Ⅰ-2.無土器文化の外来物との接触

Facebook にシェア
LINEで送る
このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket


研究ノート01 八重山諸島のスク文化期における交易の展開史

 Ⅱ.無土器文化の外来文物との接触

先島文化圏で外来品が初めて確認できるのは、7世紀ころからである。平安時代の663年、朝鮮の白村江の戦いで中国・唐の水軍に敗れた大和朝廷は、朝鮮半島から手を引き、遣唐使を通し唐の大陸文化を積極的に受け入れた。ところが朝鮮半島の新羅国との関係が悪化したため、朝鮮経由の北路(第1回630年~第7回665年の航路)では唐へ行けなくなる。
それに代わるルートとして開かれたのが南島路(現在の鹿児島県の坊津から奄美を経由して東シナ海を横断する航路)である。この南島路から遣唐使船(第8回702年~第12回752年)を唐へ渡航させている。このとき大和朝廷と南島の島々との間に、朝貢という政治的な形態の交流があった。南島の島々から大和朝廷へ、掛け軸の軸木や太刀の柄の材となる赤木、牛車の屋根に飾る材である檳榔(=クバ)、儀礼用の杯、螺鈿細工の素材貝のヤコウガイなどの南島ブランドや南島産物(威信財)を献上したといわれている(山里、1999/沖縄タイムス、2006)。
 『続日本記』の和銅7(714)年、12月の条に、奄美・信覚(しがき)・球美などの島民52名の来朝があったと記されており、通説に球美は久米島、信覚は石垣島ではないかといわれている(松田、1981)。7~9世紀中葉ころの無土器文化の終末期遺跡からは、唐代銭貨「開元通寶(註3)」(621年初鋳)が採集出土している。
  石垣島の南海岸の磯辺貝塚や東海岸の嘉良嶽貝塚群の北地点(写真1-中)、北海岸の吹通川河口貝塚(写真1-左)からは各1枚ずつ、西海岸の崎枝赤崎貝塚群(写真2-中、左)からは35枚、西表島の東海岸の仲間第一貝塚からは2枚で、計40枚が出土した(石垣市教委、1987/金武、2003/大濵、1999/2008)。その内、仲間第一貝塚より出土した1枚には、鋳造地・江南道福州の「福」という字が入っている(金武、1974)。これは、845年に補鋳された紀地銭とか会昌開元銭とか称される銭である(長井、1994)。
  また、船釘も1点出土している(註4)。西表島西北海岸の船浦貝塚の第Ⅱ層から鉄ノミ1点が出土している。放射性炭素年代測定法ではⅣ層が西暦420(±70)年、第Ⅱ層は西暦1,010(±60)年と、5世紀から11世紀ころの年代が比定されている(ピアソンほか、1990/『南島考古』編集部、1973)。

西表島西部の古墓からは伝世品と思われる唐代・9世紀の黄釉緑褐彩碗(註5)(長沙窯)2点などが断片的に発見されている。それらのことから7~9世紀中葉ころまでに唐や大和(九州)と我が南島の島々の間に一方的な交流関係があったと考えられる。つまりこの船釘、鉄ノミ・開元通寶、蛇紋岩製の卵形状石玉(写真2-左)、黄釉緑褐彩碗などの外来文物は、唐や大和との交易によるものでなく、漂着した遣唐船によってもたらされたと考えられる。すなわち高度な航海技術をもち大型化した木造船(森、1968/宇野、2005)が、これまで大海であった300kmの宮古凹地を初めて乗り越え、八重山の石垣島や西表島などの岬へ偶然に到達した。こうして八重山の無土器時代の人々は、北から渡来した外来文化と初めて接触した。ただし漂着した外来の人々は何らかの理由で全員死亡したのか、彼らが石垣島や西表島などへ定住した痕跡は残されていない。むしろ漂着付近の海岸低地砂丘に住んでいる無土器時代の当住人が、漂着物より外来文物を採集し、珍品・装飾品として居住地の遺跡内に持ち込んだものと思われる。なぜなら、外来文物に触れても依然として11世紀ころまでは大きな文化内容の変革はなく、狩猟・漁労の自然採集社会が続くからである(大濵、2008)。
(註3)
「開元通寶」は、唐の武徳4年から唐代末まで中国各地で鋳造され、広くアジア一帯に宋・元・明時代まで通用した。
崎枝赤崎貝塚群出の「開元通寶」35枚のうち、33枚は石垣市教育委員会の発掘調査で出土したものだが、筆者が崎枝赤崎貝塚群の西地点を踏査した際に一ヵ所から採集した厚手2枚があり、また同所から全研磨された蛇紋岩製の卵形状石玉1点を採集した。また、筆者の所蔵している「開元通寶」には、鋳造年代の異なる厚手や薄手がある。石垣島の東海岸・嘉良嶽貝塚群の北地点から薄手1枚、北海岸の吹通川河口貝塚でも厚手1枚、西表島の東海岸・仲間第一貝塚からも薄手1枚を採集している。(大濵、1999、p92・103・106・125・316/2008/石垣市教委、1987)
写真1
開元通寶(左より吹通川河口貝塚出土、嘉良嶽貝塚群出土、仲間第一貝塚出土)
写真2
蛇紋岩製の卵形状石玉、開元通寶(崎枝赤崎貝塚群の西地点出土)
(註4)
西表島の仲間第一貝塚の厚さ72cmのオリジナルの包含層から多和田眞淳氏によって船釘1点が出土している。(多和田、1956)
(註5)
沖縄における中国製貿易陶磁でもっとも古いものが、西表島古墓出土といわれている東京国立博物館所蔵の9世紀唐末五代の黄釉緑褐彩碗(長沙窯)の2点である。この黄釉緑褐彩碗が西表島のどこで発見されたかを明確にすることが重要であるということで出土地点に関する情報の入手に努めた結果、西海岸地域の古墓から出土したものらしいことがわかった。1977年12月、筆者の案内で三上次男青山学院大学名誉教授を中心に田村晃一教授や当時祖納診療所の下田正夫氏にお世話になりながら、西海岸地域のフィールドワークを行った。その結果、白浜集落の対岸にある内離島の牧場を整地した際に石墓の中から副葬品として発見されたのではないかということがわかった。この墓主が黄釉緑褐彩碗を祖先の授かりものの家宝である一つの伝世品として副葬したものと思われる。現存する家譜を精査したら墓の人物は17世紀頃の琉球王国の役人・漂流者の子息で蔡林姓大宗成屋与人全備 (童名 ・生寿不明) だと思われる。(東京国立博物館編、1978/青山学院大学調査団、1987/大濵、2008/2009b)


研究ノート01 八重山諸島のスク文化期における交易の展開史

Facebook にシェア
LINEで送る
このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket