽与人を呼び戻し、彼の西塘を代わりにその職を任じさせた)。諸島の酋長は、ことごとく竹富島へ赴き、法令を聴いた。これにより、西塘は地を竹富島にトして蔵元を創建した。しかし後、西塘は竹富島は土地が狭く、人口が少なく、往還がなお不便であることから、蔵元を石垣島へ移した。最初は草葺きで建造し、風雨をさえぎるのみであったが、康凞三六年丁丑(1697)の春、蔵元を改修して瓦葺きにした。

尚真王世代の嘉靖年間の1522~26年の5年間に八重山では、1522年与那国島「鬼虎征伐」や1524年竹富島出身の西塘による竹富頭(竹富大首里大屋子)に任じられ竹富島の浦皆治原に「八重山蔵元」創建される。

1522年与那国島「鬼虎征伐」には西表島の西部の慶来慶田城(ケライケダグスク)用緒が当主八重山兼務の宮古の忠導氏正統仲宗根豊見親玄雅の依頼において琉球王国に忠誠を誓い、参戦し、1522~26年に論功行賞として父親が西表首里大屋子、息子の嫡子が与那国与人に任じられている。親子の二重の喜びを一族・一門の「錦を芳す」としている。また、竹富島出身の西塘も琉球王国から派遣された虞氏京阿波根親雲上實基と共に参戦したと思われる。
また、宮古の仲宗根豊見親玄雅の四男玄屯も父玄雅に従って参戦し、論功行賞として嘉靖元(1522)年に平良の頭に任じられている。2年後の西塘は1524年論功行賞として竹富頭に任じられ、「八重山蔵元」を創建した。その際に再度、虞氏京阿波根實基が派遣され来島した。その息子には嘉靖年間(1522~66年)生まれの上官姓大宗正廟、伯言姓大宗政通の二人がいる。以上のことから兄の大浜親雲上正廟(童名:真蒲戸)が1523年に生れと推察し、1576年に初代の大浜頭に任じられている。1586年に兄正廟の死去後に1525年生まれと推察した弟の伯言姓大宗大浜親雲上政通(童名:蒲戸)は二代目の大浜頭に就いている。また、伯言氏大宗大浜親雲上政通には男子がいないので1586年父虞氏京阿波根實基と王府同郷の久米村出身者を嗣子(養子)にして伯言氏二世政保(童名:五良志、生不詳~1624年卒)と名乗り、三代目の大浜頭を父の政通より引き継いで1604~12年まで就いている。

以上の1522~26年の八重山出来事は『家譜』や『球陽』から照合していくと整合する。八重山歴史に不可欠な基本的な史料『八重山島年来記』がある。それには系持ちが頭職に就いたとき、自分の一族について追加挿入されていることが多い。西塘の童名:石戸は17世紀ころまで長田大翁主(長栄姓一門)、那礼当(山陽姓一門)の子孫たちに継承されていない。西塘は子孫が断絶しているので『八重山島年来記』に書かれなかったかと思われる。

 1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」以後竹島を起点に宮古の仲宗根豊見親玄雅一族による八重山頭職時代、1522年与那国島「鬼虎征伐」、1524年竹富頭西塘により八重山蔵元(政庁)を創建し、1547年石垣島字大川本名村への移転をするまで八重山統治の中心地である。年貢米(米、粟)等の積み出しが出来るよう、八重山蔵元は岸若村にある 1624年キリシタン事件の主謀者本宮良頭永将の屋敷跡に1633年移転した。琉球王国は八重山蔵元を石垣島への移転に際し御使者を派遣している。14世紀中葉から16世紀までを「スク時代後期」と呼び八重山の歴史の中で一番華やかな時代である。

 

3-13-1 『元祖大新城親方安基』家譜より。

3-13-2

『元祖大新城親方安基』家譜の「一世安基大新城親方」の項に「嘉靖二十六年丁未(1547年)奉使到宮古八重山両訪定之制次年帰国」と記載されている。1547年竹富島の浦皆治原の「八重山蔵元」を石垣島の本名村へ移転の際に、琉球王国から御使者の毛氏大新城親方安基(童名:小太郎金、唐名:毛龍金、生年不伝~1577年卒)が派遣され来島、小浜島の百姓満慶の娘、美呂真を妾・(現地妻)にして初代の宮良頭の毛裔姓大宗宮良親雲上安英(童名:二千代、1547~1619年卒)が生まれている。
ちなみに、1619年明国との密(私)貿易の拠点の一つの山原(ヤマバレー)と荒川(アラカ一)のフカイという所にあった桴海村を大田兼久へ村の敷地を移した。琉球王国から梅氏二世亀千代大屋子宋榮(童名:亀千代、唐名:梅樹暢、1588~1678年卒)が派遣され来島、長栄氏四世石垣親雲上信名(童名:鶴千代、生寿不伝)の次女茂樽を妾(現地妻)にして梅公姓大宗崎原与人孫廣(童名:樽、1620~61年卒)が生まれている。梅公姓大宗孫廣は2代目の崎原与人職を嘉善氏五世宮良与人永定(童名:保久利思、1600~1638年卒)から引き継いでいる。また、梅公姓大宗孫廣の童名:樽は嘉善氏5世宮良与人永定の従兄で、初代の大浜与人の憲章氏三世大浜与人英政(童名:樽、生寿月日不可考)から受け継いでいる。母の茂樽(武樽、1592~1678年卒)は1638~1651年まで7代の大阿母(おおあも・ウフアム、八重山ではホールザーと呼ぶ)に就いている。

北からは大和(九州)の商人が当地の婦女子が好んだ勾玉やガラス丸玉を携え中国製の貿易陶磁の白磁、青磁、青花、鉄釉(南蛮陶器=方言 スビガミ)等を求めて来島し、また琉球王国の官船が朝貢物産を調達するため来島している。西からは中国福建沿岸海商らが中国陶磁を満載し、明国の海禁政策を侵してでも先島(宮古、八重山)の物産を求めて来島している。自由に私・密貿易が行われる仲介の舞台となった場所が宮古、八重山ではないかと思われる。
 スク時代後期から17世紀前葉までの遺跡のほとんどは海岸寄りの遠浅の場所に立地している。その理由と考えられるのは接岸交易でなく沖に停泊しての船上交易であったと考えられる。
竹富頭の西塘が石垣島で宿をとった場所は字新川慶田盛村の1576年任、上官姓大宗大浜親雲上正廟(童名:蒲戸、1532年生~1586年没)宅である。正廟の父は虞氏京阿波根實基である。1522年与那国島「鬼虎征伐」と1524年八重山蔵元を竹富島に創建するため琉球王国から二度派遣されている。彼はその間石垣島で2人の子息をもうけている。正廟宅周辺には、1500年「オヤケアカハチ・ホンガワラの乱」で殺害された石垣島美良底村の那礼当、川平村の仲間満慶山、波照間島の明宇底獅子嘉殿の子孫たちが島移りをし居住している。
 正廟宅は字新川真乙姥御嶽 ( マイツバーオン )の前にあり、前の道路は桃林寺や八重山蔵元に通ずる道である。屋敷内には八重山古謡に歌われた慶田盛ヌクンチェーマの村の共同の下り井戸があった。
また正廟家の周辺には1520年~1540年生まれの同一世代の方達が屋敷を構えている。西隣に四代・嘉善姓三世二代目の桴海与人永師(童名:石戸能、生年月日不詳)四代・憲章姓大宗 石垣親雲上英乗(童名:石戸能、生年月日不詳~1601年卒)三代・大史姓大宗初代古見与人高教(童名:真勢山、生忌年不詳)らが居住している。

 初代が琉球王国に忠誠を誓い論功行賞で系持ちになった方の世系図

 

 また後方には初代那礼当の五代山陽姓大宗、四代宮良頭長光の祖父三代美良底首里大屋子(童名:生寿不詳)、波照間島出身の明宇底獅子嘉殿の長男屋安古与人赤真屋(生寿不明)の子息三代長興姓大宗古見首里大屋子善安(童名:波智山=波照間島、生寿不詳)の父新城与人(童名:生寿不明)らが住んでいる。琉球王国八重山蔵元は朝貢物産、先島物産の豊富な地域である桴海村、古見村、新城村に取り立て役の地頭職を配置していることがわかる。

 これらの村は、現在廃村または過疎地域に点在している。
 慶田盛村では仲間満慶山の8人子息の一人であり四代・嘉善氏三世桴海与人永師の二男永恒(童名:満慶山、生寿不伝)が憲章姓大宗英乗の婿養子・英恒となり、古見首里大屋子に任じられている。英乗家から祖母鍋山、妻真比、娘鍋山が大阿母に就いている。八重山蔵元文書『八重山島年来記』には1589年の項に慶田盛村の童名いしとの石垣親雲上が頭職になると記載されている。
 
 また憲章姓大宗石垣親雲上英乗の死去後、英恒の兄嘉善氏四世永正(童名:保久利、1550年~1620年)が1601年に五代石垣頭職に就いている。また長興姓大宗善安の長女比戸那志・比登那志が山陽姓大宗宮良親雲上長光に嫁いでいる。また大史姓三世鬚川与人高起(童名:山戸生年不詳~1656年卒)の二女那部山・鍋山(1619年~1696年)が山陽姓二世宮良親雲上長重(童名:保久利思、1617年~1693年)に嫁いでいる。嘉善氏五世の二男は二代目宮良頭に就き、宮良親雲上永将(童名:ホクリムイ、生年不詳~1624年没)、三男は三代目宮良頭(1624年~1630年勤務)宮良親雲上永弘(童名:マセ、生年不詳~1635年没)六男二代目宮良与人永定(童名:保久利思、1600年生~1638年没)の三人の兄弟は南蛮貿易を求めて字登野城の岸若村へ慶田盛村から島移りをしまた、長興姓大宗善安は元祖明宇底獅子嘉殿の二男、新本与人古真屋(生忌日不伝)の子孫の松茂姓大宗新本与人當義(童名:美屋久、年月日忌日不伝)の前方に移っている。憲章姓四世英森(童名:満慶山、1602年~1642年没)は慶田盛村から、字大川本名村、八重山蔵元の西隣りへ島移りをし、1630年四代目大浜頭に就いている。

 山陽姓大宗宮良親雲上長光(童名:祖良廣)は字石垣の波揚名村の文林姓大宗黒島首里大屋子方因(童名:空広、生寿不可考)の東隣りに島移りをしている。
竹富頭の西塘(童名:石戸生寿不明)は錦芳姓大宗用緒嫡男の用庶と1522年「鬼虎征伐」に共に参戦し童名(石戸)が錦芳氏二世用庶に受け継がれている。
 八重山蔵元文書『八重山島年来記』の1477年の頃に慶来慶田城の摘子童名石戸の生まれた年である。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・略と記されている。
 
 嘉善氏三世桴海与人永師(童名:石戸能、生忌年月日不詳)憲章姓大宗石垣親雲上英乗(生年不詳~1601年没)錦芳姓四世西表首里大屋子用孫(童名:石山、1560年~1610年)、弟の与那国与人用在(童名:石戸、生忌不詳)、憲章姓三世古見首里大屋子英林(生寿不伝)、憲章氏三世嘉平首里大屋子英種(童名:石戸能、生寿不詳)、大史姓三世鬚内与人高起(童名:山戸、生年不詳、1656年卒)、大史氏四世波照間首里大屋子高根(童名:石戸能、生年不詳~1668年没)、岸若村に島移しをし1639年年に宮良与人に就いたと思われる建昌姓大宗廣教(童名:山戸、生寿不詳)らに童名石戸・石山・石戸能・山戸と一族(一門)だけに地域により(童名)が継承されている。童名石戸は慶田盛村に居住している嘉善姓、憲章姓、大史姓、慶来慶田城の一族に受け継がれていることが分かる。

同世代の西表島の慶来慶田城(ケライケダグスク)・錦芳姓大宗用緒(童名:眞茂能、生日忌日寿倶不伝)や竹富島の西塘(ニシトウ、童名:石戸、生寿不明)らの地域には1522年与那国島「鬼虎(ウニトラ)征伐」に関わったと思われる伝承などがある。『八重山嶋由来記』(1705年作成)・『琉球國由来記』(1713年)には「をはたけの祖納堂」が与那国島を討伐したと記載されている。

また、上勢頭亨『竹富島誌 民話・民俗篇(法政大学出版局/1976年)に「4 豊見親城と豊見親井戸の伝説」が記載されている。以上のことから1500年八重山頭任の仲宗根豊見親玄雅の二男・祭金(真列金)豊見親玄数や三男・知利真良豊見親=宮金氏元祖寛忠らの八重山頭時代の1523年まで竹富島を拠点に八重山を統治している。ちなみに仲筋井戸(ナージカー)に隣接した南のンフブフル丘から15~16世紀頃の中国製の貿易陶磁の青磁や褐釉陶器の碗・壺などを採集した。また「42 根原金殿と与那国島の伝説」で与那国島の征服の野望が記載されている。「をはたけ 祖納堂」大竹祖納堂儀佐(オオタケソナイドウギサ)や「根原金殿」(ネーレカンドゥ)も慶来慶田城や西塘の部下として1522年与那国島「鬼虎征伐」に参戦したと思われる。

童名(ヤラビナー・ヤーヌナー、沖縄ではワラビナー)の継承。

また、1522年与那国島「鬼虎征伐」、1524年「八重山蔵元」創建以後に宮古の忠導氏正統の仲宗根豊見親の童名:空広、西塘の童名:石戸、慶来慶田城(ケライケダグスク)用緒の童名:真茂能、上官姓大宗正廟の童名:真蒲戸、嘉善姓大宗永展の童名:真勢は親族、交流を通して名称が異なってはいるが八重山の系持ちへ継承されている。

(1).童名の真蒲戸・蒲戸の継承。

童名(ヤラビナー・ヤーヌナー、沖縄ではワラビナー)の真蒲戸・蒲戸の時系列継承関係は、琉球王国から派遣された久米村の虞氏京阿波根實基(童名:真蒲戸〈上官姓大宗正廟から推察〉、唐名:虞極建、生寿不明)の二人の息子兄・上官姓大宗大浜親雲上正廟(1523~86年卒)が童名:真蒲戸、弟の伯言姓大宗大浜親雲上政通(1525~寿不詳)は童名:蒲戸という名で引き継いでいる。
その後上官氏二世与人正信(童名:蒲戸、生不伝~1593年卒)、上官氏三世脇目差正枎(童名:真蒲戸、1592~1651年卒)、毛裔氏二世大浜親雲上安師(童名:真蒲戸、1602~74年卒)、岳章姓大宗崎原目差致崇(童名:真蒲戸、生寿不詳)、公孫氏二世鬚川仁也常富(童名:蒲戸、1614~忌日不詳)、山陽氏三世宮良親雲上長好(童名:真蒲戸、1627~94年卒)、長興氏三世善信(童名:蒲戸、生寿倶不詳)、上官氏五世花城与人正師(童名:蒲戸、1642~1730年卒)、文珪氏三世宮良目差師秋(童名:蒲戸、1645~1709年卒)、憲章氏六世竹富与人英寧(童名:真蒲戸、1657~94年卒)などと親族たちへ受け継がれている。

(2).童名の石戸・石山・石戸能・山戸の継承。

また、1524年竹富頭任・「八重山蔵元」創建の
西塘の童名:石戸である。同年代の西表島の西部の祖納集落(慶田城村)の住民の錦芳氏2世与那国与人用庶(生日忌日倶不伝)の童名が石山である。『八重山島年来記』には「成化十三丁酉(1477)年慶来慶田城の嫡子、童名石戸が生まれた年である。俗名は祖納当。のちに与那国与人と名乗る」と記載されている。
この童名の石山(石戸・石戸能・山戸)は1524年竹富頭任の西塘の童名:石戸から始まっている。錦芳姓一門では錦芳氏二世与那国与人用庶(童名:石山、生月日忌日壽倶不傳)から次年代の孫の長男で字西表の慶田城村居住の錦芳氏4世西表首里大屋子用孫(童名:石山、1560~1610年卒)、弟で次男の字石垣住民の錦芳氏4世与那国与人用在(童名:石戸、生年月日不詳)に受け継がれている。

仲間満慶山一族たちでは嘉善氏三世桴海与人永師(童名:石戸能、生忌年月日不詳)、憲章姓大宗石垣親雲上英乗(童名:石戸能、生年月日不詳~1601年卒)、建昌姓大宗宮良与人廣教(童名:山戸、生壽不詳)、嘉善氏七世大浜親雲上永善(童名:石戸能、1623~85年卒)へと継承されている。
字新川の慶田盛村の住民の大史氏三世鬚川与人高起(童名:山戸、生年月日不詳~1656年卒)、憲章氏三世古見首里大屋子英林(童名:石戸能、生寿不詳)、大史氏四世西表首里大屋子高根(童名:石戸能、1612~68年卒)らに継承されている。また、西塘の童名:石戸は石垣島で滞在の時に宿泊をした上官姓大宗大浜親雲上正廟(童名:真蒲戸、1523~86年卒)の子孫たちの字石垣居住の上官氏四世小浜与人正清(童名:石戸、生不詳~1672年卒)にも親族、交流を通して継承されている。この竹富頭の西塘の童名:石戸は居住地、年代、各一門(一族、沖縄では門中)によって名称が異なっている。

18世紀頃まで西表首里大屋子(イリゥムティシナバグ)・与那国与人(ユノーンユンチュ)・竹富与人(タキドゥンユンチュ)などの継承。

(1).18世紀頃まで西表首里大屋子(イリゥムティシナバグ)の継承。
18世紀頃まで西表島西部の統治・西表首里大屋子(イリゥムティシナバグ)は下記の通りである。1522年与那国島「鬼虎(ウニトラ)征伐」まで宮古島出身の忠導氏正統仲宗根豊親玄雅(童名:空広、天順年間=1457~64年生まれ~嘉靖年間=1522~66年卒)の次男で忠導氏二世八重山豊見親玄数(童名:祭金、成化年間=1465~87年生まれ、嘉靖年間=1522~66年卒)、三男の知利(理)真良豊見親・宮金氏正統寛忠(童名・生寿不明)らの一族が1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」で琉球王国の尚真王(1465~1526年卒)へ忠誠を誓い論功行賞で八重山頭に任じられている。この八重山頭は兼務職であり竹富島・西表島西部・与那国島を統治していたと思われる。
初代の西表首里大屋子は1524年任、1522~26年まで(尚真王世代の嘉靖年間)に任じられた慶来慶田城(ケライケダグス)=錦芳姓大宗用緒(童名:眞茂能=まんのう、生日忌日寿倶不伝)から始まる、2代が1556~66年まで任の錦芳氏三世西表首里大屋子用尊(童名:眞茂能、1577~99年卒)、3代は三世用尊の弟で1556~66年まで任の錦芳氏三世西表首里大屋子用信(童名:満能=まんのう、生忌月日不詳)、4代が1589~1619年まで任の錦芳氏四世西表首里大屋子用孫(童名:石山、1560~1610年卒)、5代は1641~43年まで勤務の錦芳氏五世西表首里大屋子用材(童名:眞茂能、1595~1653年卒)、6代が1644~58年まで西表首里大屋子勤務の嘉善氏五世西表首里大屋子永安(童名:茂志美、1587~1674年卒)、7代は1659~63年まで勤務の長栄氏七世石垣親雲上信明(童名:保久利、1629~99年卒)に継承されている。七世信明は1663年11代の石垣頭に就いている。8代が1662~68年任の錦芳氏六世西表首里大屋子用春(童名:樽、生年忌月日不詳)である。9代は1676~77年まで勤務の守恒氏二世大浜親雲上寛時(童名:保久利思、1637~91年卒)、10代が1677~80年まで勤務の長栄氏八世石垣親雲上信平(童名:鶴千代、1650~81年卒)、11代は1681~91年まで勤務の毛裔氏三世大浜親雲上安維(童名:蒲戸、1648~1706年卒)、12代が1691~99年まで勤務の大史氏五世西表首里大屋子高康(童名:津久利、1649~1718年卒)、13代は1699~1701年まで勤務の梅公氏二世宮良親雲上孫春(童名:保久利、1653~1709年卒)、14代が1704~1708年まで勤務の長栄氏八世西表首里大屋信茂(童名:保久利、1668~1708年卒)、15代は1708~1718年まで勤務の文琳氏五世西表首里大屋子方登(童名:祖良廣、1669~1718年卒)と西表首里大屋子が継承されている。(略)。

(2).18世紀頃まで与那国与人(ユノーンユンチュ)の継承。

1524年竹富頭の西塘(童名:石戸、生寿不明)により「八重山蔵元」(政庁)の創建から1897年廃止までの373年間を「八重山蔵元時代」という。この「八重山蔵元時代」の18世紀ころまでの与那国島の与那国与人(ユノーンユンチュ)の継承は下記の通りである。
1477年朝鮮国の済州島民3人が与那国島へ漂着する。西表島西部の祖納、波照間島、新城島、黒島、多良間島、伊良部島、宮古島、琉球国(沖縄本島)を経由して帰国している。これらの島々では頻繁な往来があったと思われる。1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」で論功行賞の兼務職(竹富島・西表島西部・与那国島)の八重山頭に任じられた宮古島出身の忠導氏正統仲宗根豊見親(ナカソネトゥユミヤ)玄雅一族が与那国島を統治していたと思われる。その後、1522年与那国島「鬼虎(ウニトラ)征伐」に当主の仲宗根豊見親玄雅から依頼を受け、西表島西部の慶来慶田城も親子(父の用緒、嫡子の用庶)で琉球王国へ忠誠を誓い参戦し、嫡子の錦芳氏二世用庶(童名:石山、生日忌日寿倶不伝)は論功行賞で1524年任、尚真王世代の嘉靖年間(1522~26年まで)任において初代の与那国与人に就いている。2代が尚寧王世代の万暦年間(1589~1619年まで)任の錦芳氏四世与那国与人用在(童名:石戸、生年月日不詳)、3代は蔡林氏二世与那国与人全恒(童名・生寿不明)が与那国与人を継承している。4代が不明、5代は1681~85年まで勤務の憲章氏五世与那国与人英玄(童名:津久利、1641~1708年卒)、6代が1685~93年まで勤務の嘉善氏五世石垣親雲上永恒(童名:石戸能、1657~1714年卒)、7代は1690~97年まで与那国与人勤務後の1697年に川平与人に任じられた上官氏五世川平与人正則(童名:祖良廣、1652~1715年卒)である。8代が1697~1700年まで勤務の嘉善氏八世与那国与人永明(童名:津久利、1670~1700年卒)、9代が尚貞王世代の康凞年間(1669~1709年まで)任の岳章氏三世与那国与人致寧(童名:蒲戸、順治年間=1644~61年まで生れ~1696年卒)、10代が1698年任の錦芳氏七世与那国与人用親(童名:真茂能、1656~1702年卒)、再度1701~14年まで勤務の上官氏五世与那国与人正則(童名:祖良廣、1652~1715年卒)、1709~10年まで勤務の益茂氏三世波照間首里大屋子里倉(童名:満慶山、1668~1723年卒)、1709~11年まで勤務の守恒氏三世西表首里大屋子寛隆(童名:思加那、1675~1719年卒)、1711~12年まで勤務の伯言氏三世宮良親雲上政茂(童名:嘉那、1670~1748年卒)らに受け継がれている。(略)

(3).18世紀頃まで竹富与人(タキドゥンユンチュ)の継承。

編纂史書『球陽』(1743~1876年)の1524年、八重山の西塘 武富大首里大屋子(竹富頭)を授かる。武富村の西塘、八重山に公倉(八重山蔵元)を創建す。以上のことから、西塘は王府から派遣された虞氏京阿波根親雲上實基(唐名:愚建極、生寿不伝)、慶来慶田城(ケライケダグスク・錦芳姓大宗用緒)、嫡子二世用庶の親子と一緒に1522年与那国島「鬼虎(ウニトラ)征伐」に参戦し、論功行賞で竹富頭に任じられ、また「八重山蔵元」を創建している。18世紀後半頃まで竹富島の統治は下記の通りに継承されている。1523年まで宮古島出身仲宗根豊見親玄雅一族の八重山頭が兼務で竹富島を統治し、1524年竹富頭の西塘(童名:石戸、生寿不明)に受け継いでいる。
竹富与人(タキドゥンユンチュ)は任不明・順不同の松茂氏三世竹富与人當永(童名:松、生忌月日不詳・※.『山陽姓大宗長光』家譜に「山陽氏二世宮良親雲上長重〈童名:保久利思、1617~93年卒〉の長女比登那志〈生没月日不詳〉が嫁于松茂氏(三世)竹富与人當永)と記されている。長女比登那志の弟が、長男長好(童名:真蒲戸、1627~94年卒)である。松茂氏(三世)竹富与人當永は1625年ころに生まれている。初代の竹富与人の1620年頃とは整合しない。初代の竹富与人と思われる方に任不明の嘉善氏竹富与人永安(童名・生寿不明)がいる。※.『錦芳姓姓大宗用緒』家譜に錦芳氏六世慶田城与人用見〈童名:鶴、1621~80年卒〉の四女伊加橋〈1663~1720年卒〉が嫁于嘉善氏竹富与人永安 離別)と書かれている。しかし、『現存する嘉善姓の全家譜』から「嘉善氏竹富与人永安」捜しを行ったら嘉善氏五世西表首里大屋子永安(童名:茂志美、1587~1674年卒)がいる。『五世永安小宗』家譜には「室が長栄氏(五世)大浜親雲上信行(童名:祖良廣、1589~1640年卒)の(長)女宇那利思(宇那利、1605~86年卒、9代大阿母=1652~69年まで)。尚寧王世代万暦二十一年(1593)巳の五月十五日、カタカシラを結い、名字不詳。尚賢王世代順治元年甲申(1644)任(西表)首里大屋子職歴年久遠官級位階不詳。同十一年甲午(1654)告老到仕。同十五年戌戍(1658)叙黄冠」という内容で記載されている。五世永安は1644年に錦芳氏六世慶田城与人用見の父錦芳氏五世西表首里大屋子用材(童名:真茂能、1595~1653年卒)より西表首里大屋子職を受け継いでいる。五世永安の1644年以前役職は不明である。この不明の役職が1620~1643年まで初代の竹富与人に就いていた可能性がある。松茂氏三世竹富与人當永が二代の竹富与人に就いたと思われる。三代の竹富与人は任不明の徳容氏三世竹富与人為正(童名・生寿不明)受け継いでいる。※.『徳容氏三世為實小宗』家譜に徳容氏二世黒島首里大屋子為詮〈1607~67年卒〉の二男竹富与人為正)と記されている。※.『憲章氏三世英種小宗』家譜に憲章氏四世西表目差英勝〈童名:石戸能、1664~1738年卒〉の継室は憲章氏竹富与人英庸女鍋山〈康凞年間生月日及忌日不詳〉)と記載されている。四代の任不明の竹富与人を憲章氏竹富与人英庸が受け継いでいる。五代の竹富与人は1677年に上官氏五世竹富与人正舎(童名:保久利、1638~90年卒)が受け継いでいる。1684年任、六代の最後の竹富与人は憲章氏六世竹富与人英寧(童名:真蒲戸、1657~97年卒)に継承されている。『八重山島年来記』の1694年条には「竹富与人に不幸が続いたので、玻座真与人と改名された。つけたり。この時の与人は、大浜村の玻座真筑登之親雲上である。」書かれている。『憲章姓大宗英乗家譜』の六世英寧の項には「康凞三十三(1694)年甲戌為宰領公物事到干 王府発病不録」と記載されている。

1694年改名した初代の玻座真与人に任じられた長興氏四世玻座真与人善見(童名:兼山、1653~1740年卒)が1727年まで就いている。1728~33年まで勤務の錦芳氏八世玻座真与人用将(童名:樽、1683~1733年卒)がニ代の玻座真与人を受け継いでいる。三代の玻座真与人は1734年任の長興氏五世玻座真与人善宣(童名:松、1688~1734年卒)に継承されている。四代の玻座真与人勤務者不明、1740~49年まで勤務の松茂氏五世石垣親雲上當恒(童名:武義志、1693~1762年卒)に五代の玻座真与人職は受け継がれている。(略)

※ 参考文献                                                                                                                        ・「元祖大新城親方安基」。
・宮良当益先生所蔵の『伯言姓大宗政通』家譜。
・石垣市総務部市史編集室『石垣市史叢書 6』(石垣市/1994年)の「上官姓大宗系図家譜」。

 

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