Ⅰ-3.スク文化(11~16世紀)の交易の展開

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研究ノート01 八重山諸島のスク文化期における交易の展開史


Ⅲ.スク文化(11~16世紀)の交易の展開

八重山諸島では「○○○スク」と呼ばれるところにスク文化の遺跡が多く確認できる。石垣島、西表島、竹富島、小浜島、黒島、新城島(下地島)では、「〇〇〇スク」と呼ばれる一帯が多くあり、また、波照間島ではスクの語彙が変化して「〇〇〇シュク」と呼ばれる。「スク」には、「底」或いは「城」の字があてられている(沖縄県教委、1979a/1980/1994a)。また、宮古島や多良間島では野城遺跡、運城遺跡のように「○○○グスク」いう名称で呼ばれていて、「城」の字があてられている(沖縄県教委、1990a)。また、野面石積みの石垣屋敷跡は石垣島ではブスヌヤー(武士の家)、ブスヌヤシキ(武士の屋敷)、ブスヌヤマ(武士の山)、ブスヌヤーイシガキ(武士の家の石垣)、鳩間島ではブシンヤー(武士家)、新城島(上地島)ではニシヌブシヌヤー(西の武士の家)と呼んでいる(沖縄県教委、1994a)。石垣島では以前の集落跡を元○○○村などと呼び、また、与那国島や石垣島では、岩陰の外葬墓を大和墓(屋島墓)と呼んでいるが、このように呼ばれる場所の大部分が中世の村跡や墓地である。ちなみに、「元○○○村」は、沖縄本島では「○○○古島」と呼び、伊良部島や宮古島でも「○○○元島」と呼んでいる(沖縄県教委、1990a)。
これらの遺跡は、①立地場所(海岸寄りの海岸低地砂丘・石灰岩海岸段丘上・洪積世台地、内陸部の石灰岩上・洪積世台地)、②飲料水(流水、湧水、降り井戸、掘抜き井戸)、③共伴遺物(長崎産の滑石製石鍋、徳之島産のカムィヤキ、中国製の貿易陶磁などの有無や多少)、④遺跡の規模の大小、⑤伝承の有無、⑥文献の有無などの点で違いがある。こうした違いは地形的な条件、生業の違い(牧畜・農耕、交易)、時代的な変遷(定住・移住・集落終焉と住居の放棄)、さらに交易先などの相違によると思われる(大濵、1985/1996/1999/2008/2009b)。
このスク文化と接触・交易をした集団には、大和文化集団(九州海商)や中国文化集団(中国福建沿岸海商)などが考えられる(大濵、1985/1994b/1996/1999/2008/2009b)。
ところで、沖縄のグスク時代(11~16世紀)の遺跡から数多く発見される武器や武具(鏃、火矢、刀、弾丸、石弾、鎧、兜)は、八重山のスク文化期の遺跡からほとんど発見されていない。また、沖縄で広く見られる城郭・土塁・堀切などの防御的な施設も宮古・八重山にはない。ただ、スク文化の遺跡の立地場所(例えば石灰岩上)によっては屋敷の囲いの石垣がある。また、彼らの居住した場所から権力や富の象徴的な文物(例えば龍泉青磁の花瓶や大型香炉あるいは中国の元青花など)は出土せず、どのスク文化の遺跡からも画一的な生活用品で八重山では土鍋用の外耳土器(註6)(鳥居、1905/1922)、宮古は水運搬用の宮古式土器などや数多くの中国製の食膳具・貯蔵具の貿易陶磁などが出土している(大濵、2006)。近世にみられたマラリアの蔓延などもなかったと考えられる。それらのことが、誰もが頻繁に渡来してきた理由の一つであろう。ただし、スク文化の前期(11~14世紀)と後期(14世紀中葉~16世紀)では若干の相違が認められる(大濵、2008/2009b)。


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