Ⅴ. 八重山系の家譜(大宗・小宗)の出自について。ノート5

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八重山系家譜(大宗・小宗)の出自について


1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」に琉球王国へ忠誠を誓った石垣島出自のイ.長田大翁主、ロ.那礼当、ハ.仲間満慶山、波照間島出自のニ.明宇底獅子嘉殿らの子息たちを八重山の役人(頭・首里大屋子・与人・目差・他)に抜擢している。

Ⅰ.1500年「オヤケアカハチ(遠弥計赤蜂=於屋計赤蜂)・ホンカワラ(堀川原=保武川=保里川原)の乱」の各史料旧記から当時のいきさつを推察すると、およそ次のようになる。
 
宮古・八重山は1390年、琉球王国に入貢以来、恭順(きょうじゅん)する態度をとっていた。琉球王国への入貢の負担が厳しいため、ついに入貢のやり方に不満を抱いた大浜村のオヤケアカハチ・ホンカワラ(親子)は謀反を企て、貢物を3年間止め、他の酋長らに自分に従うようにと呼びかけた。石垣島の那礼当(ナレイトウ)・那礼重利(ナレカサナリ)、仲間満慶山(ナカマミツケイマ)、波照間島の明宇底獅子嘉殿(ミウスクシシカドン)らはオヤケアカハチ・ホンカワラの親子に従わなかったために殺された。
こうして琉球王国への反旗を揚げ、石垣島の大浜、南海岸、北海岸、波照間島へ勢力を拡大する中で、オヤケアカハチ・ホンカワラの親子らは宮古島を攻めた。これを知った琉球王国の尚真王(1465~1526年卒)は逆鱗(げきりん)し、大里大将はじめ銭原副大将(安波根直張、童名:真五郎、唐名:銭原、1478~1543年卒)ら9人の武将に命じ、3000余人・大小46隻の大船団を組み、1500年2月2日吉日を選んで那覇港を出港、その日のうちに慶良間島に至り、5日に慶良間島を出航して久米島に至り、12日に出航、宮古島の仲宗根豊見親玄雅(ナカソネトゥユミャゲンガ)を先導に任じ、多良間島の土原豊見親春源(ウンタバルトゥユミャシユンゲン)を水先案内にして、宮古島から八重山に至った。
この時、久米島の神と八重山の神とは姉妹であるので、久米島の君南風(チンペー・きみはえ)が従軍したならば八重山の神は信服するだろうとの神託があったので、君南風のほか宮古の砂川の姉アブガマ・妹コイガマなどの祝女10数人が従軍した。これに長田大翁主(ナータウフーシュ)も加わった。
オヤケアカハチ・ホンカワラの親子らは北を険岨に負い、南も大海に面した要塞に防備を固めていた。数10人の呪力をもった神女らによって、奇声の大声による呪い合戦が繰り広げられた。この呪い合戦でも両軍引けを取らない膠着状態が続いた。琉球王国軍の久米島神女チンペー(君南風)に奇策の託宣があった。早速琉球王国軍は、いかだを作り、竹や木を乗せて火を放ち、夜中に流す陽動作戦にでた。この陽動作戦によってオヤケアカハチ・ホンカワラは、惑わされて火の流れる方に兵を動かしたすきに、琉球王国軍は二手に分かれ一隊は登野城方面から、他の一隊も新川方面から上陸し攻めた。この陽動作戦や奇襲攻撃によりオヤケアカハチ・ホンカワラは大敗し、家々は放火され、オヤケアカハチ・ホンカワラの親子は捕らえられて処刑された。

【大濵永亘説】八重山の島々のスク時代(11世紀~16世紀ころ)の遺跡を踏査し1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」を下記の通り推察した。自著『オヤケアカハチ・ホンカワラの乱と山陽姓一門の人々』(2006年1月)より。

  • 筆者は八重山のスク時代(11世紀から16世紀)の後期 (14世紀から16世紀) は、中国の明国の解禁政策化の中で中国海商らのジャンク船が来島し、各村々を回航しながら八重山の人々と自由奔放に密(私)貿易を行った。その密貿易の結果、スク時代の遺跡から膨大な中国製貿易陶磁(白磁、青磁、染付〈青花〉、褐釉陶器)が出土する。また、1452年解禁政策違反で、琉球(宮古・八重山も含む)に赴き、密貿易を行っていた中国海商らが中国の沿岸で捕獲されたことに注目して「中国海商らとの密貿易が拡大していく状況で、アカハチを中心とする八重山勢力が組する大和の密貿易集団と、琉球王国(王国の息のかかった宮古の仲宗根豊見親頭一族などを含み)との間の利害の衝突が八重山征伐(オヤケアカハチ・ホンカワラの乱)の直接原因だったのではないか、というのが著者の想定である。また、中国の明太祖から琉球王国へ倭寇(密貿易)取締まりなどの要望があり、それらがオヤケアカハチ・ホンカワラの乱=八重山征伐に大きく影響を及ぼしていたのではないか。琉球王国が貿易の富を独占したいがため、日本の交易集団の取締まりを強化していくなかで起こった事件ではなかったのか、と考えるのである」と指摘した(拙著『八重山の考古学』1999年)。また、オヤケアカハチ・ホンカワラについては『八重山島年来記』の弘治13庚申(1500)年の項に「(略)大浜村赤蜂堀川原与甲弐人之者(略)」と記載されている。オヤケアカハチ(赤蜂)・ホンカワラ(堀川原)の乱後の論功行賞に長田大翁主(長栄姓大宗信保)の長男・信休が尚真王世代の弘治年間(1500〜5年)にオヤケアカハチらの支配していた字大浜・大城村の与人の役職に就いている。以上のことから、長田大翁主一族も宮古の仲宗根豊見親玄雅一族のように親子で琉球王国に忠誠を誓い、オヤケアカハチらと参戦したと考えられる。伝承によると、オヤケアカハチと長田大翁主は波照間島出身で竹馬の友ともいわれ、同一世代の人物であることから、オヤケアカハチらも親子で琉球王国に参戦したと考えられる。波照間島ではオヤケアカハチと呼ばれていることから、字大浜に島移り後のオヤケアカハチと古乙姥の子供がホンカワラと考えられる。

また、波照間島のオヤケアカハチ生誕地から採集される鉄滓や16世紀頃の中国製の貿易陶磁器(青磁、褐釉陶器、染付)などが、オヤケアカハチが島移りした字大浜の崎原御嶽一帯からも採集される。崎原御嶽は、ビルマクイ、幸地玉金の二人の兄弟によって鉄製農具を薩摩(鹿児島県)の坊津から導入したといわれている。オヤケアカハチ、ホンカワラとビルマクイ、幸地玉金は同一世代の人物であると思われる。

この件について、宮地檀子氏は「……崎原御嶽のトゥニムトゥである岳昌氏には、赤蜂の子孫であるという秘かな伝承がある……」(『八重山文化論集』1980年第2号「岳昌氏の出自―家譜の研究の一試論―」)と述べている。親子と思われているオヤケアカハチやホンカワラと兄弟といわれているビルマクイ、幸地玉金は同一人物と思われる。

この「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」の時代は、八重山のスク時代(11〜16世紀)に明国と自由奔放に私(密)貿易を行っていた八重山歴史のなかで一番華やかな最盛期の時代である。また、原始社会から階級社会萌芽期の時代でもある。アカハチらの乱の要因は、オヤケアカハチと長田大翁主(長栄姓大宗信保)、那礼当(山陽姓大宗長光の先祖)、那礼重成、仲間満慶山(嘉善姓大宗永展の父、憲章姓大宗英乗の曽祖父)、明宇底獅子嘉殿(長興姓大宗善安の曽祖父、松茂姓大宗當義の先祖、大史姓大宗高教の祖父)らの勢力争いがあり、また、アカハチらが八重山をまとめて宮古を攻めたこと。一方、琉球王国が本島を統一し、離島を含めて中央集権化を推し進めようとしていたこと。さらに、琉球王国が宮古・八重山における明国(中国)との私(密)貿易の富を独占したいためなどが上げられる。琉球王国は宮古の仲宗根豊見親一族とくみして八重山を平定した。1390年から琉球王国へ不定期かつ儀礼的に入貢し恭順するという貢納制関係から、1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」以後は直接支配・統治が行われた。ここに琉球王国の尚真王を頂点とした中央集権体制が完成した。地方行政組織が整備され、琉球王国に忠誠を誓った方々には論功行賞として当地(宮古・八重山)の行政の役人に抜擢した。

また、琉球王国の安泰(儀礼・祭祀)と完納(豊作・豊穣)を祈願する神女組織の祭祀機構の整備・統一がなされた。各村々には、御嶽の祭祀を司どる司を配置し、これらの司を統率したものが大阿母であり、琉球王国が任じた。自由奔放に行われていた明国の中国海商らと私・密貿易が漸減し、各地に点々とあった集落の統治が円滑に行われるように集落の再編成・統合がなされた。1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」以後、琉球王国による先島の支配が強化された。

Ⅱ.琉球王国に忠誠を誓い参戦し、1500年オヤケアカハチ・ホンカワラの親子に殺害された石垣島の美良底村の那礼当・那礼重利、川平村の仲間満慶山、波照間島の波照間村のシシカトノ(明宇底獅子嘉殿)などが『山陽姓大宗長光』家譜の序文にも書かれている。この史科は、石垣市総務部市史編集室の『石垣市史叢書6 山陽姓大宗系図家譜』(1994年/石垣市)に要約が下記のように記載されている。

【要約】-『山陽姓大宗系図家譜』(山陽姓家譜序)
那礼当は、弘治年間(1488~1505年)の尚真王の世代(1477~1526年卒)に、石垣島の大浜村の赤蜂・堀川原という2人の賊党が王府に対して逆心を企て、4か年間年貢上納を止め、島民を全部協力させた。当時、島の長者である長田大父および那礼当・那礼重利、川平村の仲間満慶山、波照間村のシシカトノなどの五人もまた協力をうながされたが、あえて従わなかった。それゆえ赤蜂らは深くねたみ、殺害しようとの悪計は数度におよんだ。ついに那礼当・那礼重利・仲間満慶山・シシカトノの4人は、赤蜂の毒手にあった。長田大父は方々に逃げ隠れてようやく危難をまぬがれた。ちょうどその時、国王はその事情をお聞きになり、すぐ軍船を仕立てて派遣した。その時、長田大父はこおどりして喜び、古見を出て征討の軍船を迎えた。将士は勇み進み、案内者として赤蜂らの賊党を討ち平らげた。長田大父の妹、古乙姥は赤蜂の妻なので夫とともに討ち亡ぼされた。そして部下の逆徒もすべて降服し、島中はおだやかに治まった。また長田大父の妹、真乙姥は節義を守り主君のため、撰金(エラビンガニ)の神女と名乗り、軍船に登って、「王軍を守るべし」との神の託宣を将士に告げた。なお、美崎神山に伏し籠り、断食して一週間祈願した。願意は天神に通じ、四六隻の軍船は海上を平穏に航海して、同時に那覇港に着いた。神の冥護を感じないことがあろうか。よってこの2人の忠節のほどを国王は大いにほめた。褒美として長田大父を八重山の頭職に任じ、真乙姥は大阿母職を賜わるという大きなめぐみを蒙むり、感激することきわまりなかった。八重山の頭職および大阿母職は、これより始まった。
那礼当ほか3人の苦戦苦闘、忠死の事情は国王がお聞きになり、深くお憐れみになった。その勲功で那礼当の幼子は美良底首里大屋子職に、仲間満慶山の男子8人ともに首里大屋子役に、シシカトノの男子3人は与人役に、女子3人は女頭職に仰せつけられる幸せを蒙った。この上ない名誉で不朽にして今に伝わる。よってとりあえず、見聞した古い伝えを記し、そうして後の識者をまつものである。

このように『山陽姓大宗長光』家譜の序文をみると、1500年大浜村の赤蜂(オヤケアカハチ)・堀川原(ホンカワラ)の2人(親子)は、島民が一致協力し、琉球王国へ対戦するように兄の長田大父(長田大翁主、ナータウフーシュ)、那礼当(ナレイトウ、那礼塘)、弟の那礼重利(ナレカサナリ、那礼嘉佐成)、川平村の仲間満慶山(ナカマミツケイマ)、波照間村のシシカトノ(明宇底獅子嘉殿、ミウスクシシカドゥン)らの5人にも依頼をしている。しかし、那礼当ら5人はオヤケアカハチらの参戦の依頼を断ったため、那礼当、弟の那礼重利、仲間満慶山、シシカトノらの4人がオヤケアカハチ(遠弥計赤蜂=於屋計赤蜂)・ホンカワラ(堀川原=保武川=保里川原)の親子に殺害されている。また、『山陽姓大宗長光家譜序文』には西表島の西部・有力者長老の慶来慶田城(ケライケダグスク、錦芳姓大宗用緒)の名前が不可解な出来事だけど一切記載されていない。
この『山陽姓大宗長光』家譜の序文の中で、オヤケアカハチ・ホンカワラの親子に殺害された那礼当、弟の那礼重利ら以外の川平村の仲間満慶山の子息男子8人兄弟ともに首里大屋子役、波照間島のシシカトノ(明宇底獅子嘉殿)の子息3人兄弟は与人役に就いたと記載されている。この仲間満慶山の子息8人首里大屋子役、シシカトノ(明宇底獅子嘉殿)の子息3人兄弟の与人役に就いた11人の子孫の後裔者は誰なのかが問題である。

Ⅲ.長栄姓大宗信保、山陽姓大宗長光の元祖那礼当の子孫たちについて。

また、『八重山島由来記』、『長栄姓大宗信保』・『山陽姓大宗長光』家譜には石垣島出自の「長田大翁主・那礼当・那礼重成・真乙姥(マイツバア、真市)、古乙姥(クイツバア、古市)などの5人兄弟姉妹」と書かれている。しかし、長田大翁主の居住地・字石垣の長田堂村(石垣貝塚)、那礼当・那礼重成・真乙姥・古乙姥の住んでいた字新川の美良底村(ビロースク遺跡)、「八重山蔵元時代」(1524~1897年)に長田大翁主(長栄姓一門)、那礼当らの子孫たち(山陽姓一門)の居住展開(分家した小宗たち)において大きく相違している。
例えば1910年頃の「地籍者数」『石垣市史八重山史料集3 豊川家文書Ⅱ』(1997年/石垣市)に示された字新川の地籍者288の内、山陽姓一門は59人(30.4%)、長栄姓一門が6人(3%)いる。現存する分家した小宗家譜の字新川の所持点数においても山陽姓一門は14冊(『山陽氏3世長孝小宗・3世長安小宗・3世長明小宗・4世長延小宗・5世長岡小宗・5世長秋小宗・5世長寛小宗・6世長邑小宗・5世長京小宗・6世長敏小宗・6世長達小宗・7世長永・7世長顯・8世長格小宗』)、長栄姓一門が1冊(『長栄氏9世信庸小宗』)だけである。

『長栄姓・山陽姓両大宗』家譜からの親族関係は、山陽氏3世宮良親雲上長好(童名:真蒲戸、1627~1694年卒)の五女の真市金(1679年生れ~)が字石垣の長栄氏9世波照間首里大屋子真任(童名・生寿不明)に嫁いでいることから始まる。これまで長田大翁主と那礼当は兄弟と云われているが『長栄姓大宗信保』・『山陽姓大宗長光』両家譜より初代から6代までの戸主を挙げると下記の通りになる。

※.長栄姓一門の人々(字石垣の長田堂村→石垣貝塚)                       初代:始祖:長田大翁主=長栄姓大宗信保  (童名:真與蒲、生寿不伝)            2代:長栄氏2世大城与人信休(童名:保久利思、生寿不詳)
3代:長栄氏3世石垣親雲上信有(童名:祖良廣、生寿不伝) -        4代:長栄氏4世石垣親雲上信名(童名:鶴千代、生寿不伝)
5代:長栄氏5世大浜親雲上信行(童名:祖良廣、1589~1640年卒)  -6代:長栄氏6世大城与人信明(童名:福利盛、1636~1668年卒)。  (字石垣の長田堂村)

※.山陽姓一門の人々                                                                                                初代:那礼当(生年不詳 ~ 1500年卒)→山陽姓大宗長光の元祖・始祖。       (字新川の美良底村→ビロースク遺跡).                                                                     2代:美良底首里大屋子の (童名:保久利思、生寿不詳)                                   (字新川の慶田盛村→喜田盛遺跡).                      3代:美良底首里大屋子(童名が不詳:孫から童名を祖良廣と推察、生寿不詳) 4代:美良底仁也の保久利思4代:美良底仁也の保久利思(生寿不詳)
(字新川の慶田盛村)                          5代:山陽姓大宗宮良親雲上長光(童名:祖良廣、1589~1640年卒)。(字新川の慶田盛村→字石垣村の波揚名村)                6代:山陽氏2世宮良親雲上長重 (童名:保久利思、1617~93年卒)。 (字石垣の波揚名村)

上記より、2代の同一世代の童名(ヤラビナー・ヤーヌナー) の保久利盛(思)が長田大翁主(長栄姓大宗信保)の嫡子・長栄氏2世大城与人信休(童名:保久利盛、生寿不伝)、山陽氏の元祖・那礼当(生不詳~1500年卒)の嫡子・美良底首里大屋子の保久利思(生寿不詳)と同一の童名である。3代・孫たちの長栄氏3世石垣親雲上信有の童名が祖良廣(空広)である。同一世代の山陽姓大宗宮良親雲上長光(童名:祖良廣、1584~1661年卒)の祖父で3代の美良底首里大屋子、童名は不詳と書かれているが孫・大宗長光の童名:祖良廣から推察して祖良廣だったと思われる。この3代の長栄姓や山陽姓の童名:祖良廣(空広)は、1522年与那国島「鬼虎征伐」後に宮古の仲宗根豊見親玄雅の童名:空広(祖良廣)を引き継いでいることが分かる。また、この長栄姓や山陽姓の2代・6代の童名の保久利盛(思)=福利盛、3代・5代の祖良廣(空広)などから、その当時長栄姓や山陽姓の人々は石垣島・四か村出身で親密な関係であったことが分かる。
例えば上官氏2世小谷仁也正淹(童名:真牛金、万暦年間〈1573~1619年〉に生まれ~1586年卒)の長女、伊津思(1593年生まれ~)が文珪姓大宗宮良与人師春(童名:真牛、生年忌月日不詳)に嫁いでいる。夫の文珪姓大宗宮良与人師春は義父の上官氏2世小谷仁也正淹(童名:真牛金)から童名:真牛(真牛金)を受け継いでいることが分かる。
また、平得村出身の多田屋遠那理が那礼当の妹の真乙姥を助け、1502年初代の大阿母になっている。その後、大阿母には『長栄姓大宗信保』家譜に書かれている嘉靖年間(1522~1566年)に大阿母任の長栄氏3世(3代)石垣親雲上信有の長女、伊那千代と思われる。もし、伊那千代の4代世代年代が正しければこの伊那千代の同一世代には嘉善氏4世石垣親雲上永正(童名:保久利、1550~1620年卒)がいる。この家譜での伊那千代の4世(4代)世代の年代と大阿母の嘉靖年間(1522~66年)任が符合しない。大阿母伊那千代は一世代上の人物だと思われる。この伊那千代は、童名の継承や大阿母任から慶田盛村住民の仲間満慶山(生不詳~1500年卒)の子息8人の兄弟たちか、または孫たちに嫁いでから嘉靖年間の1522~1566年までに初代・大阿母(1502年任)の多田屋遠那理から受け継ぎ2代の大阿母になったと思われる。その後、『憲章姓大宗英乗』家譜には「慶田盛村住民の憲章姓大宗石垣親雲上英乗(童名:石戸能、生年不詳~1601年卒)の室・真比(生寿不詳)が万暦年間(1573~1619年)に4代大阿母に就いている。またこの4代大阿母真比の母である鍋山(生寿不詳)は慶田盛村の住民で万暦年間(1573~1619年)に3代大阿母に任じられた」という内容で書かれている。
慶田盛村住民の嘉善氏3世桴海与人永師(童名:石戸能、生忌年月日不詳)の次男永恒がインヤー(西の家)に住んでいる憲章姓大宗石垣親雲上英乗の嗣子(婿養子)となり、尚寧王世代万暦年間(1589~1619年)に2代の波照間首里大屋子に就いている。ちなみに憲章氏2世波照間首里大屋子英恒(童名:満慶山、生寿不伝)は、近所に住む大史氏2世波照間首里大屋子高集(童名:津久利、生享年月日不詳)より波照間首里大屋子を継承した。また、憲章氏2世英恒の室・鍋山は母真比より5代の大阿母を引き継いでいる。また、憲章氏2世波照間首里大屋子英恒の兄・嘉善氏4世石垣親雲上永正(童名:保久利、1550~1620年卒)が義父憲章姓大宗石垣親雲上英乗(童名:石戸能、生不詳~1601年卒)の告老致死後の1601年に51才で石垣間切の頭職を引き継いでいる。
以上のことから、美良底村(ビロ―スク遺跡)居住の那礼当(生不詳~1500年卒)の妹・真乙姥が長田堂村(石垣貝塚)の長田大翁主(長栄姓大宗信保)に嫁いだと思われる。長田堂村住民の長田大翁主(長栄姓)、美良底村住民の那礼当(山陽姓元祖)らは、同一世代で2代の子息・嫡子たちの長栄氏2世信休の童名:保久利盛が山陽姓の2代である那礼当の幼子の保久利思へと受け継がれたと思われる。この保久利思が石垣島の西南一帯の美良底首里大屋子に就いている。また、従兄弟の長栄氏2世信休は1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」後の尚真王世代弘冶年間(1500~1505年)にオヤケアカハチ・ホンカワラの親子らが統治していた東南一帯の大城村の与人に就いている。この童名(ヤラビナー)の保久利盛・福利盛(保久利思)、祖良廣から推察して、兄弟姉妹ではなく、真乙姥を通しての親族関係だったと思われる。この長栄姓・山陽姓一門らの親族関係は、居住地・分家(小宗)した子孫たちの展開、各世代のサイクル、童名(ヤーヌナー)や大阿母の継承関係がすっきりする。
石垣島の真乙姥御嶽の北側、美良底村(ビロ―スク遺跡・川花第1・2・3遺跡群)一帯に那礼当、那礼重成、真乙姥(真市)、古乙姥(古市)の4人の兄弟姉妹が居住していた。妹の古乙姥(古市)が字大浜の崎原村一帯に居住しているオヤケアカハチ(遠弥計赤蜂=於屋計赤蜂)に嫁ぎ、その嫡子がホンカワラ(堀川原=保武川=保里川原)であると思われる。また古乙姥の姉である真乙姥(真市)は字石垣の長田堂村住民の長田大翁主(長栄姓大宗信保)に嫁ぎ、その嫡子の長栄氏2世大城与人信休である。長栄氏2世信休の娘、真乙姥の孫娘である伊那千代が字新川の慶田盛村居住の仲間満慶山(生不詳~1500年卒)の子孫たちに嫁ぎ、嘉靖年間(1522~1566年)に2代の大阿母になったと推察した。
字新川の美良底村住民の那礼当(山陽姓大宗長光元祖)一族たちは妹の真乙姥、古乙姥を通して字大浜の崎原村居住のオヤケアカハチ(遠弥計赤蜂、於屋計赤蜂)、字石垣村の長田堂村住民の長田大翁主(長栄姓大宗信保)と親族関係だったと思われる。従って、長田大翁主の嫡子長栄氏2世大城与人信休、山陽姓初代・那礼当の嫡子・美良底首里大屋の保久利思、オヤケアカハチの嫡子ホンカワラらは従兄弟の親族関係であったと思われる。

Ⅳ.筆者(大濵永亘)は以前『川平村出身の仲間満慶山一族たち-嘉善姓一門と憲章姓一門の人々―』(2001年)、『オヤケアカハチ・ホンカワラの乱と山陽姓一門の人々』(2006年)と先島文化研究所から自費出版をした。その際に1910年に本家『憲章姓大宗英乗』家から発見された琉球王国へ請願の「口上覚」(1809年作成)には、下記のように要約・説明をしている。また、請願者の10名のうち、判明した方の名前、童名、生没年、住所、出典家譜名、屋号名などを筆者が記した。

【要約】-『口上覚』(請願書、1809年作成)
一、元祖は嘉平首里大屋子英極、童名は満慶山。父は元之主、母は嘉平村の仲間つかさ・かもい。
一、二代は嘉平首里大屋子英潔、童名は石戸能。
一、三代は嘉平首里大屋子英文、童名は真蒲戸。
一、四代は頭石垣親雲上英乗、童名は石戸能。
右、おそれ多いことではありますが申しあげます。憲章氏の元祖は、もと嘉平村におりました。
尚真王(1477~1526年)様の御代。
弘治年間(1488~1505年)、嘉平首里大屋子職にあり、そのころ八重山島大浜の赤蜂堀川原と申す者二人が謀叛を企てましたが、長栄氏元祖の頭石垣親雲上信保と同意して臣節を守りました。とくに首里大屋子は武芸を嗜んでいましたので、まず打ち殺さなくては島中が一心にならないと逆賊どもが計略をめぐらし、仲すみと申す所に寄り合い、島中願事の「饗動ふるまい」をもって招かれたので、注意もせずにでかけました。謀叛をすることなのでしきりに断り、上代にはわがままの挙動にて兵乱があり、御国元(首里)のお陰をこうむって以来は静謐に治まっていたが、謀叛を起こせば万民が騒動するのみならず、人は君がなければどうやって安堵いたすべきやと、(謀叛に)同意しなかった。そのため、殺害の企ても見えたので、その場を逃げ去りました。(逆賊の)野心はとまらず追いかけてきましたが、大勢を凌いで帰りました。途中、隠密に落とし穴を構えていたのを知らずに、亡くなってしまったということです。この時、御国元から討ち手の兵船が遣わされて謀叛を治め、右の臣節の次第を(国王が)お聞きになり、8人の男子に首里大屋子役を仰せ付けられたという家伝があります。しかし、系図家譜は(1771年の明和の大津波)で引き流され、確かな証拠がなくなったので、先だって(家譜を)組み立てた時、ぜひとも記載したいので大略の記録を記そうと思いました。これによりお願いしますのは、ふさわしいことかどうかおそれきわまりないことと思いますが、右のような臣節によって今まで家譜を続けてこられたのは、きわめて冥加は浅くない次第と思います。大宗系図には、四代頭石垣親雲上(童名:石戸能、英乗・生不詳~1601年卒)より元祖を召し立て、それより上の三代は記録があるだけで、後代になって元祖を忘却することにもなり、とりわけ黙止がたきことであります。何とぞ右の件についてご賢慮あそばされ、家伝のとおり元祖を組み立てるように命じていただきたいとお願いいたします。この旨をよろしきようにお取りなしくださいますようお頼みいたします。以上。
巳(1809年)十一月

憲章氏 耕作筆者 憲章氏9世盛(森)元仁也英普(童名:樽金、1775~1841年卒)
森元にや  字石垣86番地、『憲章氏7世英任小宗』(マイマージャンヤー)
同  波照間にや 憲章氏7世波照間仁也英舒(童名:金思、1758~1831年卒)
字新川233番地、『憲章氏5世英定小宗』(ティチキヤー)
同  杣山筆者    不明
黒島筑登之
同  若文子   憲章氏9世亀川仁也英匡(童名:思次良、1776~1839年卒)
亀川にや  字石垣81番地、『憲章氏7世英光小宗』(ホーンドゥヌジ)
同  花城目差  憲章氏9世花城目差英有(童名:真牛兼、1764~1814年卒)
字石垣79番地、『憲章氏7世英應小宗』(マイハテローンスンヤー)
同  与那国目差   不明
同  大筆者   憲章氏10世大筆者英暢(童名:智久利、1771~1810年卒)
字新川260番地、『憲章氏10世英暢小宗』(ハゾーンヤー)
同  伊原間与人 憲章氏10世伊原間与人英泰(童名:鶴兼、1740~1812年卒)
字石垣290番地、『憲章氏3世英政小宗』(マイノーランスンヤー)
同  新城与人    不明
同  桃原与人  憲章氏8世桃原与人英良(童名:蒲戸、1744~1813年卒)
字石垣86番地、『憲章氏7世英任小宗』(マイマージャンヤー)

この「口上覚」(請願書、1809年作成)には、不可解な出来事だが、請願者10名のなかに本家の字大川の『憲章姓大宗英乗』家(ダーナーヤー・田名仁也の家)の方がいない。もし、その記述が正しければ、仲間満慶山の父は「元之主」。母は嘉平村の仲間つかさの「かもい」である。また、1500年、大浜村住民のオヤケアカハチ(遠弥計赤蜂=於屋計赤蜂)・ホンカワラ(堀川原=保武川=保里川原)の親子に殺害された憲章姓の初祖・仲間満慶山は、元祖に位置付けられて英極(童名:満慶山)と名乗り、論功行賞で1488~1505年(尚真王世代の弘治年間)に琉球王国から嘉平首里大屋子(カビラシナゴーヤー)の役職に任じられている。憲章姓大宗英乗(童名:石戸能)は4代に位置付けられ、2代が嘉平首里大屋子英潔(童名:石戸能)、3代は嘉平首里大屋子英文(童名:真蒲戸)などと書かれている。これは、役職名「嘉平首里大屋子」、名乗頭名「初代が英極・2代は英潔・3代が英文」や童名の「初代は満慶山・2代が石戸能・3代は真蒲戸」などと記載されている。
この3代嘉平首里大屋子英文の童名:真蒲戸は、『憲章姓大宗英乗』家譜に憲章氏6世竹富与人英寧(1657~1694年卒)の童名が真蒲戸であると書かれている。この英寧の童名は母の10代の大阿母宇那利(1629~1707年卒)の父である上官氏3世脇目差・大浜仁也正扶(童名:真蒲戸、1592~1651年卒)から引き継いでいる。『口上覚』(請願書、1809年作成)はこの童名:真蒲戸(ヤラビナー・ヤーヌナー)を参照して推察していることが分かる。しかし、本家の『憲章姓大宗英乗』家譜の元祖・石垣親雲上英乗の項には「(略)父満慶山、長子嘉平首里大屋子童名佐嘉伊、長子嘉平首里大屋子童名満慶山家伝」と記載されている。初代が満慶山、2代は嘉平首里大屋子佐嘉伊、3代が嘉平首里大屋子満慶山と童名で書かれていて「英」の名乗頭字名がない。また、2代の『大宗英乗』家譜の佐嘉伊が『口上覚』(請願書)で石戸能と呼ばれ、3代の『大宗英乗』家譜の満慶山は『口上覚』(請願書)の真蒲戸と書かれている。
このように『憲章姓大宗英乗』家譜の本文の童名と1809年作成『口上覚』(請願書)の童名などが一致しない。また、仲間満慶山は那礼当、那礼重利や明宇底獅子嘉殿(獅子嘉・シシカトノ)と同様に1500年オヤケアカハチ(遠弥計赤蜂=於屋計赤蜂)・ホンカワラ(堀川原=保武川=保里川原)の親子に殺害されている。しかし、論功行賞では仲間満慶山だけが、この『口上覚』を見ると英極と名乗り、尚真王世代の弘治年間(1488~1505年)に蘇って嘉平首里大屋子になっている。この憲章姓元祖・仲間満慶山の子息・男子8人兄弟が首里大屋子に任じられている。しかし、次男から8男までがどこの首里大屋子に任じられたのか分からない。
本家『憲章姓大宗英乗』家では、憲章氏8世古見首里大屋子英等(童名:保久利、1707~1772年卒)の死亡後に願い出て、屋号ダーナーヤー(田名仁也の家)の憲章氏10世大浜仁也英所(童名:樽、1772~1809年卒)の長男の大浜仁也英美(童名:石戸能、1800~53年卒)が跡目相続を行っている。その際に憲章姓大宗英乗と元祖・曾祖父である仲間満慶山については、系図訂正を王国へ請願しようとした『口上覚』(請願書)が3部ある。いつ頃のものか不明であるが、1910年に憲章姓一門の系図調査中に発見されたという。『口上覚』(請願書)によると、憲章姓一門の人たちが、これまで英乗を元祖としていたが、満慶山以下三代が脱落しているので家譜を正したい、というもので「巳十一月」とあり、以下請願者10名の名が列記してある。これらの請願者の各役職を調べると、「巳十一月」は1809年のことではないかと思われる。
川平村の宇根家出自の嘉善姓大宗永展(童名:真勢、生忌月日不詳)は1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」のときに琉球王国へ忠誠を誓い、論功行賞で功労があったとして、1506~21年までの尚真王世代正徳年間に嘉平首里大屋子に任じられたことが家譜に記されている。仲間満慶山(生不伝~1500年卒)を祖とする憲章姓と嘉善姓との一門つながりの深さは、両者の家譜の童名(ヤラビナー、満慶山・石戸能)を詳細に調査することによって分かる。
嘉善氏3世桴海与人永師(童名:石戸能、生忌年月日不詳)の次男・嘉善氏4世永恒は、義父四代の憲章姓大宗石垣親雲上英乗(童名:石戸能、生不詳~1601年卒)の三代・祖父で嘉平首里大屋子満慶山(生寿不明)より童名の満慶山を受け継ぎ、憲章姓大宗英乗の一人娘、鍋山を娶り、憲章姓大宗石垣親雲上英乗の婿養子となって五代の憲章氏2世英恒(童名:満慶山、生寿不伝)と改名し、1573~1619年までの尚寧王世代万暦年間に波照間首里大屋子となっている。また、嘉善氏5世平良親雲上(友利首里大屋子職兼務)永政(1580年生まれ~不明)の童名も満慶山である。
『山陽姓大宗長光』家譜によると仲間満慶山の8人の子は首里大屋子職に任じられたとあるが、次男から八男までがどこの首里大屋子に任じられたのかは分からない。現存する家譜から当時の嘉平首里大屋子職に就いた者の名を調べると、川平村出身の憲章姓大宗英乗の二代・祖父で童名の佐嘉伊、嘉善姓大宗永展(童名:真勢、生忌不詳)の名が出てくる。これらのことから、満慶山の8人の子の一人が嘉善姓大宗永展ではなかったかと考えられる。
嘉善姓一門のマイカビランヤー(前川平与人の家)の川平永介氏(東京八重山文化研究会顧問)は、仲間満慶山の子息たち8人の首里大屋子(シナバグ)の一人が嘉善姓大宗嘉平首里大屋子永展だということについて、祖母の川平マイツ(1859~1936年卒)からよく聞かされたことを次のように述べている。
「ヤーヌ シナバグ デ アンギ 兄弟ドゥ ヤロッタ チョ(8人首里大屋子といって兄弟でいらっしゃったと)、嘉善氏―登野城ンガレー バギャードウ ヤームトゥ(嘉善氏は、登野城ではうちが本家だよ)、しっかりしなさいよ。」
1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」以後も、憲章姓と嘉善姓一門の人々は、西塘時代(1524~不明)に字新川の慶田盛村に隣接して居住し、また童名(石戸能・満慶山)の継承・名付け親や養子縁組など、より親密な親族関係を深めていて、川平村出自の元祖・仲間満慶山(生不伝~1500年卒)同一系統の一族だということが分かる。しかし、「八重山キリシタン事件」(1624~1642年)では、嘉善姓一族(一門)の5世の次男で2代の本宮良頭(1624年まで勤務)の永將(童名:ほくりもい、生不明~1624年卒)、三男の3代の前宮良頭(1624~1630年まで勤務)の永弘(童名:ませ、生不明~1635年卒)、六男・宮良与人(その前は崎原与人)永定(童名:保久利思、1600~38年卒)の3人兄弟が関わり、琉球王国や薩摩、幕府などに盾ついた大事件となった。
仲間満慶山の子息8人兄弟首里大屋子の一人である嘉善姓大宗嘉平首里大屋子永展は、1506~1521年までの尚真王世代の正徳年間に嘉平首里大屋子職に就いていることや嘉善姓大宗永展の童名(ヤラビナー・ヤーヌナー)の真勢が明宇底獅子嘉殿の孫たちの一人である慶田盛村の大史姓古見与人高教(童名:真勢山、生年忌日不詳)へ引き継がれている。また孫の一人である嘉善氏3世桴海与人永師、憲章氏大宗石垣親雲上英乗の童名:石戸能が竹富頭の西塘の童名である石戸をあやかり名として引き継いでいることから推察して1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」、1522年の与那国島「鬼虎征伐」、1524年の竹富頭の西塘の竹富島の浦皆冶原に「八重山蔵元」(政庁)を創建などに直接貢献・関わったと思われる。
これらの嘉善姓大宗嘉平首里大屋子永展の活躍や功績などについて、『中山世譜』や『球陽』、『琉球国旧記』、『八重山島大阿母由来記』、『八重山嶋由来記』、『八重山島年来記』等々に、一言も触れられていないのは、時代の下った「八重山キリシタン事件」(1624~1642年)の首謀者として嘉善姓大宗嘉平首里大屋子永展の子孫の3人兄弟(次男永將、3男永弘、6男永定)の波紋がそれだけ大きかったことを示しており、これらの史書編纂の際、「琉球王国・八重山蔵元」が意図的に削除したのではないだろうかと思われる。この仲間満慶山の子息8人首里大屋子。そのうち一人の嘉平村出身の嘉善姓大宗嘉平首里大屋子永展(童名:真勢、生日忌日不詳)、憲章姓大宗石垣親雲上英乗(童名:石戸能、生不詳~1601年卒)の祖父嘉平首里大屋子佐嘉伊(生寿不詳)と2人がいる。他の6人の首里大屋子の子孫の後裔者は誰なのかが問題である。

Ⅴ.筆者(大濵永亘)は、以前(2006年)『オヤケアカハチ・ホンカワラの乱と山陽姓一門の人々』(先島文化研究所)を自費出版した。その際に『八重山嶋由来記』(1705年作成)を下記のように要約し説明した。

【要約】-『八重山嶋由来記』
眞徳利御嶽 神  名 同上         此嶽屋あこ与人   波照間島
御いべ名 にしせるこひや    拝み初ると也
白郎原御嶽 神  名 同上         此嶽あらもと与人  波照間島
御いべ名 きやうもんかいもん  拝み初るとなり
阿幸俣御嶽 神  名 同上         此嶽かいしもる与人 波照間島
御いべ名 をたいしかいをもん  拝み初るとなり
右の三御嶽創建の由来は、むかし波照間島にメウ底オト、その女房ヤナシという夫婦がいた。
その子メウ底シシカトノ(明宇底獅子嘉殿)という者がおり、大浜村のホンカワラアカハチという者が謀叛して沖縄(=国王)にそむき、貢船を留め、島々所々の者と語らって討ってが来たら戦うべしと企て、方々へ触れわたした。その配下に入らない者は殺したが、シシカトノは忠義ふかい者で逃れ、(アカハチが)催促しても従わなかったので、平得村タケチヤ、大浜コルセという者を遣わし、波照間島へ渡らせた。シシカトノが磯辺に出て魚を捕っているところに、不意に使いが来て、「汝、アカハチに従わず、沖縄を主君というのは合点できない、そのようなことならば直ちに参って返答しろ」と、むりやり船に捕らえ乗せ、小浜の沖にて殺し、海に投げ捨てた。(大浜コルセが)石垣に着く前に、沖縄より兵船五〇艘が来て、彼の(アカハチの)一党をことごとく討ち亡ぼされた。彼のシシカトノの忠死が国王に聞かれて憐れみ、その子供6人を召して、兄赤マヤは屋安こ与人、二男コヤマは新本与人、三男ヲトウはカイシモル与人、女子カマタ・ホコヤ・コヤの3人は女頭に任じられた。父シシカトノの遺骸を探したが見つけられず、小浜島の潟にヒルギが一本、風も吹かないのに動くので、不審に思ってみると遺骨があったので、とりあげて波照間に葬った。これは忠義あるゆえと、沖縄に報告した。そのとき、かまた・ほこや・こやに右の御嶽の神がご託宣して、「汝ら守護のために天降りした」というので、与人たちをはじめ、そのほかの人々が謹んで礼拝し、御嶽を崇拝し、今まで続いているという。
また、歴史学者の原田禹雄氏『琉球国旧記』(2005年/榕樹書林)の「36 真徳利御嶽《威部名、西知頚屋乃殿》、37 白郎原御嶽《威部名、京門措門》、38 阿幸俣御嶽」の項に「要約」が下記のように記載されている。
《神名、三嶽とも同じ。威部名、遠泰志界遠屋茂。以上の三嶽は、ともに八重山波照間村にある》
弘治年間(1788~1505)、八重山の波照間島(ぱてぃろぅまずま)に、一組の夫婦がいた。夫の名を美宇底(めうすく)、也那志(やなし)といい、子供が生まれ、明宇底獅子嘉殿(めうすくししかどん)といった。この人は、生まれつき篤実で、常に忠義を貴び、みだりに事を行うことがなかった。
この時、保武川(ほんかわら)と赤蜂(あかはち)の2人は、中山に反乱した。急いで檄を各所に送り、兵士を集め、「中山の大軍が来攻して、われらの領土を侵略している。お前たちは、鋭気を振るい立たせ、速やかに出て戦うように」と、告げた。獅嘉殿だけは、その争いを避けて、波照間島にかくれていた。赤蜂は、平得村の嵩茶(たけちゃ)と、大浜村の黒瀬(こるせ)を行かせて、急いで獅嘉殿を呼んで、「獅嘉殿が中山に従い、赤蜂に従わないのは、きっと訳があってのことだろう。自分で(赤蜂の所へ)行って、その訳を言うように」と、告げた。獅嘉殿は、その時、海辺にいて、魚を釣っており、逃げかくれすることができなかった。(嵩茶と黒瀬は)獅嘉殿を捕らえ、小浜島の沖で殺し、海中に投げこんで、石垣へ帰った。その時、丁度、中山の戦船は、赤蜂を征統した。人々は、獅嘉殿が、節に殉じたことを、中山に報告した。深く哀れみを加え、長男の赤末屋(あかまや)を抜擢して、屋安古与人に任じ、次男の古末屋(こまや)は新本与人に任じ、三男の遠戸(おとぅ)は還室与人に任じられ、その3人の娘は、ともに女頭に昇任して、その忠義を顕彰された。人々を、あちこちに派遣して、広く獅嘉殿の遺骸を探させられたが、見つからなかった。たまたま、小浜島に着くと、海辺に一本の樹があった。風がないのに、樹がゆれていた。急いで行ってみると、その樹の下に、遺骸があったので、ただちに収容して、波照間に葬った。その後、三つの嶽(わあ)の神は、こう託宣された。「我は、人々を守護せんがため、時に天より降(くだ)りたり」そこで、与人たちは、尊信して神とした。

この三御嶽の真徳利御嶽(マートルワー)、白郎原御嶽(シィサバルワー)、阿幸俣御嶽(アバティワー)はピティヌワー(畑の御嶽・原の御嶽)と呼ばれ、波照間島にある最も神格の高い聖地である。
郷土史家・牧野清氏は『八重山のお嶽』(1990年/あーまん企画)の中で上記の『八重山嶋由来記』の記述は「この三嶽が1500年の、オヤケ赤蜂叛乱事件直後に創建されたことを物語るものであり、古いお嶽としては創建年代のはっきりした稀な例である。記録にあるように、このお嶽の創建は神託型で真徳利お嶽は長男・赤まや屋安古与人、白郎原御嶽は次男・こまやあらもと与人が、阿幸俣御嶽は三男・おとうかいしもる与人がそれぞれ拝み初めたということである。当時の琉球王府はめうししかとのの忠節をいたく褒賞し、その子女に対しては由来記に述べているように、種々の栄典を授与したもののようである。恐らく八重山での与人、女頭職の嚆失である」と述べている。また、郷土史家牧野清氏は「右三嶽は波照間島民信仰の中心をなすお嶽で、厳しいタブーの下に深い崇敬を受けている。その所在する地域は一般に、『ピティヌワー』または『パラヌワー』と総称されており、『至高の聖地』として一般島民は殆ど近寄ることさえ憚かっている。ピティヌワーには鳥居はない。この地に入域できるのは神司だけで、一般の人は年3回(旧暦2月・5月・10月)のメーフサイ(参道清掃)のときだけとされている」とも述べている。
これらの真徳利御嶽、白郎原御嶽、阿幸俣御嶽の御嶽が1500年「オヤケアカハチ(遠弥計赤蜂=於屋計赤蜂)・ホンカワラ(堀川原=保武川=保里川原)」の親子に殺害された明宇底獅子嘉殿の子息たちの長男・赤まや屋安古与人、次男の古まや新本与人、三男の遠戸(おとう)還室与人(かいしもるゆんちゅ)らと関わっている。以上のことから、『球陽』、『琉球国由来記』、『琉球国旧記』、『八重山嶋由来記』、『山陽姓大宗長光』などの史料旧記には、1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」に父の明宇底獅子嘉殿が琉球王国へ忠誠を誓ったために首謀者のオヤケアカハチ・ホンカワラの親子に殺害されている。父の琉球王国への忠誠証により論功行賞として明宇底獅子嘉殿(生不明~1500年卒)の子息3人兄弟が波照間島の与人職に任じられている。その子孫・末裔者が誰なのかが問題である。明宇底獅子嘉殿(シシカトノ)の子供3人兄弟たち捜しを行った。

Ⅵ.八重山系家譜について

家譜は一般に系図(キーズィ)とも称している。当初八重山では1500年「オヤケカハチ・ホンカワラの乱」に琉球王国に忠誠を誓った方々の子孫の家系に関する記録である。その一族・同族の血縁集団である家譜は姓(氏)の覆姓二字吉称文字の冠している。八重山で長栄姓、山陽姓、嘉善姓、憲章姓、長興姓、松茂姓、大史姓、錦芳姓などの姓は氏(ウジィ)と呼び、また、一族の血縁集団は一門(イチィムン、沖縄では門中)と呼んでいる。この一門(一族)には共通の姓と名乗頭字を用いている。例えば長栄姓は名乗頭字「信」、山陽姓が名乗頭字「長」、嘉善姓は名乗頭字「永」、憲章姓は名乗頭字「英」、長興姓が名乗頭字「善」、松茂姓は名乗頭字「當」、文林姓が名乗頭字「方」、大史姓が名乗頭字「高」、上官姓が名乗頭字「正」、毛裔姓は名乗頭字「安」などと特定されている。また、宗家(本家・大宗)や分家(小宗)において家譜が作成される。
沖縄本島では1689年に御系図奉行が置かれ、家譜の編集が行われた。八重山の家譜編集は、1729年に役人の申請によって許可された。「八重山蔵元」には系図座を創設し、役人を置き在番の認印を得て、蔵元と各家に一冊ずつ家譜が保管された。家譜は一般に系図に相当し、役人層である士族のみに許可されている。これは士族と百姓を明確に分ける身分制の確立であった。そのため士族のことを系持ち(ユカルピトウ)、百姓を無系(ブザー)とも言った。各系祖世代の各人の戸籍や履歴などが記録されている。家譜の内容には各家の世系図の巻頭には大宗以来の系統が図表され、大宗から何世云々と記録されている。
本文には「何世の名乗名」、その人の童名、号、排行(長男・長子=行一、次男・二男=行二、三男=行三)、生卒年月日、歳、行毎に、父、母、室(場合によって継室、妾など)名とその出自、子供達の名前(分家の場合その下に「別有家譜」)及び娘には生母と生年月日、嫁ぎ先名、当人の元服・結髪名(仁也名)、王代毎に、叙位、勲功その他士官模様などが克明に年号順に記録されている。
また、「八重山蔵元」時代(1524~1897年)の史記旧記である『球陽』、『琉球王国由来記』、『八重山島年来記』、『八重山島由来記』や『宮古系・八重山系の家譜』には、1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」に関わったと思われる人物や断片的に記載されている。
これまで筆者(大濵永亘)は八重山の考古学を勉強している。1985年9月10日から22日まで、八重山研究の父「喜舎場永珣研究資料展」(石垣市立八重山博物館)が開かれた。その節、多くの嘉善姓の方々がみえ、「自分のルーツがわからない。是非そのルーツを調べて欲しい」という声に接した。それを機会に家譜を精査・調査し、『嘉善姓一門と八重山歴史』(1988年5月24日/先島文化研究所)を自費出版した。嘉善姓一門方々の強烈な喜びの多くの顔があった。筆者にはやりがいがあった。またその機会に家譜に関心をもつようになり、『川平村出身の仲間満慶山一族たち-嘉善姓一門と憲章姓一門の人々―』(2001年/先島文化研究所)、母や祖母方の山陽姓一門の『オヤケアカハチ・ホンカワラの乱と山陽姓一門の人々』(2005年/先島文化研究所)に自費出版した。その際に、再度筆者は三間切(石垣・大浜・宮良)の頭職一覧表、大阿母職一覧表などを再確認した。1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」の論功行賞で譜代系持ち(士族)になった字新川の慶田盛村住民の那礼当(生不詳~1500年卒。山陽姓)、仲間満慶山(生不伝~1500年卒。嘉善姓・憲章姓)、明宇底獅子嘉殿(生不詳~1500年卒。長興姓・大史姓)らの子孫や新参系持ちで王府から派遣され来島した役人の子孫(上官姓・梅公姓)の家譜一覧表などを作成し前述べた論文などに寄稿し、この際に多くの家譜を閲覧した。
また、これまで八重山系の大宗(始祖・元祖)出自の大部分は1609年薩摩藩の琉球王国への侵略、1629年「八重山蔵元(政庁)」の25か村の石垣間切・宮良間切・大浜間切などの三間切への行政区域の位置づけなどにより統治機構を円滑に行うために、琉球王国が各村々の有力者や長老などの徳望家を出身地の村世人(役人、与人・目差)に抜擢した子孫や琉球王国からの派遣された役人たちとその子孫だと思っていた。また1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」や1522年与那国島「鬼虎征伐」で琉球王国へ忠誠を誓った石垣島の長田大翁主(長栄姓大宗信保)、那礼当(山陽姓大宗長光の元祖)、川平村の仲間満慶山(善姓大宗永展の父、憲章姓大宗英乗の元祖)、波照間島の明宇底獅子嘉殿(大史姓大宗高教の祖父、長興姓大宗善安の曾祖父、文林姓大宗方因の曾祖父、松茂姓大宗當義の元祖)、西表島の慶来慶田城(始祖の錦芳姓大宗用緒)たちの少数子孫たちと一緒に円滑な八重山統治が行われていたと思っていた。   しかし、現存する家譜に記された人物を出生・役職就任年を時系列的に列記し、1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」・1522年、与那国島「鬼虎征伐」や竹富頭・西塘時代(1524年から1550年ころ?)から1628年三間切の頭職の配置までの人物比定を行ったら大部分の大宗(始祖・元祖)が石垣島出身の長田大翁主、那礼当、仲間満慶山、波照間島出身の明宇底獅子嘉殿、西表島出身の慶来慶田城たちが尚真王世代(1477~1526年卒)の同一世代であることが判明した。これらの八重山出自の人々の子孫たちを「譜代系持ち」と呼び、ほとんどがこれらの譜代系持ちらとの関係のある子孫・末裔だということ分かった。

ちなみに、現存する家譜を時系列的に記載した。例えば17世紀前半(出生時・1629年生まれ)の小宗家譜である(55).3-②『錦芳氏6世用正(1629~88年)小宗』(3)と書かれた人物を説明したい。
今後家譜の新発見などで家譜の累計が若干増える可能性はある。最初の(55).は1629年出生時の大宗 ・小宗含めて八重山系家譜総累計は55冊で大宗家譜が33冊(60%)・小宗家譜は22冊(40%)である。
この(55).3-②『錦芳氏6世用正小宗』(3)は、時系列の現存する錦芳姓一門の家譜が3冊。西表島西部・慶田城村出自の慶来慶田城(ケライケダグスク=錦芳姓大宗用緒)の3–『錦芳姓大宗用緒』(1)の元祖=始祖・大宗家から分家し、②は別有家譜の本家から2冊の小宗(分家)である。(3)は、その当時錦芳姓の家譜が3冊(5)%となる。
また、八重山系の家譜累計の55冊(大宗33冊・小宗22冊)は、そのうち長田大翁主(長栄姓)の子孫が3冊、那礼当(山陽姓)の子孫は1冊、仲間満慶山の子孫たちの一人嘉善姓が4冊、憲章姓は5冊、有若姓・成功姓・戴長姓・文珪姓・建昌姓・守恒姓・益茂姓・永緩姓・永茂姓などが各1冊ずつと18冊(33%)となっている。また、1611年ころに薩摩藩の進言により系持ちになった字大浜の崎原村出自の岳章姓の子孫たちは1冊目である。石垣島出自の総家譜累計が23冊(42%)である。
また、波照間島出自の明宇底獅子嘉殿の子孫の家譜総累計は22冊(40%)である。そのうち大史姓が3冊、文林姓は2冊、長興姓が2冊、松茂姓は6冊、林松姓・忠温姓・忠順姓・徳容姓・公孫姓・順栄姓・公治姓・順天姓・登梯姓などは各1冊ずつとなる。西表島西部出自の慶来慶田城の子孫・錦芳姓が3冊(5%)、父・八重山出自の系持ちは家譜総累計48冊(87%)である。
また、父琉球王国から派遣の役人の子孫たちが7冊である。そのうち上官姓は3冊、伯言姓・毛裔姓・蔡林姓・梅公姓などは各1冊ずつとなり総累計7冊、13%となっている。

八重山系家譜の研究史
八重山系家譜の研究は下記の通りである。
(1).八重山研究の父と仰がれる喜舎場永珣先生は『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」のなかの姓氏67件を筆者が「名乗頭字」姓氏名(家譜所有者名)などを下記のように修正しまとめた。

イ.字登野城之部(17件)
①.名乗頭字「里」姓氏名→益茂氏(里宗家)、②.「善」→長興氏(平田家)、③.「当」→松茂氏(真謝家)、④.「常」→公孫氏(野崎家)、⑤.「広」→建昌氏(高宮家)、⑥.「紀」→松封氏(仲地家)、⑦.「忠」→朝勧氏(玻座真家)、⑧.「義」→容康氏(山田家)、⑨.「孝」→忠温氏(盛山家)、⑩.「盛」→毛孫氏(喜友名家)、⑪.「保」→戴長氏(小宗・保備家)、⑫.「由」→李順氏(田場家)、⑬.「由」→李山氏(田場由起家)、⑭.「良」→忠順氏(新城鉄三家)、⑮.「良」→馬氏(翁長家)、⑯.「良」→馬氏(仲吉家)、⑰.「全」蔡林氏→(小宗・桃原家)。
ロ.字大川之部(19件)
①.「直」→順天氏(西表家)、②.「英」→憲章氏(英芳家)、③.「安」→毛裔氏(池城家)、④.「寛」→守恒氏(崎山家)、⑤.「政」→伯言氏(宮良家)、⑥.「宜」→公治氏(宜有家)、⑦.「興」→雍長氏(興常家)、⑧.「為」→徳容氏(小宗・浦添家)、⑨.「得」→梁保氏(真志喜家)、⑩.「廉」→成功氏(小宗・池城家)、⑪.「康」→孟功氏(長嶺家)、⑫.「久」→青栢氏、⑬.「元」→豊有氏(翁長家)、⑭.「政」→東明氏(知念家)、⑮.「朝」→向倫氏(田島信一家)、⑯.「朝」→向長氏(宮良旅館)、⑰.「朝」→向栄氏(天久家)、⑱.「朝」→向仁氏(山里家)、⑲.「朝」→向氏(石垣朝英家)。
ハ.字石垣之部(11件)
①.「信(真)」→長栄氏(長田家)、②.「長」→山陽氏(兼本・宮良家)、③.「師」→文珪氏(竹島家)、④.「方」→文林氏(高嶺家)、⑤.「泰(寛)」→有若氏(小宗・玻名城家)、⑥.「喜」→李保氏(川上家)、⑦.「賢」→夏林氏(仲本家)、⑧.「秀」→葛孫氏(玉代勢家)、⑨.「兼」→葉茂氏(与儀家)、⑩.「眞」→麻枝氏(富村家)、⑪.「正」→胡福氏(山城正保)。
ニ.字新川之部(5件)
①.「永」→嘉善氏(石垣家)、②.「高」→大史氏(大浜高寛家)、③.「正」→上官氏(当銘家)、④.「孫」→梅公氏(渡久山家)、⑤.「昌」→楊秀氏(盛山家)。
ホ.西表之部(2件)
①.「用」→錦芳氏(慶田城家)、②.「泰」→有若氏(大宗・西表上原村)
ヘ.平得之部(2件)
①.「督」→多田氏(多田家)、②.「真」→麻支氏(喜屋武家)
ト.字大浜之部(2件)
①.「致」→岳章氏(桃原家)、②.「康」→永茂氏。
チ.字宮良之部(1件)
①.「実」→松林氏。
リ.不明(9件)
①.「実」→重喜氏(重喜氏儀保仁也実照、長女・伊清思)、②.「守」→孝祐氏(孝祐氏胡城仁也守清)、③.「頼」陽信氏→(陽信氏慶田城仁也頼安)、④.「胄」→李山氏(李山氏慶田城仁也胄日、二女・思津)、⑤.「稠」→恵倫氏(恵倫氏仲泊仁也稠久、女・早津)、⑥.「孟」季林氏(季林氏高那目差孟明、女・真和津)、⑦.「昌」文明氏(文明氏久手賢仁也昌忠・文明氏慶田城与人昌存)、⑧.「長」→明紹氏(明紹氏耕作筆者伊舎堂仁也長任・明紹氏長栄任石垣頭職)、⑨.「茂」→登梯氏(登梯氏平田目差茂生長女部那比戸) 。

(2).民俗学者宮良高弘先生は「家系からみた沖縄の社会組織」(編者窪徳忠『沖縄の社会と習俗』1970年/東京大学出版会)の中で一門制度形成の初期おいて、いかなるものを士族にしたかという大宗(始祖)出自を分類し、子孫を下記のような内容で位置づけている。
①.オヤケ赤蜂時代に中山(首里)王府に忠誠を誓った豪族とその子孫。
長田大主→長栄氏、那礼当→山陽氏、仲間満慶山→憲章氏、慶来慶田城→錦芳氏、波照間島→松茂氏
②.なんらかの功労があった徳望家とその子孫。
大史氏→黄金の箱を首里王に献上した功によって士族の身分を取得した。多田氏→大阿母の勲功によって陳情の結果、士籍へ昇格した。
③.在番ならびに検使(王府より派遣の役人)などの妾腹の子孫。
毛裔氏→首里王府毛氏大新城親方が使者として来島、妾との子孫。長興姓→尚清王(1532~53年)の第三子が革新的な思想を持っていたため八重山に流された人の子孫。夏林氏→八重山在番として滞在中に賄婦との間にできた大浜頭仲本親雲上賢永。

(3).歴史研究家の新城敏男氏は「八重山家譜覚」(『沖縄文化研究』9/1982年/法政大学沖縄文化研究所)」の「二.家譜の編成」の項で次のように述べている。八重山の系持は、ほぼ次の四つに分けられる。
①.オヤケ赤蜂時代に中山(首里)王府に忠誠を誓った豪族とその子孫、
②.なんらかの功労があった徳望家とその子孫。
③.在番ならびに検使(王府より派遣の役人)などの妾腹の子孫。
④.その他、である。
①.は土着の有力な一門を形成し『八重山歴史』附録の八重山頭職一覧表95人の内、長栄姓17人、山陽姓16人、嘉善姓11人、松茂姓7人、錦芳姓6人などはこれに属する。③.は近世中期頃から勢力を伸ばし、梅公姓6人、夏林姓5人、毛裔姓4人などの頭職を出しており、一門数では約半分を占める。

(4).郷土史家崎山直氏は「八重山系家譜について」(『沖縄の家譜-歴史資料調査報告書Ⅵ-』第90集/沖縄県教育委員会/1989年)の中で下記のように述べている。
新城敏男氏によれば、氏の管見された家譜からとして、その数525件にのぼるといい、天啓5年(1625)を初見として光緒5年(1879)に及ぶという。そしてその有効な活用を指摘しているのである。ところで「系持」と称される家譜所有者の八重山の諸家を、その出自からほぼつぎの3つ乃至4つに分類できるという。すなわち、
①.オヤケアカハチ時代、首里王府に忠誠を誓った豪族とその子孫、
土着の有力層:長栄氏、山陽氏、嘉善姓、松茂姓、錦芳姓
②.なんらかの功労のあった徳望家とその子孫、
大阿母の勲功による多田姓、「徳高き者」として伝えのある大史姓
③.在番並びに検使などの妾腹の子孫、
梅公姓、夏林姓、毛裔姓
④.その他
①.~③.いずれにも該当しない由緒のある家系として岳昌姓
これらのことは分類することの位置づけや意義とあわせ、歴史の上で検討しなければならない課題であろうと述べている。

八重山系の大宗出自の家譜研究は、先ずこれらの先学者(喜舎場永珣先生他研究者たち)の家譜研究を踏まえて、現存する大部分の家譜を精査し家譜に記載された人物を年代順に時系列に記した。これらの人物と思われる人々が『八重山島年来記』、『八重山島由来記』、『山陽姓大宗長光』の序文、憲章姓一門から『口上覚(請願書)』(1809年作成)、『慶来慶田城由来記』などの諸史料にも記載されている。
琉球王国は忠誠を誓っために殺害された那礼当、仲間満慶山、シシカトノら子息たち全員に論功行賞として系持ち・世人(大宗・始祖・元祖)に抜擢している。この子息たちの中で仲間満慶山の子息8人兄弟の首里大屋子たちやシシカトノ(明宇底獅子嘉殿)の子供男子3人の与人に就いた人たちの子孫(末裔者)が誰であるのか、実在した人物なのか、現存する家譜から時系列に列記した人物との精査検証を行い、該当する人物の比定を試みた。

また、八重山系家譜大宗(元祖・始祖)の出自の作成については下記の凡例・史料を参考した。
◎本書に使用する年号は西暦で統一した。
◎家譜からの写しなどの場合、複数回の複写や複写の際の誤写があると思われるが、特に人名については漢字として成立していないものも類依文字を記した。後日作字を行いたい。また、憲章姓一門の「口上覚」(請願書・1809年作成)などは約した。
◎本文内の引用文献のかっこ内は(発行年/発行者)とした。また、人名については西暦でかっこ内に(童名、生年~没年)を付した。例=山陽姓大宗宮良親雲上長光(童名:祖良廣、1584~1661年卒)。
◎家譜紛失や家譜所持者が不明・家譜未確認の際は名前後に(童名・生寿不明)と書いた。また、一門の名称の古い人物の世代サイクル20~30年前を出生、(大宗)とした。今後家譜が新たに確認されたら際に修正・挿入したい。
◎一門の名称は現存する家譜の多くを閲覧し、年代順に人物を時系的列記しながら、一族(一門)の覆姓二字近似吉称文字の冠している名称を同一元祖・始祖と推察、居住地、童名、役職、室の実家名、娘の嫁などから年代ごとの親族関係を考えた。
◎ヘ.琉球王国から派遣された役人たちの子孫で、息子で大宗の累計番号は( )に記した。しかし、大宗以外の息子や娘たちは見出のヘ.を○ヘ.にして子息の嗣子・居住者累計は[ ]、また、娘たちの累計は(  )とした。

◎『那覇市史 資料篇第1巻6 家譜資料二(久米村系家譜)』編集・発行 那覇市企画部編集室/昭和55(1980)年3月30日。          ◎『那覇市史 資料篇第1巻7 家譜資料三 (首里系家譜)』(編集・発行:那覇市企画部編集室/昭和57・1982年1月30日)        ◎『那覇市史 資料篇第1巻6 家譜資料四(那覇・泊系)』編集・発行 那覇市企画部編集室/昭和58・1983年3月31日)。                                ◎『氏集 首里 那覇』編集・発行:那覇市企画部編集室/昭和58(1983)年3月30日 第2版発行(増補版)。                ◎喜舎場永珣「3 姓氏一覧」『新訂増補 八重山歴史』(著者:喜舎場永珣/発行所:国書刊行会/昭和50・1975年12月20日)。                              ◎「梅公姓一門家譜」は我那覇孫著『元祖記並同系図』梅公姓系図家譜/太祖四百年祭典執行委員『太祖四百年祭典記念 梅公姓系図』昭和29(1954)年1月17日・梅公姓宗族會/牧野孫宣『梅公姓系図家譜小宗一第三世孫格系譜』(1987年1月/自費出版)を参照。
◎「文珪姓一門系図家譜」は『文珪氏5世師敏小宗』武島家に保管されている『文珪姓元祖並系図』に記載された戸主干支・享年から妻の実家・家譜に記載された生年などを参照して戸主の年代を目安として推察した。これらの家譜が実見された時に再確認・修正をしたい
◎「山陽姓一門系図家譜」が発起者・山陽氏9世宮良長英・山陽氏10世花城長勝、系図取調部兼訳者・山陽氏11世宮良長智謹書『山陽姓大宗・一門系図』/大正9(1920)年を参照。
◎「憲章姓一門系圖家譜」執筆者・喜友名英文『傳記-英傑仲間満慶山一仲間満慶山四百五十年祭記念誌一』・系圖編集・南風原英芳『憲章姓系図』昭和26(1951)年10月7日/憲章姓一門會を参照。
◎「長栄姓一門系図家譜」は調査収録者長栄姓第16世宮良信知『長栄姓門中系図集』(1965年/自費出版)、長栄姓第15世同門会長石垣信良『長栄姓系図』昭和51(1976)年を参照。
◎「錦芳姓一門系図家譜」は大浜用次編集『錦芳姓系図』(1966年/錦芳姓一門会)を参照。
◎「上官姓一門系図家譜」が上官姓系図編纂委員会『上官姓系図、附録―上官姓大宗大浜頭職正廟翁四百年大祭並生誕祝賀会記録-』(昭和46・1971年/上官姓一門会)を参照。
◎「大史姓一門系図家譜」は、大史姓家譜編集委員会『大史姓家譜』/昭和47(1972年9月)を参照。
◎「岳章姓一門系図家譜」が、宮地壇子「岳章氏の出自-家譜研究の一試論-」八重山文化研究会編『八重山文化論集<第2号>-創立十周年記念号-』(1980年)を参照。                                                                                             ◎高良倉吉「近世八重山派遣使者在番年譜」『沖縄史料編集紀要』第5号(沖縄県沖縄史料編集所編/1980年)。                             ◎『平良市史 第三巻 資料編1 前近代』編集:平良市史編さん委員会(編集:平良市役所 /発行:1981年)                  ◎『石垣市史叢書6 山陽姓大宗系図家譜 上官姓大宗系図家譜 長栄姓小宗系図家譜 錦芳姓小宗系図家譜』編集 石垣市総務部市史編集室( 発行:石垣市役所 /1994年)                          ◎大浜永亘『嘉善姓一門と八重山の歴史』・『嘉善姓一門の世系図』(発行:先島文化研究所/発行日:1988年)                   ◎大濵永亘『嘉平村出身の仲間満慶山一族たち-嘉善姓一門と憲章姓一門の人々』(発行:先島文化研究所年/発行日:2001年)          ◎大濵永亘『オヤケアカハチ・ホンカワラの乱と山陽姓一門の人々』(編集・発行所:先島文化研究所/発行:2005年)                ◎大濵永亘『山陽姓一門の世系図』(編集・発行所:先島文化研究所/発行:2006年)
◎長興姓一門家譜は長興姓大宗伝承碑建立委員会『長興姓門中系図大観』昭和59(1984)年12月2日・長興姓大宗波智山号善安伝承碑建立委員会『長興姓大宗伝承碑建立落慶記念誌』(昭和59・1984年9月/長興姓門中)を参照。
◎金城善『八重山系図家譜一覧』(2006年8月19日現在)を参照。 ◎『石垣市史叢書13 八重山島年来記』編集 石垣市総務部市史編集室( 発行:石垣市/1999年)

Ⅶ.八重山系(大宗 ・小宗)家譜の一覧

八重山系の家譜は1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」で琉球王国へ忠誠を誓った石垣島のイ.長田大翁主、ロ.那礼当、ハ.仲間満慶山、ニ.波照間島の明宇底獅子嘉殿らの子孫である。また、ホ.1522年、与那国島「鬼虎の征伐」で琉球王国に忠誠を誓い、その後、論功行賞で役人(系持ち)になった西表島西部の慶来慶田城の子孫がいる。ヘ.1611年ころ薩摩藩の進言により系持ちになった崎原村出自の岳章姓大宗致崇の子孫たち。1721年に初代・大阿母(1502年任)の多田屋遠那利の勲功などでその子孫の陳情により系持ちになった平得村出自の多田姓大宗督崇の子孫がいる。
また、ト.琉球王国の役人たち(使者、漂流者、役人、在番、流刑者、医者、その他)の子孫に分けられる。また、自家の繁栄を重視する傾向や本家から分家し、叙位、勲功等が続くと「別有家譜」(小宗)として独自の家譜を持つことができた。管見範囲で現存する家譜や古記録・文献などを網羅して時系列的に家譜(大宗・小宗)を列記したら下記の通りになる。

1.八重山系家譜の最初の(1).1―『長栄姓大宗信保』(1)から1610年ころ生れの(50).17―③『松茂氏2世當連小宗』(4)まで。

(1).1―『長栄姓大宗信保』(1)、字石垣の長多堂村住民の長栄姓大宗古見頭後に宮古頭と同年・1522年初代石垣頭任と推察。石垣親雲上信保(童名:真與蒲、生寿不伝):イ.1500年、琉球王国へ忠誠を誓った長田大翁主(長栄姓大宗石垣親雲上信保)とその子孫(1)

(2).2―『嘉善姓大宗永展』(1)、嘉善姓大宗嘉平首里大屋子永展(童名:真勢、生日忌日不詳):父は仲間満慶山。子息8人兄弟首里大屋子の一人で長男と思われる。:ハ.1500年琉球王国へ忠誠を誓った仲間満慶山(生不伝~1500年卒)とその子孫(1)

(3).3―『錦芳姓大宗用緒』(1)、錦芳姓大宗西表首里大屋子用緒(童名:真茂能、生寿倶不伝):父は不知為何人:ホ.1522年与那国島「鬼虎征伐」で琉球王国へ忠誠を誓った慶来慶田城(錦芳姓大宗用緒)とその子孫(1)

(4).4―『有若姓大宗泰基』(1)、有若姓大宗嘉平与人泰基(童名・生寿不明、仲間満慶山の孫)。『有若氏7世慶田城与人泰清(童名:宇戸真、1704~64年卒)小宗』家譜に「父元祖嘉平与人泰基、6世花城親雲上泰隆(1651~1733年卒)の三男。」・『有若氏9世花城目差泰徳(童名:松、1760~1808年卒)小宗』家譜に「父元祖嘉平与人泰基、8世小浜与人泰啓(1721~77年卒)の六男。」と記されている。:父は仲間満慶山の子息8人兄弟首里大屋子の一人:
『有若姓大宗泰基』家譜が未確認のため、喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」を参照し筆者が記載した。「(大宗)有若氏―1世(大宗)嘉平与人泰基→2世泰令→3世泰時→4世泰備→5世泰師→6世花城親雲上泰隆(1651~1733年卒)→7世白保与人泰常→8世泰→9世泰文→10世泰安→11世泰頭。」と書かれている。:ハ.1500年琉球王国へ忠誠を誓った仲間満慶山とその子孫(2)
(5).5―『成功姓大宗廉永』(1)、成功姓大宗桴海与人廉永(童名・生寿不明、仲間満慶山の孫)。『成功氏7世大浜筑登之親雲上廉邦(童名:樽金、1685~1759年卒)小宗』家譜には「父元祖桴海与人廉永、6世小浜与人廉榮(1665~1725年卒)。」・『憲章姓大宗英乗』家譜の5世英岺の長女思津(1647~1732年卒)成功氏(5世)宮良筑登之親雲上廉英へ嫁ぐ。」・『上官氏四世正朝小宗』家譜の5世竹富与人正舎(童名:保久利、1638~90年卒)の項に「二男廉榮が成功氏(5世)宮良与人廉英無男子為嗣子。」と記載されている。:父は仲間満慶山の子息・8人兄弟首里大屋子の一人:ハ.1500年琉球王国へ忠誠を誓った仲間満慶山とその子孫(3)
(6).3―①『錦芳氏3世用信小宗』(2)、錦芳氏3世西表首里大屋子用信(童名:満能、生忌月日不詳)。錦芳氏3世用信は兄の西表首里大屋子用尊(童名:真茂能、1527~99年卒)から尚元王世代の嘉靖年間(1656~66年)に3代の西表首里大屋子を受け継いでいる。また、用信は無男子ため用尊の二男用在(童名:石戸、生忌月日不詳)が嗣子(養子)となり祖父錦芳氏2世与那国与人用庶から2代の与那国与人を継承している。:(3).3―『錦芳姓大宗用緒』(1):錦芳氏2世与那国与人用庶(童名:石山、生寿倶不伝)の次男。:ホ.慶来慶田城とその子孫(2)
(7).6―『憲章姓大宗英乗』(1)、字新川の慶田盛村住民の憲章姓大宗石垣親雲上英乗(童名:石戸能・石戸、生年月日不詳~1601年卒)。初代が仲間満慶山(生不明~1500年卒)→4代の大宗英乗。嘉善氏3世桴海与人永師(童名:石戸能・石戸、生忌月日不詳)の二男永恒が憲章姓大宗英乗の婿養子となり憲章氏2世英恒となり尚寧王世代の万暦年間(1589~1619年)2代波照間首里大屋子に就いている。憲章姓大宗石垣親雲上英乗の1601年死去後に兄の嘉善氏4世永正(童名:保久利、1550~1620年卒)が6代石垣頭を継承している。:祖父が仲間満慶山の子息・八人首里大屋子兄弟の一人。憲章姓・二代の嘉平首里大屋子佐嘉伊(生寿不明)、父は三代の嘉平首里大屋子満慶山(生寿不明)。仲間満慶山の孫。:ハ.1500年琉球王国へ忠誠を誓った仲間満慶山とその子孫(4)
(8).7―『上官姓大宗正廟』(1)、字新川の慶田盛村居住の上官姓大宗大浜親雲上正廟(童名:真蒲戸、1522~66年〈嘉靖年間〉生~1586 年卒):始祖・父は久米村住民の程7世順則・名護親方(童名:思武太、1663~1734年卒)の元祖・虞氏京阿波根親雲上實基。1522年与那国島「鬼虎征伐」に琉球国から派遣され、石垣島滞在中の子息が上官姓大宗正廟である。大宗正廟は1523年生まれと推察、1576年初代の大浜頭に任じられている。:ヘ.琉球王国の役人たち(使者、漂流者、役人、在番、流刑者、医者、その他)とその子孫(1)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「程氏 名護親雲上―2185、元祖虞氏京阿波根親雲上實基五世外間筑登之實房(1609~42年卒)支流二子大宗都通事諱泰祚古波蔵親雲上(童名:思五良、1634~74年卒)」と書かれている。(  )は筆者が記入。
(9).8―『伯言姓大宗政通』(1)、伯言姓大宗大浜親雲上政通(童名:蒲戸、1522~66年〈嘉靖年間〉生~寿不詳):父(始祖)は久米村の京阿波根之後胤(虞氏の京阿波根親雲上實基)。1524年西塘の竹富大首里大屋子に任じられ、ウラカイジへ「八重山蔵元」創建に虞氏京阿波根親雲上實基が再度派遣されている。滞在中の子息が伯言姓大宗政通である。上官姓大宗正廟とは兄弟である。大宗政通は1525年生まれと推察、兄の上官姓大宗大浜親雲上正廟の1586病死後の1587年に2代大浜頭に就いている。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(2)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「虞氏 外間親雲上―1989、大宗虞建極京阿波根親雲上實基」と記されている。(10).9―『大史姓大宗高教』(1)、大史姓大宗古見与人高教(童名:真勢山、生年享月日不詳)。字新川の慶田盛村居住の大史氏3世鬚川与人高起(童名:山戸・石戸能、生不詳~1656年卒)の次女那部山(鍋山、1619~96年卒)が山陽氏二世宮良親雲上長重(童名:保久利思、1617~93年卒)に嫁いでいる。:初代が明宇底獅子嘉殿→2代は三男で還宝与人遠戸(生寿不明)→3代は長男の大史姓大宗古見与人高教。:ニ.1500年琉球王国へ忠誠を誓った明宇底獅子嘉殿(生不明~1500年卒)とその子孫(1)               (11).10―『毛裔姓大宗安英』(1)、毛裔姓大宗宮良親雲上安英(童名:二千代、1547~1619年卒)。父は『元祖大新城親方安基』家譜に「一世 大新城安基 童名:小太郎金、唐名:毛龍唫、生不伝、万暦五年丁丑(1577)年四月二九日卒。(略)尚清王世代(1527~1555年)の嘉靖二六年丁未(1547)奉使使到宮古八重山両訪定之制次年帰国。(略)」と記載されている。竹富島ウラカイジから石垣島への八重山蔵元移転で来島している。母が小浜村の満慶の娘、美呂真(生寿不伝)。大宗安英は初代宮良頭となり男子なく二人娘いる。長女於那比戸が伯言氏2世大浜親雲上政保に嫁ぎ、その長男安師が母実家(毛裔姓大宗安英)の嗣子となっている。1629年、トマス・デ・ハシンㇳ・西六左衛門神父が来島しその当時の前(3代)宮良頭の永弘や大城与人安師らと接触した。その件で1630年王府に連行され、前宮良頭は渡名喜島へ流刑、薩摩藩の命により1635年焚刑に処せられている。大城与人も同罪、慶良間島へ流刑されたが一族の働きにより1642年ご赦免し帰島し、1654年石垣頭、1663年大浜頭に再任されている。14人の兄弟姉妹で繫栄をしている。『八重山島年来記』の1630年項には子供たちが「八重山キリシタン事件」との父大城与人安師と関りがなかったとの言い訳をしている。『毛裔姓一門』家譜では大城与人時代の5人の子供たちに意図的に安師の孫代までつじつま合わせを行っている。:父は御使者、王府首里毛氏・三司官・大新城親方安基(童名:小太郎金、唐名:毛龍唫、不伝~1577年卒)の子息:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(3)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「毛氏 池城親雲上―1001、大宗毛龍唫新城親方安基 (童名:小太郎金、不伝~1577年卒) 」と書かれている。( )は筆者が記入。
(12).11―『文林姓大宗方因』(1)、文林姓大宗黒島首里大屋子方因(童名:空廣、生忌月日寿今不可考)。文琳氏4世宮良親雲上方景(童名:津久利、1629~1702年卒)がいる。:琉球王府からの派遣や伝えがないので明宇底獅子嘉殿の孫。大宗方因の父三原(古見・新城・黒島)首里大屋子佐嘉悅(生寿不明)で明宇底獅子嘉殿の二男の新本与人古真屋(童名・生寿不明)の子息たちの一人。一族・同族は船に関わる姓(氏)の覆姓二字吉称文字の冠している。類似の二字吉称文字(文林姓・林松姓・松茂姓など)を新本与人古真屋の子孫たちとした。:ニ.1500年琉球王国へ忠誠を誓った明宇底獅子嘉殿とその子孫(2)
(13).12―『長興姓大宗善安』(1)、長興姓大宗古見首里大屋子善安(童名:波智山・パチザン=波照間島、生寿倶不詳)。同一世代に嘉善氏4世石垣親雲上永正(童名:保久利、1550~1620年卒)がいる。大宗善安の長女比戸(登)那志が山陽姓大宗宮良親雲上長光(童名:祖良廣、1584~1661年卒)へ嫁いでいる。:明宇底獅子嘉殿の孫。大宗善安の父・新城与人(童名・生寿不明)で明宇底獅子嘉殿の長男の屋安古与人赤真屋(生寿不明)の子息たちの一人。初代が明宇底獅子嘉殿→4代は長興姓大宗子古見首里大屋子善安。:ニ.1500年琉球王国へ忠誠を誓った明宇底獅子嘉殿とその子孫(3)
(14).13―『林松姓大宗實盛』(1)、林松姓大宗新城与人實盛(童名:萬能、生忌日寿不詳).家譜には林松氏4世保里筑登之實京(童名:祖良廣、1629~1710年卒)が書かれている。大宗實盛は明宇底獅子嘉殿の子孫たちの一人長興姓大宗古見首里大屋子善安(童名:波智山・パチザン・波照間島、生寿倶不詳)の父・新城与人から2代の新城与人を受け継いでいる。また童名の萬能・マンノウ・真茂能は西表島の西部・慶来慶田城(ケライケダグスク)の錦芳姓大宗西表首里大屋子用緒(童名:真茂能、生寿倶不詳)から受け継いでいる。
:父は明宇底獅子嘉殿(生不明~1500年卒)の次男で新本与人古真屋の孫。:ニ.1500年琉球王国へ忠誠を誓った明宇底獅子嘉殿とその子孫(4)                             (15).14―『順榮姓(大宗)由祥』(1)、順榮姓(大宗)慶田城目差・西表仁也由祥(童名・生寿不明)。『長栄姓大宗信保』家譜に「長栄氏5世大浜親雲上信行(童名:祖良廣、1589~1640年卒)の室は順榮氏慶田城目差西表仁也由祥女真牛(生寿不詳)と書かれている。婿信行の父が長栄氏4世石垣親雲上信名(童名:鶴千代、生寿不伝)である。同一世代に嘉善氏4世石垣親雲上永正(童名:保久利、1550~1620年卒)がいる。順榮氏慶田城目差西表仁也由祥、1605年ころ生まれの順天姓大宗黒島目差・西表仁也直連とは類似の二字吉称文字(順榮姓・順天姓)から親族・同族関係があったと思われる。初代の明宇底獅子嘉殿→4代の順榮氏慶田城目差西表仁也由祥。『大史姓大宗高教』家譜には「3世高起(童名:山戸、生不詳~1675年卒)が西表島西部の2代鬚川与人、4世波照間首里大屋子高根(童名:石戸能、1612~68年卒)、5世西表首里大屋子高康(童名:津久利、1649~1718年卒)、6世西表首里大屋子高道(童名:真根、1667~1737年卒)らは西表島西部の役職に就いている。三男還宝与人遠戸(生寿不明)の孫。ニ.1500年琉球王国へ忠誠を誓った明宇底獅子嘉殿とその子孫(5)                  (16).15―『忠温姓大宗孝儀』(1)、忠温姓大宗孝儀(童名、生寿不明)。:父は明宇底獅子嘉殿の長男・屋安古与人で赤真屋の孫。『梅公姓大宗孫廣』家譜には「1世孫廣 崎原与人(童名:樽、1620~61年卒)の継室は忠温氏(3世)波照間首里大屋子孝昌の娘、真武戸(1624~1708年卒)と記載されている。琉球王府から使者の派遣や伝承がないので類似の二字吉称文字(忠温姓・忠順姓)を明宇底獅子嘉殿の子孫たちとした。『忠温姓大宗孝儀』家譜が未確認のため、喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」には「忠温氏(盛山家)―1世(大宗)孝儀→2世孝康→3世(波照間首里大屋子)孝昌→4世(大浜筑登之親雲上)孝為→5世孝規→6世孝順→7世孝安→8世孝光→9世(盛山仁也)孝善→10世(嗣子・養子)用雄→11世孝欣。」と記載されている。( )筆者が記入。:ニ.1500年琉球王国へ忠誠を誓った明宇底獅子嘉殿とその子孫(6)
(17).7―①『上官氏2世正信小宗』(2)、上官氏2世小浜与人正信(童名:蒲戸、万暦年間〈1573~1619年〉生~1593年卒):(8).7―『上官姓大宗正廟』(1):上官姓大宗大浜親雲上正廟(童名:真蒲戸、1522~66年〈嘉靖年間〉生~1586年卒)の次男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(4)
(18).16―『戴長姓大宗保長』(1)、戴長姓大宗白保与人保長(童名・生寿不明)。『戴長氏6世宮良与人保勝(童名:真蒲戸、1708~71年卒)小宗』家譜には「父元祖白保与人保長、三世大浜与人保正、第二子白保尓也保行、長子宮里筑登之保秀(生月日不詳~1741年卒)。』・『嘉善姓大宗永展』家譜の「7世大浜親雲上永善(童名:石戸能、1623~85年卒)の三室が(三世)大浜与人保正の女伊嘉波志(生死月日不詳)」と記載されている。:元祖の仲間満慶山の8人兄弟首里大屋子の一人・その孫。:ハ.1500年琉球王国へ忠誠を誓った仲間満慶山とその子孫(5)
(19).6―①『憲章氏3世英政小宗』(2)、憲章氏3世大浜与人英政(童名:樽、生寿今不可考)。:(7).6―『憲章姓大宗英乗』(1):父は憲章氏2世波照間首里大屋子英恒(童名:満慶山、生寿不伝)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(6)
(20).17―『忠順姓大宗良宗』(1)、忠順姓大宗波照間首里大屋子良宗(童名:樽、生寿月日不詳)。崇禎年間(1628~43年)に大宗良宗が波照間首里大屋子、2世良英(童名:松、生寿不詳)は新本与人。順治年間(1644~61年)に波照間目差任の3世良繁(童名:樽、順治年間〈1644~61年〉生まれ~1667年卒)。:琉球王府から使者の派遣や伝承がないので類似の二字吉称文字(忠温姓・忠順姓)を明宇底獅子嘉殿の子孫たちとした。:ニ.1500年琉球王国へ忠誠を誓った明宇底獅子嘉殿とその子孫(7)
(21).18―『松茂姓大宗當義』(1)、松茂姓大宗新本与人當義(童名:美屋久、生年月日忌日不伝)。『八重山島年来記』の順治元甲申(1644)の項に「岸若村いかいし大浜親雲上が頭職となる。勤務年数は二〇年間」と記された人物が松茂氏2世大浜親雲上當榮(童名:武義志、生寿不詳)である。『山陽姓大宗長光』家譜に「2世宮良親雲上長重(童名:保久利思、1617~93年卒)の長女比登那志が松茂氏3世竹富与人當永に嫁ぐ」と記されている。初代の明宇底獅子嘉殿→2代の次男新本与人古真屋→3代・4代が不明→5代の松茂姓大宗新本与人當義。:明宇底獅子嘉殿の次男で新本与人古真屋の曾孫。:ニ.1500年琉球王国へ忠誠を誓った明宇底獅子嘉殿とその子孫(8)
(22).19―『徳容姓大宗為信』(1)、徳容姓大宗黒島首里大屋子為信(童名・生寿不明)。:琉球王府からの使者派遣や伝承がないので父は明宇底獅子嘉殿の三男・還宝与人遠戸(生寿不明)の孫。初代の明宇底獅子嘉殿→4代の徳容姓大宗為信。『徳容氏三世保里目差為實(童名:松、生寿不詳)』には「父元祖黒島首里大屋子為信、二世黒島首里大屋子為詮(1606~67年卒)の三男。」・『大史姓大宗廣教』家譜に「大史氏4世波照間首里大屋子高根(童名:石戸能・山戸、1612~68年卒)の三室が徳容氏島首里大屋子為詮の娘、真那志(生不詳~1701年卒)」と記載されている。ニ.1500年琉球王国へ忠誠を誓った明宇底獅子嘉殿とその子孫(9)
(23).12―①『長興氏2世善方小宗』(2)、長興氏2世登野城目差善方(童名:不詳=満能、孫の長興氏4世善仲の童名:満能から推察、生年月日忌日寿不詳)。長興氏2世善方の妹比戸那志(比登那志)が山陽姓大宗長光(童名:祖良廣、1584~1661年卒)に嫁いでいる。初代の明宇底獅子嘉殿→5代の長興氏2世善方。:(13).12―『長興姓大宗善安』(1):長興姓大宗古見首里大屋子善安(童名:波智山、生寿倶不詳)の次男:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(10)
(24).20―『山陽姓大宗長光』(1)、山陽姓大宗宮良親雲上長光(童名:祖良廣、1584~1661年卒)。:父は山陽姓四代・美良底仁也保久利思(始祖・元祖の那礼当の曾孫)の嫡子。初代の那礼当→5代の山陽姓大宗長光。:ロ.1500年琉球王へ忠誠を誓った那礼当(山陽姓一門の元祖・始祖、生不詳~1500年卒)とその子孫(1)
(25).2―①『嘉善氏5世永安小宗』(2)、嘉善氏5世西表首里大屋子永安(童名:茂志美、1587~1674年卒)。初代が仲間満慶山(生不明~1500年卒)→6代の5世永安。:(2).2―『嘉善姓大宗永展』(1):父は嘉善氏4世石垣親雲上永正(童名:保久利、1550~1620年卒)の四男:ハ.仲間満慶山とその子孫(7)
(26).21―『公孫姓大宗常頼』(1)、公孫姓大宗鬚川与人常頼(童名:保久利、生寿于不可考)。公孫姓大宗常頼は尚寧王世代の万暦年間(1589~1619年)に初代の鬚川与人を任じられている。一族・同族の大史氏3世鬚川与人高起(童名:山戸、生不詳~1656年卒)が2代の鬚川与人を受け継いでいる。初代が明宇底獅子嘉殿→4代は公孫姓大宗鬚川与人常頼。嫡子の公孫氏2世鬚川仁也常富(童名、蒲戸、1614年生まれ~忌不詳)の室が嘉善氏5世西表首里大屋子永安(童名:茂志美、1587~1674年卒)の長女真加戸(真加戸思、1615年生まれ~忌不詳)である。祖父の永安は次男常網を第二子の永網とし、義父になっている。琉球王府からの使者派遣記録や伝承がないので類似の二字吉称文字(公孫姓・公治姓)から明宇底獅子嘉殿の子孫たちである。:ニ.1500年琉球王国へ忠誠を誓った明宇底獅子嘉殿とその子孫(11)
(27).22―『蔡林姓大宗全備』(1)、蔡林姓大宗成屋与人全備(童名・生寿不詳)。:父は王府那覇久米村蔡氏が朝貢使で明国へ航海途中西表島成屋村の漂着した際の子息。:ヘ.琉球王国の役人(漂流者)たちとその子孫(5)
『蔡林姓大宗全備』家譜が未確認のため、分家した『蔡林氏2世全備小宗』家譜を参照しながら、喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」には「那覇久米村ノ蔡氏某ガ朝貢使トシテ支那ヘ航海中逆風ニアイ西表島成屋村ニ漂着、島ノ女ヲ妾トシテ全備ヲ生ム。本家ハ大川ノ島袋家デアルが全部他府県ヘ移転シタタメニ大宗ノ系図ナキタメ二登野城ノ小宗桃原全能系図ヲ記録シタ」と記載されている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「蔡氏 渡久地親雲上―2230、大宗蔡鼎成本部親雲上政恒(童名:沙晋留、1465~1525年卒)」と記載されている。( )筆者が記入。
*比嘉朝進『沖縄の代表的士族から現在の当主まで-士族門中家譜』(2005年/球陽出版)のなかに「王府那覇士族・渡久地家:航海一家、(蔡姓)三世中村柄筑登之親雲上政茂(童名:塩武太、唐名:蔡善、1551~1604年卒)、着場蔵大筆者(船修理官)。船頭として薩摩へ、1604年、朝貢二号船才府(買付長)として帰国中、大風にあい行方不明」という内容で記載された方と『蔡林姓大宗全備』家譜の「1605~10年ころに生まれた那覇久米村蔡氏、朝貢使で明国へ航海途中西表島成屋村に漂着した際子息・蔡林姓大宗成屋与人全備の父」と同一人物かは後日検討したい。また、沖縄における貿易陶磁でもっとも古いものが、西表島古墓出土といわれる東京国立博物館所蔵の9世紀唐末五代の黄釉緑褐彩碗 (長沙窯) の2点である。この黄釉褐緑彩碗が西表島のどこで発見されたかを明確にすることが重要であるということで出土地点に関する情報の入手に努めた結果、西海岸地域の古墓から出土したらしいことがわかった。1977年12月、筆者の案内で三上次男青山学院大学名誉教授を中心に田村晃一教授や当時祖納診療所の下田正夫氏にお世話になりながら、西海岸地域のフィールドワークを行った。その結果、白浜集落の対岸にある内離島の牧場を整地した際に石墓の中から副葬品として発見されたのではないかということがわかった。また現存する家譜を精査したら石墓の人物は琉球王国の役人・漂流者の子息で蔡林姓大宗成屋与人全備 (童名・生寿不明) だと思われる 。
(28).23―『公治姓大宗宜恒』(1)、公治姓大宗波照間首里大屋子宜恒(童名・生寿不明)。『文珪姓大宗師春』家譜に「2世宮良与人師時(童名:樽、生忌月日不詳)の室が公治姓波照間首里大屋子宜恒の娘・於那利(生寿不詳)、長女伊武津思(1641~98年卒)が徳容姓波照間首里大屋子為政に嫁ぐと記されている。公治姓大宗宜恒は1600年ころに生まれている。類似の二字吉称文字(公孫姓・公治姓)を明宇底獅子嘉殿の子孫たちとした。公孫姓大宗常頼が初代の鬚川与人、2代の鬚川与人は一族の大史氏3世鬚川与人高起(童名:山戸、生不詳~1656年卒)に引き継いでいる。初代が明宇底獅子嘉殿→6代は公治姓大宗波照間首里大屋子宜恒。『公治姓大宗宜恒』家譜が未確認のため、喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」には「公冶氏(宜有家)―1世(大宗)波照間首里大屋子宜恒→2世宜敏→3世(粟国仁也)宜資→4世(波照間仁也)宜行→5世宜次→6世宜白→7世宜尹→8世宜寛→9世宜暉→10世宜有→11世宜勝。」と記載されている。( )筆者が記入。ニ.明宇底獅子嘉殿その子孫(12)
(29).6―②『憲章氏3世英種小宗』(3)、憲章氏3世嘉平首里大屋子英種(童名:石戸能、生寿不詳):(7).6―『憲章姓大宗英乗』(1):憲章氏2世波照間首里大屋子英恒(童名:満慶山、生寿不伝)の三男:ハ.仲間満慶山とその子孫(8)
(30).1―①『長栄氏5世信本小宗』(2)、長栄氏5世石垣親雲上信本(童名:保久利、1592~1661年卒)。:(1).1―『長栄姓大宗信保』(1):長栄氏4世石垣親雲上信名(童名:鶴千代、生寿不伝)の次男:イ.長田大翁主とその子孫(2)
(31).24―『文珪姓大宗師春』(1)、文珪姓大宗宮良与人師春(童名:真牛、歴年久遠官級生年忌月日不詳)。:元祖は仲間満慶山の8人の兄弟首里大屋子一人の子孫:ハ.仲間満慶山(生不伝~1500年卒)とその子孫(9)
(32).1―②『長栄氏5世信勇小宗』(3)、長栄氏5世石垣与人信勇(童名・生寿不明)。:(1).1―『長栄姓大宗信保』(1):『梅公氏5世孫清小宗』家譜に「梅公氏3世大浜親雲上孫清(童名:亀千代、1655~1729年卒)の長男信光が婿養子になると記載されている。:長栄氏4世石垣親雲上信名(童名:鶴千代、生寿不伝)の三男。:イ.長田大翁主その子孫(3)
(33).6―③『憲章氏3世英仁小宗』(4)、憲章氏3世登野城与人英仁(童名・生寿不明)。『憲章姓大宗英乗』家譜に「憲章氏7世波照間首里大屋子英承(童名:石戸能、1682~1737年卒)の六男英壽 本室所生、2世波照間首里大屋子英恒の四男登野城与人英仁に男子がなかったので願い出てその家の嗣子となる。別に家譜あり。:(7).6―『憲章姓大宗英乗』(1):憲章氏2世波照間首里大屋子英恒(童名:満慶山、生寿不伝)の四男:ハ.仲間満慶山とその子孫(10)
(34).25―『建昌姓大宗廣教』(1)、建昌姓大宗宮良与人廣教(童名:山戸・石戸能、生寿不詳)。『順天氏3世直長小宗』家譜に「父元祖黒島目差直連、2世黒島仁也直元(1625~73年卒)、母は建昌氏宮良与人廣教の三女多比(生寿年不詳)」という記されている。建昌姓大宗廣教は1638年キリシタンとして焚刑された宮良与人永定から3代宮良与人を受け継いでいる。元祖・始祖は琉球王府からの使者や伝承もないので仲間満慶山(生不伝~1500年卒)の8人兄弟・首里大屋子一人の子孫。:ハ.仲間満慶山とその子孫(11)
(35).2―②『嘉善氏5世永定小宗』(3)、嘉善氏5世崎原(宮良)与人永定(童名:保久利思、嘉靖二十九年庚子〈「嘉靖二十九年」は庚戍で1550年、「庚子」は万暦二十八年で1600年〉生~1638年卒。生忌日寿倶不詳)。家譜には崎原与人と記載されている。1636年には宗門改めの踏み絵により永定は宮良与人の名でキリシタンとして1638年薩摩の命により焚刑に処せられた。5世永定、6世永命、7世永榮らの孫代まで生寿不詳、永定、孫の永榮らの室が不知何人女と記載され意図的につじつま合わせを行っている。初代が仲間満慶山(生不明~1500年卒)→6代の5世永定。:(2).2―『嘉善姓大宗永展』(1):嘉善氏4世石垣親雲上永正(童名:保久利、1550~1620 年卒)の六男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(12)
(36).26―『守恒姓大宗寛長』(1)、守恒姓大宗石垣親雲上寛長(童名:武勢真、1600~77年卒)。:琉球王府からの使者や伝承がないので初代が仲間満慶山→2代8人の兄弟の首里大屋子の一人→3代・4代が不明→5代は守恒姓大宗寛長。:ハ.仲間満慶山とその子孫(13)
(37).7―④『憲章氏4世英親小宗』(5)、憲章氏4世波照間首里大屋子英親(童名・生寿不明)。『憲章姓大宗英乗』家譜に「憲章氏7世波照間首里大屋子英承(童名:石戸能、1682~1737年卒)の五男英升 本室所生、4世波照間首里大屋子英親に男子がなかったので願い出てその家の嗣子となる。別に家譜あり。:(7).7―『憲章姓大宗英乗』(1):憲章氏3世古見首里大屋子英林(童名:石戸能、生寿不伝)の次男:ハ.仲間満慶山とその子孫(14)
(38).27―『順天姓大宗直連』(1)、順天姓大宗黒島目差・西表仁也直連(童名・生寿不明)。『順天氏3世黒島目差直長(童名:松、1660~1745年卒)小宗』家譜に「父元祖黒島目差直連、2世黒島仁也直元(1625~73年卒)」と記されている。『長栄姓大宗信保』家譜の5世大浜親雲上信行(童名:祖良廣、1589~1640年卒)の室は順榮氏慶田城目差西表仁也由祥女真牛(生寿不詳)と書かれていて親族の一人だと思われる。類似の二字吉称文字(順榮姓・順天姓)を明宇底獅子嘉殿の子孫たちとした。元祖は明宇底獅子嘉殿(生不明~1500年卒)の三男・還宝与人遠戸(生寿不明)の曾孫。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(13)
(39).28―『永緩姓(大宗)知則』(1)、永緩姓(大宗)小浜与人知則(童名・生寿不明)。『錦芳姓大宗用緒』家譜に「6世慶田城与人用見(童名:鶴、1621~80年卒)の室は永緩氏小浜与人知則の娘、真市(1629~91年卒)」・『文林姓大宗方因』家譜にも「文琳氏4世宮良親雲上方景(童名:津久利、1629~1702年卒)の室が永緩氏小浜与人知公の娘、真武樽(1644~1726年卒)」・『岳章姓大宗致崇』家譜に「岳章氏3世与那国与人致寧(童名:蒲戸、順治年間〈1644~61年)生まれ~1696年卒)の三女宇那比戸(1711年生まれ~)が嫁于永緩氏諸見里仁也知久。」と記載されている。一族一門の名称・永緩姓、永茂姓の始祖時代は1624~1642年の「八重山キリシタン事件」の時代である。類似の二字吉称文字(永緩姓・永茂姓)を仲間満慶山の子孫たちとした。:元祖は仲間満慶山の8人兄弟・首里大屋子一人の子孫:ハ.仲間満慶山とその子孫(15)

(40).29―『岳章姓大宗致崇』(1)、岳章姓大宗崎原目差・黒島仁也致崇(童名:真蒲戸、生寿不詳)。:父は不知何人=薩摩坊津と鉄器受容伝承のある石垣島の崎原御嶽のトゥニムトゥ家。:ト.1611年ころ薩摩藩の進言により系持ちになった岳章姓大宗致崇その子孫(1)
(41).30―『登梯姓(大宗)茂生』(1)、登梯姓(大宗)平田目差茂生(童名・生寿不明)。『大史姓大宗高教』家譜に「4世波照間首里大屋子高根(童名:石戸能・山戸、1612~68年卒)の継室が登梯姓(大宗)平田目差茂生の娘、真利(1632~94年卒)」・『建昌姓大宗廣教』家譜の「3世平得与人廣道(童名:樽、1655~1739年卒)の室が登梯氏平田目差茂生の長女部那比戸(生寿不詳)」・『憲章氏8世英満小宗』家譜に「8世桴海村耕作筆者・南風原仁也英満(童名:満慶山、1752~96年卒)の室が登梯氏杣山筆者波照間仁也茂平の娘・宇戸(1755~94年卒)」・『憲章氏8世英愛小宗』家譜には「11世石垣尓也英紀(童名:祖良廣、1807年生まれ~)の室は登梯氏富永仁也茂演の次女真伊津(1808年生まれ~)、12世糸洲仁屋英信(童名:蒲戸、1845年生まれ~)が母方登梯氏9世的茂榮困無嗣子呈請続彼家統 別有家譜。」と記載されている。:元祖は明宇底獅子嘉殿の三男・還宝与人遠戸(生寿不明)の子孫:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(14)
(42).7―②『上官氏4世正朝小宗』(3)、上官氏4世登野城目差・大浜尓也正朝(童名:真三郎、1612~寿月日不詳)。:(8).7―『上官姓大宗正廟』(1):上官氏3世脇目差・大浜仁也正扶(童名:真蒲戸、1592~1651年卒)の 次男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(6)

※.真鍋(1612~37年卒)、夫・長栄氏6世石垣親雲上信門(童名:鶴千代、1611~44年卒)が那覇滞在中の女:(30).1―①『長栄氏5世信本小宗』(2):父が那覇村住民の宮城筑登之:○ヘ.琉球王国の那覇住民で滞在中の娘(1)
(43).2―①―③『嘉善氏6世永則小宗』(4)、嘉善氏6世平田筑登之親雲上永則(童名・不明、1615年~寿不明)。:(24).2―①『嘉善氏5世永安小宗』(2):嘉善氏5世西表首里大屋子永安(童名:茂志美、1587~1674年卒)の 次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(16)
(44).9―①『大史氏4世高英小宗』(2)、大史氏4世小浜与人高英(童名・生寿不明)。:(10).9―『大史姓大宗高教』(1):大史氏3世鬚川与人高起(童名:山戸、生年享月日不詳~1656年卒)の次男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(15)
(45).9―②『大史氏4世高経小宗』(3)、大史氏4世高経(童名・生寿不明)。:(10).9―『大史姓大宗高教』(1):大史氏3世鬚川与人高起(童名:山戸、生年享月日不詳~1656年卒)の三男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(16)
(46).11―①『文林氏2世方英小宗』(2)、文林氏2世方英(童名:嘉作真、生死月日天寿不詳)。:(12).11―『文林姓大宗方因』(1):文林氏2世保里与人方章(童名:佐嘉伊、生忌月日今不可考)の次男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(17)
(47).31―『永茂姓大宗康直』(1)、永茂姓大宗大浜目差・崎原仁也康真(童名・生寿不明)。『錦芳姓大宗用緒』家譜の「6世慶田城与人用見(童名:鶴、1621~80年卒)の継室は永茂氏大浜目差康真の娘・真和津(1644~82年卒)」・『錦芳氏7世用重小宗』家譜にも「錦芳氏7世宮良目差用重(童名:石戸能、1664~1716年卒)の四男用仁が永茂姓大浜目差崎原仁屋康真に子がなかったので願い出てその家の嗣子となる。別に家譜あり。」と記載されている。一族一門の名称・永茂姓、錦芳氏6世用見の童名・鶴、崎原仁也康真、7世用重の室・嘉善氏大浜与人永榮の娘、武那津思(1663~1748年卒)が嘉善姓家譜で見ることができる。『嘉善姓大宗永展』家の嗣子となった五男の嘉善氏6世石垣与人永茂(童名:鶴千代、1592~1692年卒)、『嘉善氏5世永定小宗』家譜に六男の嘉善氏5世1638年宮良与人・以前は初代の崎原与人永定(童名:保久利思、1600~38年卒)、7世用重の室である武那津思の母が嘉善氏6世永茂の長女伊那津・武那津思である。1638年嘉善氏5世宮良与人永定は薩摩藩の命により字新川の慶田盛村のオンナーナー(小さな御嶽・本宮良御嶽)でキリシタンとして焚刑に処せられている。『永茂大宗康真』家譜が未確認のため、喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」には「永茂氏―1世(大宗)康真→2世康仁→3世康易→4世康到→5世康在→6世康控→4世康原→8世安貞。」と書かれている。類似の二字吉称文字(永茂姓・永緩姓)を仲間満慶山の子孫たちとした。:元祖は仲間満慶山の8人兄弟・首里大屋子一人の子孫。:ハ.仲間満慶山とその子孫(17)
(48).18―①『松茂氏2世當新小宗』(2)、松茂氏2世當新(童名・生寿不明)。:(21).18―『松茂姓大宗當義』(1):松茂姓大宗新本与人當義(童名:美屋久、生年月日忌日不伝)の次男:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(18)
(49).18―②『松茂氏2世當群小宗』(3)、松茂氏2世當群(童名・生寿不明)。:(21).18―『松茂姓大宗當義』(1):松茂姓大宗新本与人當義(童名:美屋久、生年月日忌日不伝)の三男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(19)
(50).18―③『松茂氏2世當連小宗』(4)、松茂氏2世當連(童名・生寿不明)。:(21).18―『松茂姓大宗當義』(1):松茂姓大宗新本与人當義(童名:美屋久、生年月日忌日不伝)の四男:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(20)

2.1620年生まれの(51).32―『梅公姓大宗孫廣』(1)から1669年生まれた(100).6―①―⑧『憲章氏5世英住小宗』(9)まで。

(51).32―『梅公姓大宗孫廣』(1)、梅公姓大宗崎原与人孫廣(童名:樽、1620~61年卒):王府那覇梅氏宗珎入道(童名:緑千代、東名:梅逢春、1554~1636年卒))の長子・亀千代大屋子孫榮(童名:亀千代、唐名:梅樹暢、1588~1664年卒)。母は長栄氏4世石垣親雲上信名(童名:鶴千代、生寿不伝)の二女、茂樽(武樽、1592~1678年卒)。母の茂樽は1638~50年まで勤務の7代大阿母に就いている。八重山蔵元文書の『八重山島年来記』万暦十七己未(1619)年の条に「一、桴海村は、以前は山原(ヤマバレー)と荒川(カラカ―)の間、フカイという所にあったが、この年、大田兼久へ村の敷地を移した」記載されている。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(7)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「梅氏 長濱親雲上―2518、大宗梅逢春宗珍入道宗孫(童名:緑千代、1554~1636年卒)」と書かれている。( )筆者が記入。
(52).33―『益茂姓大宗里安』(1)、益茂姓大宗大浜与人里安(童名:満慶、生壽不詳~1673年卒)。益姓家譜(潮平家)の初代は前久場親雲上里紀(童名:太郎金、1624~1701年卒)、父は益氏具志川親雲上里頼・三代小波津親雲上里張である。この三代小波津親雲上里張と益茂姓大宗里安(童名が満慶、1620年ころに生れ)の関わりは不明。同一世代・琉球王国の役人たちの子孫である梅公姓大宗孫廣(童名は樽、1620年生まれ)との大宗家譜記載・分家・居住展開に大きく相違している。益茂姓大宗里安の居住地の字登野城の岸若村「岸若村嘉善姓血族的集団人々」との居住している。童名(満慶)・役職名(大浜与人・登野城与人)・建昌姓大宗宮良与人廣教(童名:山戸・石戸能、生寿不詳)の長女真牛が大浜与人里安に嫁いでいる。建昌姓大宗宮良与人廣教との親族関係から筆者がとりあえず琉球王府からの使者記録や伝承がないので元祖は仲間満慶山(生不伝~1500年卒)の8人兄弟・首里大屋子一人の子孫と推察。後日『益姓大祖具志川親雲上里頼』家譜を実見の際に再検討したい。ハ.仲間満慶山とその子孫(18)
(53).18―④『松茂氏3世當永小宗』(5)、松茂氏3世竹冨与人當永(童名:松兼、歴年久遠生忌月日及不可考)。山陽姓大宗長光』家譜に「山陽氏2世宮良親雲上長重(童名:保久利思、1617~93年卒)の長女比登那志(生没月日不詳)が松茂氏竹富与人當永に嫁ぐ。」と記載されている。:(21).18―『松茂姓大宗當義』(1):松茂氏2世大浜親雲上當榮(童名:武義志、生月日忌日寿不詳)の次男:ニ.明宇底獅子嘉殿(生不明~1500年卒)とその子孫(21)
(54).18―⑤『松茂氏3世當元小宗』(6)、松茂氏3世花城目差當元(童名:松、年久故生死年月日不詳)。:(21).18―『松茂姓大宗當義』(1):松茂氏2世大浜親雲上當榮(童名:武義志、生月日忌日寿不詳)の三男:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(22)
(55).3―②『錦芳氏6世用正小宗』(3)、錦芳氏6世与国目差用正(童名:保久利、1629~88年卒)。:(3).3―『錦芳姓大宗用緒』(1):錦芳氏5世西表首里大屋子用材(童名:真茂能、1595~1653年卒)の次男:ホ.慶来慶田城とその子孫(3)
(56).10―①『毛裔氏3世安核小宗』(2)、毛裔氏3世登野城与人安核(童名:真蒲戸、崇禎年間〈1628~43年〉に生まれ~1701年卒)。:(11).10―『毛裔姓大宗安英』(1):毛裔氏2世大浜親雲上安師(童名:真蒲戸、1602~74年卒)の長男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(8)
(57).22―①『蔡林氏2世全連小宗』(2)、蔡林氏2世新城与人全連(童名:兼山、不詳~1674年卒)。:(27).22―『蔡林姓大宗全備』(1):蔡林姓大宗成屋与人全備(童名・生寿不詳)の三男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(9)
※.(42).7―②―上官氏5世竹冨与人正舎(童名:保久利、1638~90年卒)=婿養子・室が上官氏4世登野城目差正朝(童名:真三戸、1612~寿不詳)の長女、那美山(1640~1724年卒):(42).7―②『上官氏4世正朝小宗』(3):実父は王府・首里李氏稲福親雲上遠流の時、波照間村住民で百姓・宇戸の娘、比屋真との子男。○ヘ.琉球王国の役人たちの子男[1]・嗣子=婿養子[1] 『八重山島年来記』には「1639年、波照間島へ南蛮人二人漂着、御使者の長史役稲福親雲上来島。」と記載され、再度・稲福親雲上が来島していると思われる。
(58).34―『元長姓(大宗)良高』(1)、元長姓(大宗)登野城与人良高(童名・不明、1642~寿不明)。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(10)
*『元長姓(大宗)良高』家譜が未確認のため、『長栄氏6世信本小宗』家譜には「長栄氏7世石垣親雲上信明(童名:保久利、1629~99年卒)の次女、真比(1649~94年卒)、元長氏登野城与人良高に嫁ぐ」と書かれている。また、「文林氏6世大浜仁也方守(1756~1805年卒)の室は元長氏登野城仁也良政の娘、佐嘉伊(1775~94年卒)、大史氏9世登野城仁也高等(1789~1835年卒)の室は元長氏大浜仁也良大の次女、真牛兼(1791年生まれ~)・離別。」と他の一門家譜にも元長姓方々の名前が記されている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「馬氏 小録親方―1667、大宗馬良詮大浦添親方良憲(童名:思太郎金、生日不伝)」と書かれている。(  )筆者が記入。
那覇市史編集委員会『那覇市史・家譜資料(三)首里系-資料篇第1卷7』「馬姓家譜(原)元祖大浦添親方良憲小禄家」(那覇市企画部市史編集室/1982年)には「(略)五世馬繼宗許田親方良紀(童名:太朗金、1603~84年卒)、崇禎十四(1641)年辛巳南蛮船標来於八重山島故為攻撃、尚氏読谷山王子朝宗赴、彼島時為付衆至八重山島南蛮生船困避去無一戦、同年帰国」という内容で書かれている。名乗頭「良」から筆者が推察。後日検討したい。
(59).19―①『山陽氏3世長孝小宗』(2)、山陽氏3世黒島首里大屋子長孝(童名:真山戸、1645~86年卒)。:(23).19―『山陽姓大宗長光』(1):山陽氏2世宮良親雲上長重(童名:保久利思、1617~93年卒)の次男:ロ那礼当の子孫(2)
(60).18―①『徳容氏3世為正小宗』(2)、徳容氏3世竹冨与人為正(童名・生寿不明)。『錦芳姓大宗用緒』家譜に「錦芳氏7世与那国与人用親(童名:真茂能、1656~1702年卒)の室は徳容氏竹冨与人為正の娘、思市(1657~83年卒)」と記載されている。:(21).18―『徳容姓大宗為信』(1):徳容氏2世黒島首里大屋子為詮(1606~67年卒)の次男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(23)
(61).18―②『徳容氏3世為實小宗』(3)、徳容氏3世保里目差為實(童名:松、生壽不詳)。:(21).18―『徳容姓大宗為信』(1):徳容氏2世黒島首里大屋子為詮(1606~67年卒)の三男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(24)
(62).24―①『文珪氏3世師忠小宗』(2)、文珪氏3世大城目差師忠(童名・生寿不明)。『長栄氏5世信本小宗』家譜に「長栄氏5世石垣親雲上信本(童名:保久利、1592~1661年卒)の長女宇那利(1647~1706年卒)が文珪氏大城目差師忠に嫁ぐ」と記載されている。:(31).24―『文珪姓大宗師春』(1):文珪氏2世宮良与人師時(童名:樽、歴年久遠忌月日不詳)の次男:ハ.仲間満慶山とその子孫(19)
(63).32―①『梅公氏2世孫親小宗』(2)、梅公氏2世大城与人孫親(童名:鶴、生死年月日不詳)。:(51).32―『梅公姓大宗孫廣』(1):梅公姓大宗崎原与人孫廣(童名:樽、1620~61年卒)の長男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(11)
(64).10―②『毛裔氏3世安維小宗』(3)、毛裔氏3世大浜親雲上安維(童名:蒲戸、1648~1706年卒)。:(11).10―『毛裔姓大宗安英』(1):毛裔氏2世大浜親雲上安師(童名:真蒲戸、1602~74年卒)の三男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(12)
(65).10―③『毛裔氏3世安崇小宗』(4)、毛裔氏3世与那国与人安崇(童名・生寿不明)。『長栄氏5世信本小宗』家譜に「長栄氏7世石垣親雲上信明(童名:保久利、1629~99年卒)の長女宇那利(1646年生まれ~)が毛裔氏与那国与人安崇に嫁ぐ」と記載されている。:(11).10―『毛裔姓大宗安英』(1):毛裔氏2世大浜親雲上安師(童名:真蒲戸、1602~74年卒)の四男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(13)
(66).9―③『大史氏5世高満小宗』(4)、大史氏5世宮良掟親雲上高満(童名:保久利思、生年月日不詳~1708年卒)。:(10).9―『大史姓大宗高教』(1):大史氏4世波照間首里大屋子高根(童名:石戸能、1612~68年卒)の次男:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(25)
(67).35―『文明姓(大宗)昌在』(1)、文明姓(大宗)慶田城与人昌在(童名・生寿不明)。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(14)
『八重山島年来記』の1690年項には「手宰領役の毛裔氏登野城与人=毛裔氏3世登野城与人安核(童名:真蒲戸、〈1628~43年〉崇禎年間生まれ~1701年卒)と文明氏新城与人は上国した」と書かれている。また、喜舎場永珣氏『八重山歴史』(1954年)には「1718年与那田橋建設の碑文に普譜筆者・慶田城目差喜時(童名:真蒲戸、1677~1739年卒)、西表目差久定、譜主取・慶田城与人昌存、古見首里大屋子長休(童名:樽金、1677~1734年卒)」という内容で記載されている。文明姓(大宗)昌在が1690年に新城与人、1718年には慶田城与人職に就いていたと思われる。
また、喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」には「第六節 南海桃林寺と権現堂の確立」のなかに桃林寺仁王像の作者は「作、文明氏久手堅仁屋昌忠」と書かれている。『八重山島年来記』や『御使者在番記』には1711年に新在番として首里蘇氏4世久手堅(小橋川)親雲上憲冶(童名:樽金、唐名:蘇世盛、1651~1721年卒)が来島し1713年に帰国している。文明氏久手堅仁屋昌忠は2世(二代と思われる)でカタカツラを結いの祝いに在番の首里蘇氏4世久手堅親雲上憲冶を立会人(鳥帽子親・ユブシウヤ)にしてあやかり名前をもらい久手堅仁屋と称している。
(68).9―④『大史氏5世高成小宗』(5)、大史氏5世高成(童名・生寿不明)。:(10).9―『大史姓大宗高教』(1):大史氏4世波照間首里大屋子高根(童名:石戸能、1612~68年卒)の三男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(26)
(69).9―⑤『大史氏5世高吉小宗』(6)、大史氏5世高吉(童名・生寿不明)。:(10).9―『大史姓大宗高教』(1):大史氏4世波照間首里大屋子高根(童名:石戸能、1612~68年卒)の四男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(27)
(70).7―①―⑤『憲章氏5世英秀小宗』(6)、憲章氏5世平田仁也英秀(童名:思兼、生寿年月日今不可考)。:(18).7―①『憲章氏3世英政小宗』(2):憲章氏4世平田与人英盛(童名:津久利、1613~83年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(20)
(71).16―①『戴長氏4世保行小宗』(2)、戴長氏4世白保仁也保行(童名・生寿不明)。『梅公姓大宗孫廣井』家譜に「梅公氏2世宮良親雲上孫春(童名:保久利、1653~1709年卒)の室が戴長氏白保尓也保行の娘、伊嘉橋(1653~1728年卒)と書かれている。(18).16―『戴長姓大宗保長』(1):戴長氏3世大浜与人保正(童名・生寿不明)の次男:ハ.仲間満慶山とその子孫(21)
(72).36―『朝勧姓大宗忠吉』(1)、朝勧姓大宗忠吉(1645~49年ころ生まれ~寿不明)。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(15)
『朝勧姓大宗忠吉』家譜が未確認のため、喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」には「朝勧氏(玻座真家)―1世(大宗)忠吉→2世忠備→3世忠重→4世忠保→5世忠利→6世忠智→7世忠敏→8世忠伸→9世忠敏→10世忠直。」と書かれている。他の一門家譜には嘉善氏9世石垣親雲上永副(童名:鶴、1685~1751年卒)の長女、真和津(1701年生まれ~)が朝勧氏(2世)玻座真仁也(座安筑登之親雲上)忠備に嫁ぐと書かれている。また、梅公氏3世石垣与人孫範(童名:樽、1691~1733年卒)の三室が朝勧氏(2世)座安筑登之親雲上女比登那志(1701~46年卒)であると記載されている。
朝勧氏2世忠備は、10~15才の時のカタカツラ結いを行い、1687年来島した在番筆者の座安筑登之親雲上に髪を結ぶ立会人の鳥帽子親(ユブシウヤ)をお願いしてあやかりの名前「座安仁也」と称している。また、喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「第四章 芸術(桃林寺と権現堂)」には「2.彫刻家(朝勧氏3世)玻座真忠重―1699年2月6日生まれ、1752年3月2日死、54才、玻座真氏は1737年仁王像建立の時に権現堂の鬼面を彫刻したと伝えられる。」と記載されている。
初代の朝勧姓大宗忠吉の父は1650年ころに来島した王府の役人と思われる。『八重山島年来記』や『御使者在番記』には1649年新在番の首里・玉納覇親雲上(御物奉行役御仕置兼任)が来島している。
「伊姓家譜 (原)大祖大嶺筑登之親雲上忠陳(童名:眞山戸、唐名:伊承烈、生日不伝~1557年卒) 惣慶家」『那覇市史・資料篇第1卷7家譜資料第三集(首里系家譜)』(那覇市企画部市史編集室/1982年)の「伊姓5世忠祐」の項には「首里・伊姓5世石原親雲上忠祐(童名:思加那、唐名:伊良顯、1622~1709年卒)。1639年に御物奉行筆者叙筑登之座敷。(1643~49年ころに慶賀費資金調達と関わりで来島と筆者が推察)。1677年新在番筆者大嶺筑登之親雲上、宮古・八重山の風俗を改めに再度来島。1687年摩文仁間切石原地頭職・のちに石原親雲上。名乗頭「忠」から筆者が推察したが玉納覇親雲上と同一人物なのか、名乗頭「忠」の該当にはもう一人の首里・任氏4世玉那覇忠正がいる。
また、「任性家譜 (原)1世稲福親雲上忠記(童名:太良金、唐名:任興元、1505~59年卒)屋我家」『那覇市史・資料篇第1卷7家譜資料第三集(首里系家譜)』(那覇市企画部市史編集室/1982年)の「任姓3世與那城筑登之親雲上忠有(童名:思加那、唐名:任延芳、1582~1648年卒」の項には「次男(玉那覇親雲上)忠正、別有家譜」と書かれている。(  )は筆者が記入。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「任氏 玉那覇親雲上―290、元祖任興元稲福親雲上忠記三世任延芳與那城親雲上忠有支流次男任士順上里親雲上忠正」と記載されている。この『任姓家譜 4世玉那覇親雲上忠正』家譜実見で再検討し確認したい。
(73).2―①―④『嘉善氏6世永網小宗』(5)、嘉善氏6世小浜目差・西表仁也永網(1651~86年卒)。:(24).2―①『嘉善氏5世永安小宗』(2)・養父は嘉善氏5世西表首里大屋子永安(童名:茂志美、1587~1674年卒)。(25).20―『公孫姓大宗常頼』(1)・実父は公孫氏2世鬚川仁也常當(童名:蒲戸、1614年生まれ~忌日不詳)。:ハ.仲間満慶山とその子孫(22)
(74).19―②『山陽氏3世長安小宗』(3)、山陽氏3世保里与人長安(1651~79年卒)。:(23).19―『山陽姓大宗長光』(1):山陽氏2世宮良親雲上長重(童名:保久利思、1617~93年卒)の三男:ロ.那礼当の子孫(3)
(75).32―②『梅公氏2世孫永小宗』(3)、梅公氏2世黒島首里大屋子孫永(童名:真山戸、1651~90年卒)。:(51).32―『梅公姓大宗孫廣』(1):梅公姓大宗崎原与人孫廣(童名:樽、1620~61年卒)の次男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(16)
(76).37―『毛孫姓大宗盛永』(1)、毛孫姓大宗與那原仁也盛永(童名:與利山、1651~1733年卒)。:父は御使者、王府首里毛氏中城按司護佐丸盛春、8世毛文宗・真壁親雲上盛有(1620~64年卒)。母は平得村住民の百姓與利山の娘、牛(生死天寿不詳)。:ヘ.琉球王国の役人(御使者)たちとその子孫(17)
(77).38―『符正姓大宗盛本』(1)、符正姓大宗嘉平与人盛本(童名:松、1653~1731年卒)。:父は王府那覇符氏多嘉良親雲上盛次嫡孫・阿波連親雲上盛心(生不詳~1699年卒)。母は川平村内の仲筋村住民で百姓松の真加戸(生寿不詳~1699年卒):ヘ.琉球王国の役人たち(漂着船検見・久米村長史役上原親雲上の同行者)とその子孫(18)
(78).39―『毛林姓(大宗)盛信』(1)、毛林姓(大宗)屋富祖掟親雲上盛信(童名・生寿不明)。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(19)
*毛裔氏5世桴海与人安孫(童名:保久利、1684~1728年卒)の項に「三男の盛等・冨川尓也、母は次女蒲戸(1713年生まれ~)同腹也、雖然毛林氏屋富祖掟親雲上盛信無男子呈請為嗣子継彼家統」と記載されている。また、梅公氏3世波照間首里大屋子孫繁(童名:保久利思、1712~84年卒)の六女鍋山(1755年生まれ~)は毛林氏仲里仁也盛成(童名・生寿不明)に嫁ぐと書かれている。1652年に西表島に唐船が漂着し破損したので船検見で平等之側の毛氏屋富祖親雲上盛代が来島している。家譜の実見で確認したい。
(79).1―①―③『長栄氏8世信冨小宗』(4)、長栄氏8世若文子・高安仁也信冨(童名:二千代、1654~70年卒)。:(30).1―①『長栄氏5世信本小宗』(2):長栄氏7世石垣親雲上信明(童名:保久利、1629~99年卒)。の次男:イ.長田大翁主の子孫(4)
(80).7―③『上官氏5世正房小宗』(4)、上官氏5世冨里筑登之親雲上正房(童名:保久利思、1654~1734年卒)。:(8).7―『上官姓大宗正廟』(1):上官氏4世黒島首里大屋子正繁(童名:真牛金、1610~86年卒)の次男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(20)
(81).19―③『山陽氏3世長明小宗』(4)、山陽氏3世花城与人長明(童名:嘉路銘、1654~82年卒)。:(23).19―『山陽姓大宗長光』(1):山陽氏2世宮良親雲上長重(童名:保久利思、1617~93年卒)の四男:ロ.那礼当の子孫(4)
(82).19―④『山陽氏3世長信小宗』(5)、山陽氏3世小浜目差・宮良仁也長信(童名・生寿不明)。:(23).19―『山陽姓大宗長光』(1):山陽氏2世宮良親雲上長重(童名:保久利思、1617~93年卒)の五男:ロ.那礼当の子孫(5)
(83).32―③『梅公氏2世孫清小宗』(4)、梅公氏2世大浜親雲上孫清(童名:亀千代、1655~1729年卒)。:(51).32―『梅公姓大宗孫廣』(1):梅公姓大宗崎原与人孫廣(童名:樽、1620~61年卒)の四男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(21)
※.眞鶴(1658~1721年卒)、夫は王府那覇李國昌、古波蔵筑登之親雲上喜廣、四世之孫李自寛・知念筑登之親雲上喜之(1644~1722年卒)。1675年八重山島在番として来島して1677年に帰国し、滞在中に眞鶴(1658~1721年卒)を娶りを出生子が李保姓大宗川平筑登之親雲上喜時(童名:真蒲戸、1677~1739年卒)。:(122).43―『李保姓大宗喜時』(1):眞鶴の実父は新在番として1657来島して1659年の夏に帰国した王府首里葛氏新川親雲上秀並。母は西表村住民百姓で山戸の娘、祖宇志。:○ヘ.琉球王国の役人(在番)たちとその娘。(2)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「葛氏 米  須―246、元祖北谷親方秀辰四代屋良親雲上秀清支流三男葛本康新川親雲上秀並」。「李氏 知念親雲上―2472、元祖古波蔵筑登之親雲上喜廣、三世川上喜憲支流二子李自寛知念喜之」と書かれている。これらの支流の家譜実見で確認したい。
(84).7―⑥『憲章氏6世英董小宗』(7)、憲章氏6世黒島首里大屋子英董(童名:満慶山、1659~1718年卒)。:(7).7―『憲章姓大宗英乗』(1):憲章氏5世小浜与人英岑(童名:石戸能、1623~76年卒)の次男:ハ.仲間満慶山とその子孫(23)
(85).32―④『梅公氏2世孫普小宗』(5)、梅公氏2世石垣与人孫普(童名:真勢山、1659~1710年卒)。:(51).32―『梅公姓大宗孫廣』(1):梅公姓大宗崎原与人孫廣(童名:樽、1620~61年卒)の五男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(22)
(86).27―①『順天氏3世直長小宗』(2)、順天氏3世黒島目差・黒島仁也直長(童名:松、1660~1745年卒)。:(38).27―『順天姓大宗直連』(1):順天氏2世黒島仁也直元(1625~73年卒)の次男:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫 (28)
(87).7―①―④『上官氏6世正資小宗』(5)、上官氏6世与那国与人正資(童名:石戸、1661~1736年卒)。:(16).7―①『上官氏2世正信小宗』(2):上官氏5世花城筑登之親雲上(花城与人)正師(童名:浦戸、1642~1730年卒)の長男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(23)
(88).7―①―⑤『上官氏6世正拜小宗』(6)、上官氏6世正拜(童名・生寿不明)。:(16).7―①『上官氏2世正信小宗』(2):上官氏5世花城与人正師(童名:浦戸、1642~1730年卒)の次男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(24)
(89).7―①―⑥『上官氏6世正位小宗』(7)、上官氏6世正位(童名・生寿不明)。:(16).7―①『上官氏2世正信小宗』(2):上官氏5世花城与人正師(童名:浦戸、1642~1730年卒)の三男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(25)
(90).29―①『岳章氏3世致取小宗』(2)、岳章氏3世大城筑登之親雲上致取(童名:加那、1663~1748年卒)。:(40).29―『岳章姓大宗致崇』(1):岳章氏2世川平与人致頼(童名:松兼、生月日寿倶不詳)の次男:ト.1611年ころ薩摩藩の進言により系持ちになった岳章姓大宗致崇とその子孫(2)
(91).3―③『錦芳氏6世用重小宗』(4)、錦芳氏6世宮良目差用重(童名:石戸能、1664~1716年卒):(3).3―『錦芳姓大宗用緒』(1):錦芳氏6世慶田城与人用見(童名:鶴、1621~80年卒)の次男。:ホ.慶来慶田城とその子孫(4)
(92).6―①―⑦『憲章氏5世英起小宗』(8)、憲章氏5世英起(童名・生寿不明):(18).6―①『憲章氏3世英政小宗』(2):憲章氏4世平田与人英盛(童名:津久利、1613~83年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山その子孫(24)
(93).2―①―④―⑤『嘉善氏7世永里小宗』(6)、嘉善氏7世座安仁也永里(童名:真勢、1666~1753年卒)。:(73).2―①―④『嘉善氏6世永網小宗』(5):嘉善氏6世小浜目差・西表仁也永網(1651~86年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(25)
(94).11―②『文林氏5世方廉小宗』(3)、文林氏5世慶田城目差方廉(童名・生寿不明)。:(12).11―『文林姓大宗方因』(1):文林氏4世宮良親雲上方景(童名:津久利、1629~1702年卒)の長男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(29)
(95).40―『青栢姓大宗久定』(1)、青栢姓大宗比嘉筑登之久定(童名・生寿不明)。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(26)
『青栢姓大宗久定』家譜が未確認のため、喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」には「青栢氏―1世(大宗)久定→2世久宜→3世(不明)→4世(不明)→5世久在→6世久嘉→7世久政→8世善一。火災ノタメニ系図を消失シタタメニ3代4代不明」と記載されている。
他の一門家譜に「嘉善氏8世石垣親雲上永吉(童名:真勢、1644~1724年卒)の長女、真加戸(生年月日不詳)が嫁于青栢氏比嘉筑登之親雲上久定」。また「上官氏5世与那国与人正則(童名:祖良廣、1652~1715年卒)の四女、昆津(1677年生まれ~)は青栢氏比嘉筑登之久定に嫁ぐ」。「梅公氏4世伊原間与人孫房(童名:真山戸、1697~1750年卒)の継室が青栢姓大宗比嘉筑登之親雲上久定の娘、伊嘉部(1718~47年卒)」。「文林氏6世久手堅仁也・与那国目差方克(童名:亀、1695~1760年卒)の次女、伊津思(1720年生まれ~)が青栢氏2世石垣親雲上久宜に嫁ぐ」。また、この青栢氏2世石垣親雲上久宜(1717~71年卒)が石垣間切の20代の石垣頭に1762~71年まで就いている。「松茂氏6世名蔵与人當儀(童名:兼思、生不詳~1771年卒)の次女真市(1752年生まれ~)が青栢氏7世脇筆者久政に嫁ぐ」。「葛孫氏4世桃原目差・豊平筑登之秀福(童名:津久利、1801年生まれ~)の継室は青栢氏石垣仁也久標の娘、真嘉戸(1816年生まれ~)と書かれている。
1665年に在番筆者して王府首里比嘉筑登之親雲上が来島して1667年に帰国している。この首里比嘉筑登之親雲上が青栢姓大宗久定の父なのか、また、初代・大宗の青栢氏比嘉筑登之親雲上久定は、1665~67年年に首里比嘉筑登之親雲上が在番筆者として滞在中に10才から15才のカタカサヌヨイ(元服祝)の髪を結ぶ立会人の鳥帽子親(ユブシウヤ)にして比嘉仁也と称しているのが分かる。
また、「栢姓家譜―1世今帰仁親雲上良正(原本) 國吉家」『那覇市史 資料篇第1卷8家譜資料四。那覇・泊系』(那覇市企画部市史編集室/1983年)には「栢氏3世小録親雲上良宗(童名:百千代、唐名:栢壽、1582~1656年卒)が1624年、1632年、1640年と度々来島している。また、栢氏4世平安山親雲上良賢(童名:眞徳、唐名:栢茂、1641~87年卒)は父親の小録親雲上良宗や他の王府から派遣された方々の同行者として1650年に来島したのか後日検討したい。青栢姓という一族・一門の名称から那覇の栢姓の子孫たちの一人だと推察した。
(96).9―⑥『大史氏5世高岡小宗』(7)、大史氏5世運天筑登之親雲上高岡(1667~1741年卒)。:(10 ).9―『大史姓大宗高教』(1):大史氏4世波照間首里大屋子高根(童名:石戸能、1612~68年卒)の五男:ニ.明宇底獅子嘉殿(生不明~1500年卒)とその子孫(30)
(97).7―②―⑦『上官氏6世正缶小宗』(8)、上官氏6世川平与人正缶(童名:真牛金、1667~1726年卒)。:(42).7―②『上官氏4世正朝小宗』(3):上官氏5世竹富与人正舎(童名:保久利、1638~90年卒)の三男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(27)
(98).17―⑥『松茂氏5世當光小宗』(7)、松茂氏5世黒島首里大屋子當光(童名:松金、1668~1726年卒)。:(20).17―『松茂姓大宗當義』(1):松茂氏4世崎原与人當有(童名:武義志、生年月日忌日寿不詳)の次男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(31)
(99).2―②―⑥『嘉善氏8世永竹小宗』(7)、嘉善氏8世野崎仁也永竹(童名・生寿不明)。:(35).2―②『嘉善氏5世永定小宗』(3):嘉善氏7世大浜与人永榮(童名:鶴兼、生寿共不詳)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(26)
(100).6―①―⑧『憲章氏5世英住小宗』(9)、憲章氏5世(平得与人)平得筑登之親雲上英住(童名:満慶山、1669~1741年卒)。:(18).6―①『憲章氏3世英政小宗』(2):憲章氏4世平田与人英盛(童名:津久利、1613~83年卒)の四男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(27)

3.1670年生まれの(101).2―⑦『嘉善氏8世永明小宗』(8)から1687年ころ生まれた(150).29―③『岳章氏3世致經小宗』(4)まで。

(101).2―⑦『嘉善氏8世永明小宗』(8)、嘉善氏8世与那国与人永明(童名:津久利、生月日不詳・1670~1700年卒)。:(2).2―『嘉善姓大宗永展』(1):嘉善氏7世大浜親雲上永善(童名:石戸能、1623~85年卒)の三男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(28)
(102).6―①―⑨『憲章氏6世英休小宗』(10)、憲章氏6世波照間目差・天底筑登之親雲上英休(童名・生寿不明)。:(18).6―①『憲章氏3世英政小宗』(2):憲章氏5世与那国与人英玄(童名:津久利、1641~1708年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(29)
(103).2―②―⑧『嘉善氏8世永常小宗』(9)、嘉善氏8世小浜目差・大浜筑登之永常(童名:松兼、1670~1751年卒)。:(35).2―②『嘉善氏5世永定小宗』(3):嘉善氏7世大浜与人永榮(童名:鶴兼、生寿共不詳)の三男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(30)
(104).2-⑨『嘉善氏9世永由小宗』(10)、嘉善氏9世慶田城与人永由(童名:鶴千代、1671~1727年卒)。:(2).2―『嘉善姓大宗永展』(1):嘉善氏8世石垣親雲上永吉(童名:真勢、1644~1724年卒)の長男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(31)
(105).2―①―④―⑩『嘉善氏7世永與小宗』(11)、嘉善氏7世小浜筑登之親雲上永與(1671~1751年卒)。:(73).2―①―④『嘉善氏6世永網小宗』(5):嘉善氏6世小浜目差・西表仁也永網(1651~86年卒)の三男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(32)
(106).24―①―②『文珪氏4世師番小宗』(3)、文珪氏4世白保目差・大城筑登之師番(童名:樽金、1671~1750年卒)。:(62).24―①『文珪氏3世師忠小宗』(2):文珪氏3世大城目差師忠(童名・生寿不明)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(33)
(107).2―⑪『嘉善氏9世永村小宗』(12)、嘉善氏9世永村(1672~1735年卒)。:(2).2―『嘉善姓大宗永展』(1):嘉善氏8世石垣親雲上永吉(童名:真勢、1644~1724年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(34)
(108).10 ―④『毛裔氏3世安資小宗』(5)、毛裔氏3世石垣親雲上安資(童名:美屋久、1673~1726年卒)。:(11).10―『毛裔姓大宗安英』(1):毛裔氏2世大浜親雲上安師(童名:真蒲戸、1602~74年卒)の七男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(28)
(109).10 ―⑤『毛裔氏3世安典小宗』(6)、毛裔氏3世大筆者・与那国筑登之安典(童名・生寿不明)。『長栄氏5世信本小宗』家譜に「8世石垣親雲上信平親雲上信平(童名:鶴千代、1650~82年卒)の長女久山(1670~1708年卒)が毛裔氏大浜仁也安典に嫁ぐ。」と記されている。:(11).10―『毛裔姓大宗安英』(1):毛裔氏2世大浜親雲上安師(童名:真蒲戸、1602~74年卒)の六男。:ヘ.琉球王国の役たちとその子孫(29)
(110).10 ―②―⑥『毛裔氏4世安固小宗』(7)、毛裔氏4世古見目差安固(1673年生まれ~)。:(64).10―②『毛裔氏3世安維小宗』(3):毛裔氏3世大浜親雲上安維(童名:蒲戸、1648~1706年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(30)
(111).41 ―『陽信姓(大宗)頼仲』(1)、陽信姓(大宗)慶田城与人頼仲(童名・生寿不明)。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(31)
*『嘉善氏9世永由小宗』家譜の「嘉善氏9世慶田城与人永由(童名:鶴千代、1671~1727年卒)」の項には「嘉善氏9世大浜仁也永由の室は陽信氏慶田城与人頼仲の長女、嘉袮那志(1673~1756年卒)」と書かれている。また、『毛裔氏3世安維小宗』家譜には、毛裔氏3世大浜親雲上安維(童名:蒲戸、1648~1706年卒)の次女(1683~1713年卒)が陽信氏新垣仁也頼正に嫁ぐと記載されている。『御使者在番記』や『八重山島年来記』には新在番として1655年那覇、新垣親雲上が来島し1656年帰国している。この陽信姓(大宗)慶田城与人頼仲の父が在番、那覇、新垣親雲上か家譜実見で確認したい。
(112).42 ―『仲容姓(大宗)秀 』(1)、仲容姓(大宗)竹冨与人秀 (童名・生寿不明)。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(32)
*『上官氏2世正信小宗』家譜の「上官氏6世保里目差・古見筑登之正良(童名:牛、1691~1748年卒)の室は仲容氏竹冨与人秀 女真市(1693~1775年卒)」と記載されている。
(113).7―②―⑧『上官氏6世正寄小宗』(9)、上官氏6世大浜与人・稲福筑登之正寄(童名:松金、1674~1733年卒)。:(42).7―②『上官氏4世正朝小宗』(3):上官氏5世竹富与人正舎(童名:保久利、1638~90年卒)の四男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(33)
(114).7―②―⑨『上官氏6世正儀小宗』(10)、上官氏6世花城目差・竹冨尓也正儀(童名:樽金、1674~1724年卒)。:(42).7―②『上官氏4世正朝小宗』(3):上官氏5世竹富与人正舎(童名:保久利、1638~90年卒)の五男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(34)
(115).19 ―①―⑤『山陽氏4世長延小宗』(6)、山陽氏4世大浜親雲上長延(童名:石戸能、1674~1749年卒)。:(59).19―①『山陽氏3世長孝小宗』(2)::山陽氏2世黒島首里大屋子長孝(童名:真山戸、1645~86年卒)の次男。:ロ.那礼当とその子孫(6)
(116).2―①―④―⑫『嘉善氏7世永活小宗』(13)、嘉善氏7世西表仁也永活(童名:祖良廣、1675~1714年卒)。:(73).2―①―④『嘉善氏6世永網小宗』(5):嘉善氏6世小浜目差・西表仁也永網(1651~86年卒)の四男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(35)
(117).3―④『錦芳氏8世用章小宗』(5)、錦芳氏8世与那国筑登之用章(1676~1749年卒)。:(3).3―『錦芳姓大宗用緒』(1):錦芳氏7世与那国与人用親(童名:真茂能、1656~1702年卒)の次男。:ホ.慶来慶田城とその子孫(5)
(118).1―①―④『長栄氏9世信任小宗』(5)、長栄氏9世波照間首里大屋子信任(童名・生寿不明)。:(30).1―①『長栄氏5世信本小宗』(2):長栄氏8世石垣親雲上信平(童名:鶴千代、1650~82年卒)の次男。:イ.長田大翁主の子孫(5)
(119).1―①―⑤『長栄氏9世信庸小宗』(6)、長栄氏9世大目差信庸(童名:祖良廣、生不詳~1727年卒)。:(30).1―①『長栄氏5世信本小宗』(2):長栄氏8世石垣親雲上信平(童名:鶴千代、1650~82年卒)の三男。:イ.長田大翁主の子孫(6)
(120).11 ―③『文林氏5世方義小宗』(4)、文林氏5世方義(童名・生寿不明)。:(12).11―『文林姓大宗方因』(1):文林氏4世宮良親雲上方景(童名:津久利、1629~1702年卒)の三男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(32)
(121).19 ―⑥『山陽氏4世長休小宗』(7)、山陽氏4世石垣親雲上長休(童名:樽金、1677~1734年卒)。:(23).19―『山陽姓大宗長光』(1):山陽氏3世宮良親雲上長好(童名:真蒲戸、1627~94年卒)の次男。:ロ.那礼当の子孫(7)
(122).43 ―『李保姓大宗喜時』(1)、李保姓大宗川平与人喜時(童名:真蒲戸、1677~1739年卒)。:父は在番筆者(1675年来島して1677年に帰国)、王府那覇李國昌・古波蔵筑登之親雲上喜廣、4世之孫李自寛知念筑登之親雲上喜之(1644~1722年卒)。母は在番筆者として1657年来島し1659年帰国した王府首里葛氏新川親雲上秀並の娘、真鶴(1658~1721年卒)。:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(35)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「李氏 知念親雲上―2472、元祖李國昌古波倉親雲上喜廣三世川上喜憲志流二子喜自寛知念喜之」と記載されている。
(123).2―②―⑬『嘉善氏9世永岑小宗』(14)、嘉善氏9世大筆者・石垣仁屋永岑(童名:真勢、1678~1708年卒)。:(35).2―②『嘉善氏5世永定小宗』(3):嘉善氏8世石垣親雲上永恒(童名:石戸能、1657~1714年卒)の長男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(36)
(124).7―①―⑩『上官氏6世正永小宗』(11)、上官氏6世宇江城筑登之正永(童名:真祢、1678~1736年卒)。:(16).7―①『上官氏2世正信小宗』(2):上官氏5世花城与人(花城筑登之親雲上)正師(童名:浦戸、1642~1730年卒)の四男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(36)
(125).7―③―⑪『上官氏6世正保小宗』(12)、上官氏6世黒島仁也正保(童名:真蒲戸、1678~1750年卒)。:(80).7―③『上官氏5世正房小宗』(4):上官氏5世冨里筑登之親雲上正房(童名:保久利思、1654~1734年卒)の長男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(37)
(126).44 ―『葉茂姓大宗兼久』(1)、葉茂姓大宗与儀仁也兼久(1678年生まれ~)。:父は首里葉氏江洲親方兼弘、3世与儀親雲上兼林(1677年に八重山在番の喜納親雲上の同伴者)。母は石垣村の住民で真称の娘、オナヒト:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(38)
『葉茂姓大宗兼久』家譜が未確認なので喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」には「葉茂氏(与義家))の項に「1世(大宗)兼久→2世兼世→3世兼次→4世兼幸→5世(嗣子)兼孫→6世兼徳→7世兼芳。父ハ首里葉氏江洲親方兼弘、三世与義親雲上兼林デアル。彼ハ1677年喜納親雲上ガ八重山在番トシテ赴任ノ時同伴シテ八重山滞在中石垣村真称女オナヒトヲ妾ニ兼久ヲ生ム」と書かれている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「葉氏 與儀親雲上―704、元祖葉有茂眞壁親雲上兼健、二世葉逢春江洲親方兼弘支流六男葉自道味兼和」と書かれている。家譜実見で確認したい
(127).6―⑥―⑩『憲章氏7世英蒿小宗』(11)、憲章氏7世英蒿(童名・生寿不明)。:(84).6―⑥『憲章氏6世英董小宗』(7):憲章氏6世黒島首里大屋子英董(童名:満慶山、1659~1718年卒)の長男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(37)
(128).1―①―⑥『長栄氏9世眞岑小宗』(7)、長栄氏9世大浜与人眞岑(童名・生寿不明)。:(30).1―①『長栄氏5世信本小宗』(2):長栄氏8世石垣親雲上信平(童名:鶴千代、1650~82年卒)の四男。:イ.長田大翁主とその子孫(7)
(129).45 ―『恵倫姓(大宗)稠廣』(1)、恵倫姓(大宗)鬚川与人稠廣(童名・生寿不明)。:父は不明:ニ.明宇底獅子嘉殿(生不明~1500年卒)とその子孫(33)
*『山陽氏3世長孝小宗』家譜の5世保里与人長敞(童名:山戸、1689~1746年卒)の「三男稠基」項には「恵倫氏鬚川与人稠廣依無子嗣子呈請為嗣子継彼家統」と書かれている。役職名の鬚川与人職が同族で継承されたと仮定し、初代の鬚川与人は明宇底獅子嘉殿(生不明~1500年卒)の子孫・末裔者の一人である公孫姓大宗鬚川与人常頼(童名:保久利、生寿今不可考)、二代が大史氏3世鬚川与人高起(童名:山戸、生不詳~1656年卒)、三代は恵倫姓(大宗)鬚川与人稠廣(童名・生寿不明)らの明宇底獅子嘉殿一族に継承されたと推察。
(130).46 ―『松林姓(大宗)跋達』(1)、松林姓(大宗)宮良与人跋達(童名・生寿不明)。:父は不明:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(34)
*『松茂氏5世當光小宗』家譜には松茂氏6世南風見与人當因(童名:蒲戸、1693~1753年卒)の長男當黒、本室所生・母が山陽氏4世大浜目差長状(童名:祖良廣、1672~1708年卒)の次女、久屋真(1691~1771年卒)。松林氏宮良与人跋達為嗣子、別有家譜という内容で書かれている。一門(一族)の松林姓という名称から、明宇底獅子嘉殿(生不明~1500年卒)の子孫たちの文林姓・林松姓・松茂姓の同族たちから明宇底獅子嘉殿とその子孫たちの一人と推察。ちなみに、林松氏4世保里掟親雲上實京(童名:祖良廣、1629~1710年卒)の父・林松氏3世實善(童名:萬能、生寿不詳)が宮良目差に就いている。
(131).32―④―⑤『梅公氏3世孫長小宗』(6)、梅公氏3世慶田城筑登之孫長(童名:石戸能、1679~1746年卒)。:(85).32―④『梅公氏2世孫晋小宗』(5):梅公氏2世石垣与人孫晋(童名:真勢山、1659~1710年卒)の長男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(39)
(132).3―⑤『錦芳氏8世用香小宗』(6)、錦芳氏8世西表首里大屋子用香(童名・生寿不明)。:(3).3―『錦芳姓大宗用緒』(1):錦芳氏7世与那国与人用親(童名:真茂能、1656~1702年卒)の三男。:ホ.慶来慶田城の子孫(6)
(133).19 ―①―⑦『山陽氏4世長實小宗』(8)、山陽氏4世若文子・當銘仁屋長實(童名:松金、1682~1711年卒)。:(59).19―①『山陽氏3世長孝小宗』(2):山陽氏2世黒島首里大屋子長孝(童名:真山戸、1645~86年卒)の三男。:ロ.那礼当の子孫(8)
(134).29―②『岳章氏4世致展小宗』(3)、岳章氏4世白保目差・川平仁屋致展(童名:金思、1682~1735年)。:(40).29―『岳章姓大宗致崇』(1):岳章氏3世与那国与人致寧(童名:蒲戸、1644・61年〈順治年間〉生~1696年卒)の長男。:ト.1611年ころ薩摩藩の進言により系持ちになった岳章姓大宗致崇とその子孫(3)
※.真比(1682~1762年卒)。夫は梅公氏3世仮若文子役・嵜原仁也孫敏(童名:真山戸、1690~1727年卒)。:(158).32―④―⑦『梅公氏3世孫敏小宗』(8):父は1679年新在番として来島、王府首里楊氏5世長堂親雲上昌識、1681年に帰国している。:○ヘ.琉球王国の役人(在番)たちとその娘(3)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「楊氏 長堂親雲上―232、元祖山内親方昌信四世山一親方昌成支流三男楊繼家長堂親雲上昌職」と書かれている。
(135).24―③『文珪氏4世師等小宗』(4)、文珪氏4世宮良筑登之親雲上師等(童名:樽、生寿不明)。:(31).24―『文珪姓大宗師春』(1):文珪氏3世宮良目差師秋(童名:蒲戸、1645~1709年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(38)
(136).33―①『益茂氏3世里榮小宗』(2)、益茂氏3世登野城与人里榮(童名:亀、1684~1756年卒)。:(52).33―『益茂姓大宗里安』(1):益茂氏2世登野城与人里董(童名:祖良廣、1651~85年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(39)
(137).3―③―⑥『錦芳氏8世用久小宗』(7)、錦芳氏8世用久(童名・生寿不明)。:(91).3―③『錦芳氏6世用重小宗』(4):錦芳氏7世宮良目差用重(童名:石戸能、1664~1716年卒)の次男。:ホ.慶来慶田城の子孫(7)
(138).12―①―②『長興氏6世善得小宗』(3)、長興氏6世花城親雲上善得(1684~1762年卒)。:(22).12―①『長興氏2世善方小宗』(2):長興氏5世宮良与人善房(童名:松兼、生月日不詳~1723年卒)の長男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(35)
(139).5―①『成功氏7世廉邦小宗』(2)、成功氏7世桃原目差・大浜筑登之廉邦(童名:樽兼、1685~1759年卒)。:(5).5―『成功姓大宗廉永』(1):成功氏6世小浜与人廉榮(1665~1725年卒)の長男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(40)
(140).6―⑥―⑪『憲章氏7世英任小宗』(12)、憲章氏7世高那与人英任(童名:佐嘉伊、1685~1768年卒)。:(84).6―⑥『憲章氏6世英董小宗』(7):憲章氏6世黒島首里大屋子英董(童名:満慶山、1659~1718年卒)の四男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(41)
(141).7―③―⑫『上官氏6世正奉小宗』(13)、上官氏6世白保目差・掛保久仁也正奉(童名:真牛、1685~1734年卒)。:(80).7 ―③『上官氏5世正房小宗』(4):上官氏5世冨里筑登之親雲上正房(童名:保久利思、1654~1734年卒)の三男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(40)
(142).3―③―⑦『錦芳氏8世用但小宗』(8)、錦芳氏8世慶田城筑登之用但(1686~1741年卒)。:(91).3―③『錦芳氏6世用重小宗』(4):錦芳氏7世宮良目差用重(童名:石戸能、1664~1716年卒)の三男。:ホ.慶来慶田城の子孫(8)
(143).3―①―⑧『錦芳氏8世用昌小宗』(9)、錦芳氏8世用昌(童名・生寿不明)。:(6).3―①『錦芳氏3世用信小宗』(2):錦芳氏7世波照間首里大屋子用恒(童名:真茂能、生忌月日不詳)の次男。:ホ.慶来慶田城の子孫(9)
(144).10―①―⑦『毛裔氏5世安有小宗』(8)、毛裔氏5世安有(童名・生寿不明)。:(56).10―①『毛裔氏3世安核小宗』(2):毛裔氏4世宮良目差・登野城尓也安盈(童名:二千代、1644~96年〈順治年間〉生~1696年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(41)
(145).47―『季順姓大宗由親』(1)、季順姓大宗祖納目差・天願尓也由親(童名:鶴金、1686~1754年卒)。:父は首里李氏當銘筑登之親雲上由次、在番筆者之時男子。母は平得村住民で百姓の嘉那の長女、那比眞(生年不詳~1726年)。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(42)
『季順姓大宗由親』家と『季山姓大宗由隆』家は、苗字がは田場、名乗頭名は「由」である。両家は隣接して居住しおり、同一の「元祖李氏稲福親雲上由秀」である。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「李氏 當銘親雲上―275、元祖稲福親雲上由秀長子當銘親雲上由昌支流四男李春澤當銘子由延」。「李氏 當銘親雲上―281、元祖稲福親雲上由秀四世當銘親雲上由冶支流次男李朝彦當銘親雲上由連」と記載されている。家譜実見でどの支流なのかを確認したい。
(146).1―①―⑦『長栄氏10世信房小宗』(8)、長栄氏10世信房(童名・生寿不明)。:(30).1―①『長栄氏5世信本小宗』(2):長栄氏9世西表首里大屋子信茂(童名:保久利、1668~1708年卒)の長男。:イ.長田大翁主の子孫(8)
(147).9―③―⑦『大史氏6世高朝小宗』(8)、大史氏6世宮良与人高朝(童名・生寿不明)。:(66).7―③『大史氏5世高満小宗』(4):大史氏5世宮良掟親雲上高満(童名:保久利思、生年月日不詳~1708年卒)の長男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(36)
(148).2―②―⑭『嘉善氏9世永収小宗』(15)、嘉善氏9世波照間首里大屋子永収(童名:松兼、1687~1729年卒)。:(35).2―②『嘉善氏5世永定小宗』(3):嘉善氏8世石垣親雲上永恒(童名:石戸能、1657~1714年卒)の三男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(42)
(149).6―⑥―⑫『憲章氏7世英睦小宗』(13)、憲章氏7世銘可露仁也英睦(1687~1713年卒)。:(84).6―⑥『憲章氏6世英董小宗』(7):憲章氏6世黒島首里大屋子英董(童名:満慶山、1659~1718年卒)の五男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(43)
(150).29―③『岳章氏3世致經小宗』(4)、岳章氏3世嘉平筑登之親雲上致經(童名:奴勢、1687~1759年卒)。:(40).29―『岳章姓大宗致崇』(1):岳章氏2世川平与人致頼(童名:松兼、生月日寿倶不詳)の三男:ト.1611年ころ薩摩藩の進言により系持ちになった岳章姓大宗致崇とその子孫(4)

4.1687年生まれの(151).32―②―⑥『梅公氏3世孫格小宗』(7)から1690年ころ生まれの(200).1―①―⑫『長栄氏10世信巾小宗』(13)、まで。

(151).32―②―⑥『梅公氏3世孫格小宗』(7)、梅公氏3世西表首里大屋子孫格(童名:亀千代、1687~1756年卒)。:(75).32―②『梅公氏2世孫永小宗』(3):梅公氏2世黒島首里大屋子孫永(童名:真山戸、1651~90年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(43)
※.真鶴(1687~1771年卒)。、夫は順天氏6世西表首里大屋子直香(童名:松金、1676~1744年卒)。:(38).27-『順天姓大宗直連』(1):『順天氏5世直常小宗』家譜には「母首里瀬嵩親雲上景亮、當島在番之時所生女、眞鶴。康凞十六(1677)年辛(丁)卯(1687)二月三十日生。乾隆三十六(1771)年辛卯三月十日大波之時溺死。壽・八十五。號・右岳」と書かれている。父は1685年新在番筆者として来島した(首里和氏)瀬嵩親雲上景亮、1687年に帰国している。:○ヘ.琉球王国の役人(在番)たちとその娘(4)
(152).10―②―⑧『毛裔氏4世安興小宗』(9)、毛裔氏4世黒島目差安興(童名・生寿不明)。:(64).10―②『毛裔氏3世安維小宗』(3):毛裔氏3世大浜親雲上安維(童名:蒲戸、1648~1706年卒)の四男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(44)
(153).29―④『岳章氏3世致森小宗』(5)、岳章氏3世當山筑登之致森(童名:真勢山、不詳~1760年卒)。:(40).29―『岳章姓大宗致崇』(1):岳章氏2世川平与人致頼(童名:松兼、生月日寿倶不詳)の四男。:ト.1611年ころ薩摩藩の進言により系持ちになった岳章姓大宗致崇とその子孫(5)
(154).7―①―⑬『上官氏6世正知小宗』(14)、上官氏6世正知(童名・生寿不明)。:(16).7 ―①『上官氏2世正信小宗』(2):上官氏5世花城与人・花城筑登之親雲上正師(童名:浦戸、1642~1730年卒)の五男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(45)
(155).1―①―⑧『長栄氏10世真邦小宗』(9)、長栄氏10世石垣与人真邦(童名:根豊、1689~1755年卒)。:(30).1―①『長栄氏5世信本小宗』(2):長栄氏9世西表首里大屋子信茂(童名:保久利、1668~1708年卒)の次男。:イ.長田大翁主の子孫(9)
(156).10―①―⑨『毛裔氏5世安廣小宗』(10)、毛裔氏5世高那与人安廣(童名:谷山、1689~1768年卒)。:(56).10―①『毛裔氏3世安核小宗』(2):毛裔氏4世宮良目差・登野城尓也安盈(童名:二千代、1644~96年〈順治年間〉生~1696年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(46)
(157).19―⑧『山陽氏5世長良小宗』(9)、山陽氏5世竹富目差・宮良仁也長良(童名:真蒲戸、1689~1779年卒)。:(23).19 ―『山陽姓大宗長光』(1):山陽氏4世宮良親雲上長亮(童名:保久利思、1669~1730年卒)の次男。:ロ.那礼当の子孫(9)
(158).32―④―⑦『梅公氏3世孫敏小宗』(8)、梅公氏3世仮若文子・崎原仁也孫敏(童名:真山戸、1690~1727年卒)。:(85).32―④梅公氏2世孫晋小宗』(5):梅公氏2世石垣与人孫晋(童名:真勢山、1659~1710年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(47)
(159).12―③『長興氏5世善永小宗』(4)、長興氏5世善永(童名・生寿不明)。:(13).12―『長興姓大宗善安』(1):長興氏4世玻座真与人善見(童名:兼山、1653~1740年卒)の長男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(37)
(160).2―②―⑮『嘉善氏9世永並小宗』(16)、嘉善氏9世永並(童名・生寿不明)。:(35).2―②『嘉善氏5世永定小宗』(3):嘉善氏8世石垣親雲上永恒(童名:石戸能、1657~1714年卒)の四男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(44)
(161).7―②―⑧―⑭『上官氏7世正公小宗』(15)、上官氏7世謝敷仁也正公(童名・生寿不明)。:(113).8―②―⑧『上官氏6世正寄小宗』(9):上官氏6世大浜与人・稲福筑登之親雲上正寄(童名:松金、1674~1733年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(48)
(162).9―③―⑧『大史氏6世高統小宗』(9)、大史氏6世高統(童名・生寿不明)。:(66).9―③『大史氏5世高満小宗』(4):大史氏5世宮良掟親雲上高満(童名:保久利思、生年月日不詳~1708年卒)の三男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(38)
(163).2―②―⑯『嘉善氏9世永業小宗』(17)、嘉善氏9世大浜筑登之親雲上永業(1691~1768年卒)。:(35).2―②『嘉善氏5世永定小宗』(3):嘉善氏8世石垣親雲上永恒(童名:石戸能、1657~1714年卒)の五男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(45)
(164).7―③―⑮『上官氏6世正李小宗』(16)、上官氏6世大浜与人正李(童名:樽、1691~1746年卒)。:(80).7―③『上官氏5世正房小宗』(4):上官氏5世冨里筑登之親雲上正房(童名:保久利思、1654~1734年卒)の四男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(49)
(165).2―⑩―⑰『嘉善氏10世永孝小宗』(18)、嘉善氏10世平得目差永孝(童名・生寿不明)。:(104).2―⑨『嘉善氏9世永由小宗』(10):嘉善氏9世慶田城与人永由(童名:鶴千代、1671~1727年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(46)
(166).9―⑨『大史氏7世高興小宗』(10)、大史氏7世西表仁屋高興(童名:空廣、1692~1724年):(10).9―『大史姓大宗高教』(1):大史氏6世西表首里大屋子高道(童名:真根、1667~1737年)の次男。:ニ.明宇底獅子嘉
殿とその子孫(39)
(167).48―『麻武姓大宗盛壽』(1)、麻武姓大宗川平尓也盛壽(童名:小樽、1692~1764年卒)。:父は首里麻姓大里親方盛行、麻姓6世城間子盛英。母は平得村住民の百姓加那の娘、伊津喜(1680~1774年卒)。:ヘ.琉球王国の役人(林寺住待向恩長老附来島の同行者)とその子孫(50)
(168).6―⑬『憲章氏7世英譽小宗』(14)、憲章氏7世英譽(童名・生寿不明)。:(7).6―『憲章姓大宗英乗』(1):憲章氏6世竹富与人英寧(童名:真蒲戸、1657~94年卒)の三男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(47)
(169).1―⑨『長栄氏8世真方小宗』(10)、長栄氏8世若文子・大浜仁屋真方(童名:真蒲戸、1693~1724年卒)。:(1).1―『長栄姓大宗信保』(1):長栄氏7世大浜親雲上信周(童名:祖良廣、1669~1733年卒)の次男:イ.長田大翁主の子孫(10)
(170).27―②『順天氏4世直要小宗』(3)、順天氏4世慶田城与人直要(童名:祖良廣、1693~1761年卒)。:(38).27―『順天姓大宗直連』(1):順天氏3世宮良掟親雲上直弘(1658~1743年卒)の三男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(40)
(171).29―⑤『岳章氏4世致泰小宗』(6)、岳章氏4世野底村耕作筆者・與那国尓也致泰(童名:金思、1693~1754年卒)。:(40).29―『岳章姓大宗致崇』(1):岳章氏3世与那国与人致寧(童名:蒲戸、1644・61年〈順治年間〉生まれ~1696年卒)の三男。:ト.1611年ころ薩摩藩の進言により系持ちになった岳章姓大宗致崇とその子孫(6)
(172).32―④―⑧『梅公氏3世孫至小宗』(9)、梅公氏3世石垣尓也孫至(童名:部津伊、1693~1730年卒)。:(85).32―④『梅公氏2世孫晋小宗』(5):梅公氏2世石垣与人孫晋(童名:真勢山、1659~1710年卒)の三男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(51)
(173).12―④『長興氏5世善要小宗』(5)、長興氏5世善要(童名・生寿不明)。:(13).12―『長興姓大宗善安』(1):長興氏4世玻座真与人善見(童名:兼山、1653~1740年卒)の三男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(41)
(174).1―①―⑩『長栄氏10世真和小宗』(11)、長栄氏10世真和(童名・生寿不明)。本家の家譜に妹の三女真市(1695年生まれ~)。:(30).1―①『長栄氏5世信本小宗』(2):長栄氏9世西表首里大屋子信茂(童名:保久利、1668~1708年卒)の四男。:イ.長田大翁主の子孫(11)
(175).2―②―⑱『嘉善氏9世永福小宗』(19)、嘉善氏9世永福(童名・生寿不明)。:(35).2―②『嘉善氏5世永定小宗』(3):嘉善氏8世石垣親雲上永恒(童名:石戸能、1657~1714年卒)の六男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(48)
(176).7―①―⑩―⑯『上官氏7世正恩小宗』(17)、上官氏7世正恩(童名・生寿不明)。:(124).7―①―⑩『上官氏6世正永小宗』(11):上官氏6世宇江城筑登之正永(童名:真祢、1678~1736年卒)の長男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(52)
(177).49―『明昭姓大宗長英』(1)、明昭姓大宗小浜与人長英(童名:真勢山、1694~1769年卒)。:父は在番筆者(1693年来島し1695年に帰国)、王府泊村明姓饒平名親雲上長當の子息。母は平得村の住民で百姓の與利屋の娘、真伊津(1672~1748年卒)。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(53)
『明昭姓大宗長英』家譜には明紹氏2世7男長任が古見首里大屋子、別有家譜。明紹氏3世長嶺仁也長榮(童名:松、1751~1814年卒)が大浜間切の26代の大浜頭に1811~14年まで勤務している。
在番筆者の王府泊村明姓饒平名親雲上長當の親族の一人『明姓家譜-7世饒平名筑登之親雲上長英 嘉陽家』家譜の序文世系図には「元祖明樹勲照屋親雲上長太6世明有簾名饒平名親雲上長盈(1690~1773年卒)次男」と書かれている。また、明氏7世饒平名筑登之親雲上長英(童名:樽金、唐名:明國村、1722~80年卒)が1773年に在番筆者として来島し、滞在中に新川村住民の百姓の伊嘉部を娶り出生の娘、保成(1775年生まれ~)である。また、長男の8世饒平名筑登之親雲上長厚(童名:思加那、唐名:明順金、1746~1800年卒)は新在番筆者として1798年来島して1800年に帰国している。
(178).3―①―⑨『錦芳氏9世用英小宗』(10)、錦芳氏9世鳩間村耕作筆者・波照間仁也用英(童名:蒲戸、1695~1749年卒)。:(6).3―①『錦芳氏3世用信小宗』(2):父の錦芳氏8世玻座真与人用将(童名:樽、1683~1733年卒)の長男。:ホ.慶来慶田城の子孫(10)
(179).6―①―⑭『憲章氏7世英應小宗』(15)、憲章氏7世宮良与人英應(童名:真勢、1695~1750年卒)。:(18).6―①『憲章氏3世英政小宗』(2):憲章氏6世新城目差英明(童名:保久利思、生不詳~1708年卒)の次男。:ハ.仲間年満慶山とその子孫(49)
(180).12―⑤『長興氏5世善孝小宗』(6)、長興氏5世善孝(童名・生寿不明)。:(13).12―『長興姓大宗善安』(1):父の長興氏4世玻座真与人善見(童名:兼山、1653~1740年卒)の四男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(42)
(181).12―①―⑥『長興氏6世善生小宗』(7)、長興氏6世善生(1695年生まれ~):(22).12―①『長興氏2世善方小宗』(2):長興氏5世宮良与人善房(童名:松兼、生月日不詳~1723年卒)の次男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(43)
(182).19―⑨『山陽氏5世長岡小宗』(10)、山陽氏5世石垣与人長岡(童名:美屋古、1695~1777年卒)。:(23).19 ―『山陽姓大宗長光』(1):山陽氏4世宮良親雲上長亮(童名:保久利思、1669~1730年卒)の四男。:ロ.那礼当の子孫(10)
※.真久思(1696~1767年卒)。:夫の嘉善氏9世崎枝与人永倫(童名:金思、1691~1769年卒)の継室。:(103).2―②―⑧『嘉善氏8世永常小宗』(9):実父は王府・那覇兪氏5世湖城親雲上恵員(童名:真山戸、唐名:兪盛逢、1649~1729年卒)。当島の新在番筆者(1695年来島、1697年帰任)の在勤中に出生した娘。:○へ.琉球王国の役人(在番筆者)たちとその娘(5)
(183).50―『孝祐姓(大宗)守清』(1)、孝祐姓(大宗)胡城仁也守清(童名・不明、1698年生れ~)。:王府の那覇兪氏5世湖城親雲上恵員(童名:真山戸、唐名:兪盛逢、1649~1729年卒)。当島の新在番筆者(1695年来島、1697年帰任)、1699年に再度在番筆者として1699年来島して1701年5月に帰国している。在番筆者として在勤中に出生した息子。出生は筆者が推察。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(54)
喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「姓氏一覧」には「孝祐氏胡城仁也守清」として書かれている。『八重山島年来記』には「1695年在番筆者湖城筑登之親雲上来島、1697年帰任。1699年に再度在番筆者として1699年来島して1701年5月に帰国」と書かれている。
『兪姓家譜-(根路銘家)』家譜には「元祖兪氏平安山親雲上重明(童名:眞山戸、唐名:生不詳~1593年卒)―兪氏5世、(重之字因禁止改恵)湖城親雲上恵員(童名:真山戸、唐名:兪盛逢、1649~1729年卒)」という内容で書かれている。
(184).7―②―⑧―⑰『上官氏7世正法小宗』(18)、上官氏7世大浜仁也正法(童名・生寿不明)。:(113).7―②―⑧『上官氏6世正寄小宗』(9):上官氏6世大浜与人・稲福筑登之親雲上正寄(童名:松金、1674~1733年卒)の三男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(55)
(185).10―①―⑩『毛裔氏5世安賀小宗』(11)、毛裔氏5世安賀(童名・生寿不明)。:(56).10―①『毛裔氏3世安核小宗』(2):毛裔氏4世宮良目差・登野城尓也安盈(童名:二千代、1644~96年=順治年間に生まれ~1696年卒)の四男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(56)
(186).10―②―⑪『毛裔氏5世安吉小宗』(12)、毛裔氏5世大浜尓也安吉(童名・生寿不明)。:(64).10―②『毛裔氏3世安維小宗』(3):毛裔氏4世惣横目・鳩間与人安政(童名:蒲戸、1671~1737年卒)の長男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(57)
(187).7―②―⑦―⑱『上官氏7世正起小宗』(19)、上官氏7世正起(童名・生寿不明):(97).7―②―⑦『上官氏6世正缶小宗』(8):上官氏6世川平与人正缶(童名:真牛金、1667~1726年卒)の次男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(58)
(188).1―①―⑪『長栄氏8世信尊小宗』(12)、長栄氏8世信尊(童名・生寿不明)。本家の家譜に姉の三女真市(1695年生まれ~)と記載されている。:(30).1―①『長栄氏5世信本小宗』(2):長栄氏9世西表首里大屋子信茂(童名:保久利、1668~1708年卒)の五男。:イ.長田大翁主の子孫(12)
(189).27―①―③『順天氏4世直得小宗』(4)、順天氏4世直得(童名・生寿不明)。:(86).27―①『順天氏3世直長小宗』(2):順天氏3世黒島目差・黒島筑登之直長(童名:松、1660~1745年卒)の次男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(44)
(190).12―⑦『長興氏5世善盛小宗』(8)、長興氏5世大川与人善盛(童名:保久利、1696~1769年卒)。:(13).12―『長興姓大宗善安』(1):長興氏4世玻座真与人善見(童名:兼山、1653~1740年卒)の五男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(45)
※.真那武樽(1696~1771年卒):夫の建昌氏4世大浜目差・名嘉地仁也廣傳(童名:満慶山、1693~1723年卒)の室、父は在番筆者・首里向氏伊是名親方朝隣(唐名:向自長)の来島ときの娘:(34).25―『建昌姓大宗廣教』(1):○へ.琉球王国の役人(在番)たちとその娘(6)
(191).2―①―③―⑲『嘉善氏8世永本小宗』(20)、嘉善氏8世西表筑登之永本(童名:山戸・石戸能、1697~1760年卒)。:(43).2―①―③『嘉善氏6世永則小宗』(4):嘉善氏7世平田筑登之永真(1653~1735年卒)の三男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(50)
(192).3―⑩『錦芳氏8世用仲小宗』(11)、錦芳氏8世与那国仁屋用仲(童名・生寿不明)。:(3).3―『錦芳姓大宗用緒』(1):錦芳氏7世与那国与人用親(童名:真茂能、1656~1702年卒)の四男。:ホ.慶来慶田城の子孫(11)
(193).6―⑥―⑮『憲章氏7世英副小宗』(16)、憲章氏7世黒島親雲上英副(童名・生寿不明)。:(84).6―⑥『憲章氏6世英董 小宗』(7):憲章氏6世黒島首里大屋子英董(童名:満慶山、1659~1718年卒)の六男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(51)
(194).3―①―⑪『錦芳氏9世用矩小宗』(12)、錦芳氏9世用矩(童名・生寿不明)。:(6).3―①『錦芳氏3世用信小宗』(2):錦芳氏8世玻座真与人用将(童名:樽、1683~1733年卒)の次男。:ホ.慶来慶田城の子孫(12)
(195).187―⑥―⑦『松茂氏6世當英小宗』(8)、松茂氏6世當英(童名:生寿不明)。:(98).18―⑥『松茂氏5世當光小宗』(7):松茂氏5世黒島首里大屋子當光(童名:松金、1668~1726年卒)の次男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(46)
(196).2―②―⑬―⑳『嘉善氏10世永美小宗』(21)、嘉善氏10世永美(童名・生寿不明)。:(123).2―②―⑬『嘉善氏9世永岑小宗』(14):嘉善氏9世大筆者・石垣仁屋永岑(童名:真勢、1678~1708年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(52)
(197).19―①―⑩『山陽氏5世長次小宗』(11)、山陽氏5世黒島尓也長次(童名・生寿不明)。:(59).19―①『山陽氏3世長孝小宗』(2):父の山陽氏4世大浜目差・黒島尓也長状(童名:祖良廣、1672~1708年)の次男。:ロ.那礼当の子孫(11)
(198).7―②―⑨―⑲『上官氏7世正作小宗』(20)、上官氏7世名蔵与人正作(童名:松金、1698~1765年卒)。:(114).7―②―⑨『上官氏6世正儀小宗』(10):上官氏6世花城目差・竹富尓也正儀(童名:樽金、1674~1724年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(59)
(199).12―⑧『長興氏5世善邦小宗』(9)、長興氏5世善邦(童名・生寿不明)。:(13).12―『長興姓大宗善安』(1):長興氏4世玻座真与人善見(童名:兼山、1653~1740年卒)の六男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(47)
(200).1―①―⑫『長栄氏10世信巾小宗』(13)、長栄氏8世信巾(童名・生寿不明)。『長栄氏5世信本小宗』家譜に「姉の四女思市(1698年生まれ~)が書かれている。:(30).1―①『長栄氏5世信本小宗』(2):長栄氏9世西表首里大屋子信茂((童名:保久利、1668~1708年卒)の六男。:イ.長田大翁主の子孫(13)

5.1699年生まれの(201).1―①―⑬『長栄氏10世真帛小宗』(14)から1707年生まれの(250).10―②―⑭『毛裔氏3世安納小宗』(15)まで。

(201).1―①―⑬『長栄氏10世真帛小宗』(14)、長栄氏10世西表筑登之真帛(童名:喜佐真、1699~1769年卒)。:(30).1―①『長栄氏5世信本小宗』(2):長栄氏9世西表首里大屋子信茂(童名:保久利、1668~1708年卒)の七男。:イ.長田大翁主の子孫(14)
(202).27―④『順天氏4世直統小宗』(5)、順天氏4世宮良筑登之直統(童名:石戸能、1699~1765年卒)。:(38).27―『順天姓大宗直連』(1):順天氏3世宮良掟親雲上直弘(1658~1743年卒)の四男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(48)
(203).33―②『益茂氏4世里任小宗』(3)、益茂氏4世白保与人里任(童名:石戸能、1699~1760年卒)。:(52).33―『益茂姓大宗里安』(1):益茂氏3世波照間首里大屋子里倉(童名:満慶山、1668~1723年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(53)
(204).9―⑥―⑩『大史氏6世高誉小宗』(11)、大史氏6世又吉筑登之高誉(童名:真山戸、1700~72年卒)。:(96).9―⑥『大史氏5世高岡小宗』(7):大史氏5世運天筑登之高岡(1667~1772年卒)の次男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(49)
(205).7―⑳『上官氏6世正福小宗』(21)、上官氏6世川平筑登之正福(童名・生寿不明)。:(9).7―『上官姓大宗正廟』(1):上官氏5世与那国与人正則(童名:祖良廣、1652~1715年卒)の三男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(60)
(206).17―⑤―⑧『松茂氏6世當興小宗』(9)、松茂氏6世當興(童名・生寿不明)。:(54).17―⑤『松茂氏3世當元小宗』(6):松茂氏5世平得目差・花城尓也當秀(童名:松、1672~1723年卒)の三男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(50)
(207).6―①―⑯『憲章氏7世英忠小宗』(17)、憲章氏7世英忠(童名・生寿不明)。:(18).6―①『憲章氏3世英政小宗』(2):憲章氏6世新城目差英明(童名:保久利思、生不詳~1708年卒)の三男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(54)
(208).6―⑥―⑰『憲章氏7世英仍小宗』(18)、憲章氏7世英仍(童名・生寿不明)。:(84).6―⑥『憲章氏6世英董小宗』(7):憲章氏6世黒島首里大屋子英董(童名:満慶山、1659~1718年卒)の七男。:ハ.仲間満慶山とその子孫55)
(209).2―①―④―⑩―○21『嘉善氏8世永伴小宗』(22)、嘉善氏8世崎枝与人永伴(童名:真茂能、1701~71年卒)。:(105).2―①―④―⑩『嘉善氏7世永與小宗』(11):嘉善氏7世小浜筑登之親雲上永與(1671~1751年卒)。:ハ.仲間満慶山とその子孫(56)
(210).3―⑫『錦芳氏8世用烈小宗』(13)、錦芳氏8世伊原間目差・慶田城仁屋用烈(童名:石戸能、1701~71年卒)。:(3).3―『錦芳姓大宗用緒』(1):錦芳氏7世与那国与人用親(童名:真茂能、1656~1702年卒)の五男。:ホ.慶来慶田城の子孫(13)
(211).3―①―⑬『錦芳氏8世用冷小宗』(14)、錦芳氏8世石垣与人用冷(童名:嘉那、1701~71年卒)。:(6).3―①『錦芳氏3世用信小宗』(2):錦芳氏7世波照間首里大屋子用恒(童名:真茂能、生忌月日不詳)の三男。:ホ.慶来慶田城の子孫(14)
(212).1―①―⑭『長栄氏10世信味小宗』(15)、長栄氏10世信味(童名・生寿不明)。:(30).1―①『長栄氏5世信本小宗』(2):長栄氏9世西表首里大屋子信茂(童名:保久利、1668~1708年卒)の八男。:イ.長田大翁主の子孫(15)
(213).51―『重喜姓(大宗)實澄』(1)、重喜姓(大宗)真謝与人實澄(童名・生寿不明)。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(61)
『上官氏4世正朝小宗』家譜の上官氏9世古見仁也正金(童名:真三戸、1743~97年卒)の項に「室の伊勢美(1745~79年卒)は重喜氏真謝与人實澄の二女」。また、山陽氏10世神山仁也長全(童名:兼思、1831~76年卒)の室は重喜氏故儀保仁也實照の三女、嘉那志(1831年生まれ~)と記載されている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「喜氏 豊元親雲上―430、元祖喜自茂大城親雲上實常四世喜見儀保子實春支流二子喜承忠儀保筑登之實吉」。「喜氏 大城親雲上―431、元祖大城親雲上實常三世前儀保實房支流次男喜見龍儀保子實行」と記載されている。家譜実見でどの支流なのかを確認したい。
(214).6―⑱『憲章氏8世英與小宗』(19)、憲章氏8世英與(童名・生寿不明)。:(7).6―『憲章姓大宗英乗』(1):憲章氏7世波照間首里大屋子英承(童名:石戸能、1682~1737年卒)の長男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(57)
(215).2―②―⑧―○22『嘉善氏9世永親小宗』(23)、嘉善氏9世大浜仁也永親(1702~52年卒)。:(103).2―②―⑧『嘉善氏8世永常小宗』(9):嘉善氏8世小浜目差・大浜筑登之永常(童名:松兼、1670~1751年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(58)
(216).6―⑥―⑲『憲章氏7世英濱小宗』(20)、憲章氏7世英濱(童名・生寿不明)。:(84).6―⑥『憲章氏6世英董小宗』(7):憲章氏6世黒島首里大屋子英董(童名:満慶山、1659~1718年卒)の九男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(59)
(217).12―①―⑨『長興氏6世善元小宗』(10)、長興氏6世平田尓也善元(1702~57年卒)。:(22).12―①『長興氏2世善方小宗』(2):長興氏5世宮良与人善房(童名:松兼、生月日不詳~1723年卒)の四男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(51)
(218).32―④―⑨『梅公氏3世孫満小宗』(10):梅公氏3世石垣筑登之親雲上孫満(童名:満慶、1702~82年卒)。:(85).32―④梅公氏2世孫晋小宗』(5):梅公氏2世石垣与人孫晋(童名:真勢山、1659~1710年卒)の五男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(62)
※.ウナリ(1702年生まれ~)。:父は首里麻氏10世渡嘉敷親雲上眞房(童名:思次郎、唐名:麻時秀、1661~1720年卒)が八重山島へ1700年流刑して1705年ご赦免のときの娘。母は平得村住民で百姓山里仁也の娘、眞加戸。兄は麻支姓大宗宮良親雲上真方(童名:祖良廣、1704~71年卒)。:○へ.琉球王国の役人(その他)たちの娘(7)
「麻姓家譜(原)一世大城按司眞武 田名家」『那覇市史・資料篇第1卷7家譜資料第三集(首里系家譜)』那覇市企画部市史編集室/1982年)の「10世眞房」の項には「女子ウナリ住居八重山島康凞四十一(1702)年壬午閏六月十一日生。母八重山島平得村青八卷山里尓也女眞加戸為同島波照間首里大屋子養女」と書かれている。
(219).7―②―⑦―○21『上官氏7世正賢小宗』(22)、上官氏7世正賢(童名・生寿不明)。:(97).7―②―⑦『上官氏6世正缶小宗』(8):上官氏6世川平与人正缶(童名:真牛金、1667~1726年卒)の三男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(63)
(220).17―④―⑨『松茂氏5世當眞小宗』(10)、松茂氏5世仮若文子・石垣尓也當眞(1703~33年卒)。:(53).17―④『松茂氏3世當永小宗』(5):松茂氏4世若文子・崎原仁也當為(童名:谷山、1640~1704年卒)の三男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(52)
(221).11―④『文林氏6世方周小宗』(5)、文林氏6世方周(童名・生寿不明)。:(12).11―『文林姓大宗方因』(1):文林氏5世西表首里大屋子方登(童名:祖良廣、1669~1718年卒)の次男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(53)
(222).1―⑮『長栄氏8世真政小宗』(16)、長栄氏8世大浜親雲上真政(童名:鶴、1703~61年卒)。:(1).1―『長栄姓大宗信保』(1):長栄氏7世大浜親雲上信周(童名:祖良廣、1669~1733年卒)の三男。:イ.長田大翁主の子孫(16)
(223).19―⑪『山陽氏5世長苗小宗』(12)、山陽氏5世古見筑登之長苗(1703~65年卒)。:(23).19―『山陽姓大宗長光』(1):山陽氏4世宮良親雲上長亮(童名:保久利思、1669~1730年卒)の五男。:ロ.那礼当の子孫(12)
(224).19―①―⑤―⑫『山陽氏5世長寧小宗』(13)、山陽氏5世古見首里大屋子長寧(童名:真勢山、1703~50年卒)。:(115).19 ―①―⑤『山陽氏4世長延小宗』(6):山陽氏4世大浜親雲上長延(童名:石戸能、1674~1749年卒)の次男。:ロ.那礼当とその子孫(13)
(225).24―④『文珪氏5世師敏小宗』(5)、文珪氏5世桴海目差・宮良筑登之師敏(童名:樽、1703~62年卒)。:(31).24―『文珪姓大宗師春』(1):文珪氏4世宮良筑登之師治(童名:真牛、1677~1752年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(60)
(226).32―②―⑩『梅公氏4世孫次小宗』(11)、梅公氏4世古見仁也孫次(童名:嘉呂、1703~69年卒)。::(75).32―②『梅公氏2世孫永小宗』(3):梅公氏3世川平与人孫惟(童名:嘉呂、1703~69年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(64)
(227).52―『多田姓大宗督崇』(1)、多田姓大宗大城仁也督崇(童名:多称山、1703~58年卒)。::平得村住民百姓赤頭の大城仁也(1679~1750年卒)の長男:リ.1721年初代・大阿母の勲功陳情により系持ちになった子孫(1)
(228).17―⑤―⑩『松茂氏6世當次小宗』(11)、松茂氏6世當次(童名・生寿不明)。:(54).17―⑤『松茂氏3世當元小宗』(6):松茂氏5世平得目差・花城尓也當秀(童名:松、1672~1723年卒)の四男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(54)
(229).2―○23『嘉善氏9世永秀小宗』(24)、嘉善氏9世仲間与人永秀(童名:満慶、1704~72年卒)。:(2).2―『嘉善姓大宗永展』(1):嘉善氏8世石垣親雲上永吉(童名:真勢、1644~1724年卒)の四男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(61)
(230).4―①『有若氏7世泰清小宗』(2)、有若氏7世慶田城与人泰清(童名:宇戸真、1704~64年卒)。:(4).4―『有若姓大宗泰基』(1):有若氏6世花城親雲上泰隆(1651~1733年卒)の三男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(62)
(231).6―①―⑧―⑳『憲章氏7世英州小宗』(21)、憲章氏7世仮若文子・平得尓也英州(童名:三良、1704~67年卒)。:(100).6―①―⑧『憲章氏5世英住小宗』(9):憲章氏5世平得筑登之親雲上英住(童名:満慶山、1669~1741年卒)の長男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(63)
(232).6―①―○21『憲章氏7世英光小宗』(22)、憲章氏7世崎枝村耕作筆者・新城仁也英光(童名:樽兼、1704~67年卒)。:(18).6―①『憲章氏3世英政小宗』(2):憲章氏6世新城目差英明(童名:保久利思、生不詳~1708年卒)の四男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(64)
(233).19―①―⑤―⑬『山陽氏5世長秋小宗』(14)、山陽氏5世普天間(久志)仁也長秋(童名:保久利思、1704~33年卒)。:(115).19―①―⑤『山陽氏4世長延小宗』(6):山陽氏4世大浜親雲上長延(童名:石戸能、1674~1749年卒)の三男。:ロ.那礼当の子孫(14)
(234).53―『麻支姓大宗真方』(1)、麻支姓大宗宮良親雲上真方(童名:祖良廣、1704~71年卒)。:父は首里麻氏10世渡嘉敷親雲上真房(童名:思次郎、唐名:麻時秀、1661~1720年卒)が八重山へ1700年流刑~1705年ご赦免さ
れた時の子男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(65)
『麻姓家譜―(田名家)』の「十世眞房」の項には「男子ソラヒル・住居八重山島康凞四十三(1704)年甲申五月二十四日生・母同姉ウナリ為同島波照間首里大屋子養子」と記載されている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「麻氏 田名親雲上―1133、大宗麻普蔚大城按司眞武(童名:思武太、唐名:麻普蔚、生死不伝)。」と書かれている。(  )は筆者が記入。
(235).16―①―②『戴長氏6世保久小宗』(3)、戴長氏6世西表尓也保久(童名・生寿不明)。:(71).16―①『戴長氏4世保行小宗』(2):戴長氏5世宮里筑登之保秀(生月日不詳~1741年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(65)
(236).6―○22『憲章氏8世英孟小宗』(23):憲章氏8世英孟(童名・生寿不明)。:(7).6―『憲章姓大宗英乗』(1):憲章氏7世波照間首里大屋子英承(童名:石戸能、1682~1737年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(66)
(237).19―⑭『山陽氏5世長改小宗』(15)、山陽氏5世登野城仁屋長改(童名・生寿不明)。:(23).19―『山陽姓大宗長光』(1):山陽氏4世宮良親雲上長亮(童名:保久利思、1669~1730年卒)の六男。:ロ.那礼当の子孫(15)
(238).7―②―⑧―○22『上官氏7世正斯小宗』(23)、上官氏7世正斯(童名:生寿不明)。:(113).7―②―⑧『上官氏6世正寄小宗』(9):上官氏6世大浜与人・稲福筑登之親雲上正寄(童名:松金、1674~1733年)の三男。:ヘ.球王国の役人たちとその子孫(66)
(239).17―⑤―⑪『松茂氏6世當結小宗』(12)、松茂氏6世當結(童名・生寿不明)。:(54).17―⑤『松茂氏3世當元小宗』(6):松茂氏5世平得目差・花城尓也當秀(童名:松、1672~1723年卒)の四男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(55)
(240).32―⑪『梅公氏3世孫久小宗』(12)、梅公氏3世宮良尓也孫久(童名:石戸能、1705~78年卒)。:(51).32―『梅公姓大宗孫廣』(1):梅公氏2世宮良親雲上孫春(童名:保久利、1653~1709年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(67)
(241).10―①―⑫『毛裔氏5世安連小宗』(13)、毛裔氏5世安連(童名・生寿不明)。:(56).10―①『毛裔氏3世安核小宗』(2):毛裔氏4世宮良目差・登野城尓也安盈(童名:二千代、1644~96年〈順治年間〉生~1696年卒)の五男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(68)
(242).24―①―②―⑤『文珪氏5世師將小宗』(6)、文珪氏5世師將(童名・生寿不詳)。:(106).24―①―②『文珪氏4世師番小宗』(3):文珪氏4世白保目差・大城筑登之親雲上師番(童名:樽金、1671~1750年卒)の三男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(67)
(243).10―①―⑨―⑬『毛裔氏6世安昆小宗』(14)、毛裔氏6世安昆(童名:不明、1706~寿不明)。:(156).10―①―⑨『毛裔氏5世安廣小宗』(10):毛裔氏5世高那与人安廣(童名:谷山、1689~1768年卒)の長男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(69)
(244).9―①『伯言氏4世政賀小宗』(2)、伯言氏4世玻座真仁也政賀(童名・生寿不明)。:(10).9―『伯言姓大宗政通』(1):伯言氏3世宮良親雲上政茂(童名:嘉那、1670~1748年卒)の三男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(70)
(245).9―⑥―⑪『大史氏6世高登小宗』(12)、大史氏6世花城尓也高登(童名:津久利、1706~76年卒)。:(96).9―⑥『大史氏5世高岡小宗』(7):大史氏5世運天筑登之高岡(1667~1741年卒)の三男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(56)
(246).24―①―⑥『文珪氏5世師智小宗』(7)、文珪氏5世屋良仁也師智(童名:石戸能、1706~76年卒)。:(62).24―①『文珪氏3世師忠小宗』(2):文珪氏4世石垣目差師光(童名・生寿不明)の三男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(68)
(247).7―②―⑨―○23『上官氏7世正社小宗』(24)、上官氏7世正社(童名・生寿不明)。:(114).7―②―⑨『上官氏6世正儀小宗』(10):花城目差・竹富尓也正儀(童名:樽金、1674~1724年卒)の四男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(71)
(248).11―⑤『文林氏6世方京小宗』(6)、文林氏6世方京(童名・生寿不明)。:(12).11―『文林姓大宗方因』(1):文林氏5世西表首里大屋子方登(童名:祖良廣、1669~1718年卒)の三男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(57)
(249).1―⑯『長栄氏8世真邑小宗』(17)、長栄氏8世西表首里大屋子真邑(童名:松、1707~81年卒)。:(1).1―『長栄姓大宗信保』(1):長栄氏7世大浜親雲上信周(童名:祖良廣、1669~1733年卒)の五男。:イ.長田大翁主の子孫(15)
(250).10―②―⑭『毛裔氏3世安納小宗』(15)、毛裔氏5世宮良筑登之安納(童名:石戸能、1707~69年卒)。:(64).10―②『毛裔氏3世安維小宗』(3):毛裔氏4世惣横目・鳩間与人安政(童名:蒲戸、1671~1737年卒)の五男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(72)

6.1707年生まれ(251).24―⑦『文珪氏5世師透小宗』(8)から1723年生まれ(300).57―『夏林姓大宗賢永』(1)まで。

(251).24―⑦『文珪氏5世師透小宗』(8)、文珪氏5世鳩間村杣山筆者・宮良仁也師透(童名:亀、1707~44年卒)。:(31).24―『文珪姓大宗師春』(1):文珪氏4世宮良筑登之師治(童名:真牛、1677~1752年卒)の三男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(69)
(252).32―③―⑫『梅公氏3世孫忠小宗』(13):梅公氏3世花城与人孫忠(石戸能、1707~51年卒)。:(83).32―③『梅公氏2世孫清小宗』(4):梅公氏2世大浜親雲上孫清(童名:亀千代、1655~1729年卒)の三男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(73)
(253).9―⑫『大史氏7世高寧小宗』(13)、大史氏7世高寧(童名・生寿不明)。:(10).9―『大史姓大宗高教』(1):大史氏6世西表首里大屋子高道(童名:真根、1667~1737年卒)の三男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(58)
(254).7―②―⑨―○24『上官氏7世正似小宗』(25)、上官氏7世正似(童名・生寿不明)。:(114).7―②―⑨『上官氏6世正儀小宗』(10):上官氏6世花城目差・竹富尓也正儀(童名:樽金、1674~1724年卒)の五男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(74)
(255).2―②―⑧―○24『嘉善氏9世永勝小宗』(25)、嘉善氏9世永勝(童名・生寿不明)。:(103).2―②―⑧『嘉善氏8世永常小宗』(9):嘉善氏8世小浜目差・大浜筑登之永常(童名:松兼、1670~1751年卒)の三男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(70)
(256).16―①―③『戴長氏6世保勝小宗』(4)、戴長氏6世伊良皆尓也保勝(童名:真蒲戸、1708~71年卒)。:(71).16―①『戴長氏4世保行小宗』(2):戴長氏5世宮里筑登之保秀(生月日不詳~1741年卒)の三男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(71)
(257).19―①―⑤―⑮『山陽氏5世長寛小宗』(16)、山陽氏5世鳩間村耕作筆者・大浜尓也長寛(童名:嘉留、1708~53年卒)。:(115).9―①―⑤『山陽氏4世長延小宗』(6):山陽氏4世大浜親雲上長延(童名:石戸能、1674
~1749年卒)の四男:ロ.那礼当の子孫(16)
※.比手真(生年月日不詳)。夫は公孫氏5世崎山与人常寛(童名:蒲戸、1708~75年卒)。:(25).20-『公孫姓大宗常頼』(1):実父は首里豊氏桑江親雲上元親、在番の時に白保村住民の百姓で赤頭・崎原仁也の娘、久山を娶りその娘:○へ.琉球王国の役人(在番)たちとその娘(8)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「豊氏 桑江親雲上―1218、元祖幸地親方元昌六世小渡元親支流二子豊有徳桑江親雲上元敷」と記載されている。家譜実見で検討したい。
(258).32―④―⑬『梅公氏3世孫真小宗』(14)、梅公氏3世野底目差・黒島仁也孫真(童名:真勢山、1708~1752年卒)。:(85).32―④梅公氏2世孫晋小宗』(5):梅公氏2世石垣与人孫晋(童名:真勢山、1659~1710年卒)の六男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(75)
(259).12―①―⑩『長興氏6世善良小宗』(11)、長興氏6世善良(童名・生寿不明)。:(22).12―①『長興氏2世善方小宗』(2):長興氏5世宮良与人善房(童名:松兼、生月日不詳~1723年卒)の五男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(59)
(260).7―②―⑧―○25『上官氏7世正夷小宗』(26)、上官氏7世正夷(1709~88年卒)。:(113).7―②―⑧『上官氏6世正寄小宗』(9):上官氏6世大浜与人・稲福筑登之親雲上正寄(童名:松金、1674~1733年卒)の四男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(76)
(261).1―⑰『長栄氏8世真悉小宗』(18)、長栄氏8世黒島目差・南風原筑登之真悉(童名:真三良、1710~70年卒)。:(1).1―『長栄姓大宗信保』(1):長栄氏7世大浜親雲上信周(童名:祖良廣、1669~1733年卒)の五男。:イ.長田大翁主の子孫(18)
(262).3―④―⑭『錦芳氏9世用芝小宗』(15)、錦芳氏9世宮良筑登之用芝(童名:祖良廣、1710~68年卒)。:(117).3―④『錦芳氏8世用章小宗』(5):錦芳氏8世与那国筑登之用章(1676~1749年卒)の三男。:ホ.慶来慶田城の子孫(15)
(263).9―⑬『大史氏7世高豆小宗』(14)、大史氏7世西表仁也高豆(童名:松、1710~39年卒)。:(10).7―『大史姓大宗高教』(1):大史氏6世西表首里大屋子高道(童名:真根、1667~1737年卒)の四男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(60)
(264).6―⑥―○23『憲章氏7世英邦小宗』(24)、憲章氏7世黒島目差・大浜仁也英邦(童名:山戸、1710~71年卒)。:(84).6―⑥『憲章氏6世英董小宗』(7):憲章氏6世黒島首里大屋子英董(童名:満慶山、1659~1718年卒)の11男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(72)
(265).18―④―⑫『松茂氏6世當文小宗』(13)、松茂氏6世平得尓也當文(童名:金思、1710~84年卒)。:(53).17―④『松茂氏3世當永小宗』(5):松茂氏5世石垣親雲上當恒(童名:武義志、1693~1762年卒)。の長男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(61)
(266).19―③―⑯『山陽氏5世長利小宗』(17)、山陽氏5世杣山筆者・大浜仁也長利(1710~71年卒)。:(81).19―③『山陽氏3世長明小宗』(4):山陽氏4世平得目差・大冝味尓也長稔(童名:嘉路銘、1682~1715年卒)の次男:ロ.那礼当の子孫(17)
(267).54―『雍長姓大宗興禰』(1)、雍長姓大宗若文子・山城仁屋興禰(童名:真蒲戸、1710~59年卒)。:父王府首里雍氏五世山城筑登之親雲上興昌(童名:眞蒲戸、唐名:雍國忠、1669~1738年卒)が1709年来島して1711年に帰国した。母は平得村住民で百姓の平得仁也の娘、仁嘉伊(生年月日不詳~1754年卒)。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(77)
「雍姓家譜(原)一世東風平親雲上興長 目取真家」『那覇市史・資料篇第1卷7家譜資料第三集(首里系家譜)』(那覇市企画部市史編集室/昭和57年)や『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「雍氏 目取眞親雲上―319、大宗新参雍可懋東風平親雲上興長(童名:真市、1523~1594年卒)。4世前山城興平(童名:思加那、唐名:雍應魁、1626~86年卒)。次男五世山城筑登之親雲上興昌(童名:眞蒲戸、唐名:雍國忠、1669~1738年)卒)。」と筆者が参照して記載した。
※.伊加榮志(1710~44年卒)。:夫は錦芳氏7世宮良親雲上用易(童名:比戸称、1710~44年卒)。父の王府・首里寵氏金城筑登之親雲上長張が新在番我謝親雲上(首里・吉氏)為内證列到で(同行者)来島のときの娘:(55).3-②『錦芳氏6世用正小宗』(3):○へ.琉球王国の役人(在番との同行者)たちとその娘(9)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「寵氏 金城親雲上―900、元祖寵良壁上間親方長胤、5世寵場聲金城親雲上長繁支流四男寵存忠金城親雲上長休」と記載されている。家譜の実見で検討したい。
(268).7―②―⑨―○26『上官氏7世正階小宗』(27)、上官氏7世正階(童名・生寿不明)。:(114).7―②―⑨『上官氏6世正儀小宗』(10):上官氏6世花城目差・竹富尓也正儀(童名:樽金、1674~1724年卒)の六男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(78)
(269).6―○24『憲章氏8世英美小宗』(25)、憲章氏8世英美(童名・生寿不明)。:(7).6―『憲章姓大宗英乗』(1):憲章氏7世波照間首里大屋子英承(童名:石戸能、1682~1737年卒)の四男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(73)
(270).9―②『伯言氏4世政候小宗』(3)、伯言氏4世大浜筑登之政候(童名・生寿不明)。:(9).8―『伯言姓大宗政通』(1):伯言氏3世宮良親雲上政茂(童名:嘉那、1670~1748年卒)の四男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(79)
(271).24―①―②―⑧『文珪氏5世師著小宗』(9)、文珪氏5世師著(童名・生寿不詳)。:(106).24―①―②『文珪氏4世師番小宗』(3):文珪氏4世白保目差・大城筑登之親雲上師番(童名:樽金、1671~1750年卒)の五男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(74)
(272).9―⑥―⑭『大史氏6世高政小宗』(15)、大史氏6世波照間筑登之高政(童名:保久利思、1711~82年卒)。:(96).9―⑥『大史氏5世高岡小宗』(7):大史氏5世運天筑登之親雲上高岡(1667~1741年卒)の四男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(62)
(273).7―②―⑧―○27『上官氏7世正肥小宗』(28)、上官氏7世花城与人正肥(童名:加祢思、1711~81年卒)。:(113).7―②―⑧『上官氏6世正寄小宗』(9):上官氏6世大浜与人・稲福筑登之正寄(童名:松金、1674~1733年卒)の六男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(80)
(274).12―①―②―⑪『長興氏7世善政小宗』(12)、長興氏7世小浜与人善政(童名:金山、1711~59年卒)。:(138).12―①―②『長興氏6世善得小宗』(3):長興氏6世花城親雲上善得(1684~1762年卒)の四男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(63)
(275).19―⑰『山陽氏5世長真小宗』(18)、山陽氏5世崎枝村杣山筆者・宮良筑登之長真(童名:祖良廣、1711~71年卒)。:(23).19―『山陽姓大宗長光』(1):山陽氏4世宮良親雲上長亮(童名:保久利思、1669~1730年卒)の九男。:ロ.那礼当の子孫(18)
(276).19―①―⑱『山陽氏6世長邑小宗』(19)、山陽氏6世小浜村耕作筆者・黒島仁也長邑(童名:祖良廣、1711~71年卒)。:(59).19―①『山陽氏3世長孝小宗』(2):山陽氏5世保里与人長敞(童名:山戸、1689~1746年卒)の次男。:ロ.那礼当の子孫(19)
(277).55―『季林姓(大宗)孟明』(1)、季林姓(大宗)高那目差孟明(童名・生寿不明)。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(81)
『長興姓大宗善安』家譜には長興氏8世玻座間与人善見(童名:兼山、1653~1740年卒)の五女、嘉伊志(1711年生まれ~)、嫁于季林氏高那目差孟明(童名・生寿不明)と記載されている。また『梅公氏2世孫清小宗』家譜にも梅公氏3世崎枝与人孫興(童名:保久利、1683~1768年卒)の三女佐加伊(1765~1818年卒)が季林氏我謝仁也孟偉(童名・生寿不明)に嫁ぐと書かれている。
※.女子、真牛(1711年生まれ~)。:夫は毛裔氏5世崎枝与人安法(童名・生寿不明)。:(152).10―②―⑧『毛裔氏4世安興小宗』(9):父が王府(首里雍氏5世)山城筑登之親雲上興昌(童名:眞蒲戸、唐名:雍國忠、1669~1738年卒)が新在番筆者として1709年来島し、1711年帰任した。母は平得村住民で百姓の平得仁也の娘、仁嘉伊(生年月日不詳~1754年卒)。:(267).55―『雍長姓大宗興禰』(1):○へ.琉球王国の役人たちとその娘(10)
「雍姓家譜(原)一世東風平親雲上興長 目取真家」『那覇市史・資料篇第1卷7家譜資料第三集(首里系家譜)』(那覇市企画部市史編集室/1982年)の「五世興昌」の項には「男子興稱・八重山居住同島平得村平得尓也女仁嘉伊・康凞四十九(1710)年庚寅三月二十日生。女子眞牛、八重山島居住母眞(興)稱同腹・康凞五十(1711)年辛卯十月十九日生」と記載されている。
(278).8―③『伯言氏4世政育小宗』(4)、伯言氏4世政育(童名・生寿不明)。:(9).8―『伯言姓大宗政通』(1):伯言氏3世宮良親雲上政茂(童名:嘉那、1670~1748年卒)の五男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(82)
(279).2―②―⑭―○25『嘉善氏10世永参小宗』(26)、嘉善氏10世崎山目差・波照間仁也永参(童名:鶴兼、1712~71年卒)。:(148).2―②―⑭『嘉善氏9世永収小宗』(15):嘉善氏9世波照間首里大屋子永収(童名:松兼、1687~1729年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(75)
(280).19―③―⑲『山陽氏5世長京小宗』(20)、山陽氏5世登野城与人長京(童名:真三郎、1712~64年卒)。:(81).19―③『山陽氏3世長明小宗』(4):山陽氏4世平得目差・大冝味尓也長稔(童名:嘉路銘、1682~1715年卒)の三男。:ロ.那礼当の子孫(20)
(281).32―③―⑭『梅公氏4世孫繁小宗』(15)、梅公氏4世波照間首里大屋子孫繁(童名:保久利思、1712~84年卒)。:(83).32―③『梅公氏2世孫清小宗』(4):梅公氏2世大浜親雲上孫清(童名:亀千代、1655~1729年卒)の四男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(83)
※.女子、保名人(1712年生まれ~)。:父は王府首里麻氏10世石嶺親雲上眞良(童名:眞三良、唐名:麻篤忠、1680~1713年卒)が新在番筆者として1710年来島し、1713年帰国した。母は平得村住民で百姓の赤頭新里仁也の娘、惟蕉:○へ.琉球王国の役人たちとその娘(11)
「麻姓家譜 (原)8世儀間筑登之親雲上眞韶 石嶺家」『那覇市史・資料篇第1卷7家譜資料第三集(首里系家譜)』(那覇市企画部市史編集室/1982年)の「10世眞良」の項には「女子・保名人。康凞五十一(1712)年壬辰三月八日生。母八重山島平得村赤頭新里尓也女惟蕉」と記載されている。
(282).32―②―⑤―⑮『梅公氏4世孫俊小宗』(16)、梅公氏4世宇良与人孫俊(童名:鶴兼、1714~81年卒)。:(151).32―②―⑥『梅公氏3世孫格小宗』(7):梅公氏3世西表首里大屋子孫格(童名:亀千代、1687~1756年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(84)
(283).8―④『伯言氏4世政繁小宗』(5)、伯言氏4世田島仁也政繁(童名・生寿不明)。:(9).8―『伯言姓大宗政通』(1):伯言氏3世宮良親雲上政茂(童名:嘉那、1670~1748年卒)の六男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(85)
(284).2―②―⑭―○26『嘉善氏10世永愛小宗』(27)、嘉善氏10世花城与人永愛(童名:満慶山、1715~70年卒)。:(148).2―②―⑭『嘉善氏9世永収小宗』(15):嘉善氏9世波照間首里大屋子永収(童名:松兼、1687~1729年卒)の三男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(76)
(285).6-○25『憲章氏8世英愛小宗』(26)、憲章氏8世高那与人英愛(童名:樽、1715~73年卒)。:(7).6―『憲章姓大宗英乗』(1):憲章氏7世波照間首里大屋子英承(童名:石戸能、1682~1737年卒)の七男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(77)
(286).1―①―⑧―⑱『長栄氏11世真嶺小宗』(19)、長栄氏11世真嶺(1716年生まれ~)。:(155).1―①―⑧『長栄氏10世真邦小宗』(9):長栄氏10世石垣与人真邦(童名:根豊、1689~1755年卒)の次男。:イ.長田大翁主の子孫(19)
(287).6―①―○26『憲章氏8世英計小宗』(27)、憲章氏8世譜天間仁也英計(童名:松金、1716~79年卒)。:(18).6―①『憲章氏3世英政小宗』(2):憲章氏7世伊原間与人英永(童名:津久利、1690~1745年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(78)
(288).32―⑯『梅公氏4世孫照小宗』(17)、梅公氏4世玻名城尓也孫照(童名:蒲戸、1716~57年卒)。:(51).32―『梅公姓大宗孫廣』(1):梅公氏3世石垣与人孫範(童名:樽、1691~33年卒)の長男:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(86)
(289).32―②―⑰『梅公氏4世孫本小宗』(18)、梅公氏4世花城尓也孫本(童名:鶴兼、1716~47年卒)。:(75).32―②『梅公氏2世孫永小宗』(3):梅公氏3世川平与人孫惟(童名:嘉呂、1703~69年卒)の四男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(87)
※.真伊兼(1716~70年卒)。:夫は大史氏6世波照間筑登之高政(童名:保久利思、1711~82年卒)。:父は琉球国毛姓大工廻。當流罪之時、母は波照間村住民で百姓波照間屋の松、娘:(272).9―⑥―⑭『大史氏6世高政小宗』(15):○ヘ.琉球王国の役人(流罪)たちの娘(12)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「毛氏 太工廻親雲上―1550、元祖毛國鼎中城按司護佐丸盛春十世大工廻親雲上盛永支流二子毛文謨大工廻親雲上」。「毛氏 大工廻親雲上―1014、元祖毛龍唫大新城親方安基4世毛龍唫澤岻親方安則支流4子(5世)毛昌楨野嵩親方安平(童名:松金、1635~85年卒)」と記載されている。毛姓大工廻が当島へ流罪している。どの系統の人物かを家譜実見で確認したい。また、( )筆者が記入。
(290).19―⑧―⑳『山陽氏6世長共小宗』(21)、山陽氏6世桴海目差長共(1719~69年卒)。:(157).19―⑧『山陽氏5世長良小宗』(9):山陽氏5世竹富目差・宮良仁也長良(童名:真蒲戸、1689~1779年卒)の三男:ロ.那礼当(山陽姓一門の始祖・元祖、生不詳~1500年卒)とその子孫(21)
(291).56―『葛孫姓大宗秀継』(1)、葛孫姓大宗崎枝与人(玉代勢筑登之親雲上)秀継(童名:鶴、1719~71年卒)。:父は新在番筆者(1718年来島して1720年帰任)。王府首里葛氏北谷親方、7代嫡孫玉代勢親雲上。母は登野城村住民で百姓の新本筑登之親雲上の娘、真市(1697~1757年卒)。:ヘ.琉球王国の役人(新在番筆者)たちとその子孫(88)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「葛氏 諸見里親雲上―245、大宗葛向茉北谷親方秀辰」と書かれている。
※.新参一世佐久川親雲上泰郷(童名:眞蒲戸、唐名:林開祖、1719~92年卒)・詰醫者:父は若桜町村無系手登根筑登之親雲上、母が泉崎村無系大嶺筑登之親雲上の娘、於戸。実母は石垣村住民の百姓で天志多仁屋の娘、眞伊津。:○へ.琉球王国の詰醫者たちの子男[2]・嗣子[2] 「新参林姓家譜 一世佐久川親雲上泰郷(原本) 佐久川家」『那覇市史資 料篇第1卷8家譜資料四』(覇市企画部市史編集室/1983年)の「新参1世佐久川親雲上泰郷(童名:眞蒲戸、唐名:林開祖、1719~92年卒)の項に「新参長男泰慶-母八重山島登野城村本原仁屋女孫伊津志。四女思津-乾隆二十二(1752)年丁丑九月十六日生、母八重山島登野城村本原仁屋女孫伊津志」と記載されている。
(292).29―⑥『岳章氏5世致和小宗』(7)、岳章氏5世致和(童名:生寿不明)。:(40).29―『岳章姓大宗致崇』(1):岳章氏4世白保目差・川平仁屋致展(童名:金思、1682~1735年卒)。:ト.1611年ころ薩摩藩の進言により系持ちになった岳章姓大宗致崇とその子孫(7)
(293).6―⑥―⑫―○27『憲章氏8世英浄小宗』(28)、憲章氏8世黒島仁也英浄(童名:満慶山、1720~75年卒)。:(149).6―⑥―⑫『憲章氏7世英睦小宗』(13):憲章氏7銘可露仁也英睦(1687~1713年卒)の三男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(79)
(294).12―⑫『長興氏5世善允小宗』(13)、長興氏5世善允(童名:生寿不明)。:(13).12―『長興姓大宗善安』(1):長興氏4世玻座真与人善見(童名:兼山、1653~1740年卒)の八男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(64)
(295).12―①―②―⑬『長興氏7世善文小宗』(14)、長興氏7世桴海与人善文(童名・生寿不明)。:(138).12―①―②『長興氏6世善得小宗』(3):長興氏6世花城親雲上善得(1684~1762年卒)の五男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(65)
(296).27―②―⑤『順天氏5世直延小宗』(6)、順天氏5世宮良目差直延(童名・生寿不明)。:(170).27―②『順天氏4世直要小宗』(3):順天氏4世慶田城与人直要(童名:祖良廣、1693~1761年卒)の次男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(66)
(297).4―②『有若氏8世泰啓小宗』(3)、有若氏8世小浜与人泰啓(1721~71年卒)。:(4).4―『有若姓大宗泰基』(1):有若氏7世白保与人泰常(童名・生寿不明)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(80)
(298).24―①―②―⑨『文珪氏5世師昌小宗』(10)、文珪氏5世嘉平仁也師昌(1721年生まれ~寿不明)。:(106).24―①―②『文珪氏4世師番小宗』(3):文珪氏4世白保目差・大城筑登之師番(童名:樽金、1671~1750年卒)の六男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(81)
(299).27―⑥『順天氏5世直常小宗』(7):順天氏5世仮若文子・平良仁也直常(童名:喜佐真、1721~53年卒)。:(38).27―『順天姓大宗直連』(1):順天氏4世西表首里大屋子直香(1677~71年卒)の四男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(67)
(300).57―『夏林姓大宗賢永』(1)、夏林姓大宗大浜親雲上賢永(童名:鶴金、1723~77年卒)。:父は在番筆者、王府首里夏氏越来親方賢雄、8世仲本親雲上賢親(童名:真牛、唐名:夏降胤、1662年生れ~)が1721年来島し1724年帰任。母は大浜村住民の百姓大城筑登之親雲上の娘、伊武津思(1706年生れ~)。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(89)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「夏氏 仲本親雲上―1624、元祖夏氏超来親方賢雄、七世松田親雲上賢恒支流二子夏降胤仲本親雲上賢親」と記載されている。

7.1722年ころ生まれた (301).6―①―○28『憲章氏8世英會小宗』(29)から1750年ころ生まれの(350).9―⑥『伯言氏5世政成小宗』(7)まで。

(301).6―①―○28『憲章氏8世英會小宗』(29)、憲章氏8世英會(童名・生寿不明)。『錦芳姓姓大宗用緒』家譜に「錦芳氏8世慶田城筑久登之用常(童名:石山、1675~1733年卒)の五女宇成(1722年生まれ~)が嫁于憲章氏普天間筑登之英會。」と記載されている。:(18).6―①『憲章氏3世英政小宗』(2):憲章氏7世伊原間与人英永(童名:津久利、1690~1745年卒)の五男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(82)
(302).6―①―⑧―○29『憲章氏6世英定小宗』(30)、憲章氏6世大浜仁也英定(童名:思嘉那、1724~55年卒)。:(100).6―①―⑧『憲章氏5世英住小宗』(9):憲章氏5世平得筑登之親雲上英住(童名:満慶山、1669~1741年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(83)
(303).7―②―⑨―○28『上官氏8世正依小宗』(29)、上官氏8世花城筑登之正依(童名:樽、1724~61年卒)・:(114).7―②―⑨『上官氏6世正儀小宗』(10):上官氏7世平得目差・久手堅尓也正肖(童名:祖良廣、1698~1761年卒)の長男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(90)    (304).58―『趙和姓(大宗)保楽』(1)、趙和姓(大宗)仲嶺仁也保楽(童名・生寿不明)。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(91)
『嘉善氏10世永愛小宗』家譜には「嘉善氏11世桴海村杣山筆者・宮良仁也永抽(童名:石戸能、1742~71年卒)の継室が趙和氏仲嶺仁也保楽の二女、比戸那志(1742~1805年卒)。『季順姓大宗由親』家譜の「季順氏3世宮良尓也由格(童名:鶴金、1787~1827年卒)の継室は趙和氏仲嶺仁保榮の女、那美山(1786~1842年卒)」。『大史氏5世高満小宗』家譜の「大史氏9世石垣仁也高件(1772~1812年卒)の「三女真和津(1803年生まれ~)、再嫁于趙和氏仲嶺仁也」という内容で書かれている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「趙氏仲嶺親雲上―1314、元祖趙氏大湾親雲上宗易四子大湾親雲上宗親支流二子趙自光長峯親雲上宗盛」と記載されている。家譜実見で確認したい。
(305).6―②―○30『憲章氏5世英券小宗』(31)、憲章氏5世英券(童名・生寿不明)。:(29).6―②『憲章氏3世英種小宗』(3):憲章氏4世西表目差英勝(名:石戸能、1664~1738年卒)の三男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(84)
(306).1―①―③―⑲『長栄氏10世真併小宗』(20)、長栄氏10世真併(1724年生まれ~)。:(79).1―①―③『長栄氏8世信冨小宗』(4):長栄氏9世名蔵与人真征(童名:保久利思、1698~1753年卒)の三男。:イ.長田大翁主の子孫(20)
(307).18―⑥―⑬『松茂氏7世當計小宗』(14)、松茂氏7世大目差・宇和慶筑登之當計(童名:亀、1725~71年卒)。:(98).18―⑥『松茂氏5世當光小宗』(7):松茂氏6世南風見与人當因(童名:蒲戸、1693~1753年卒)の三男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(68)
(308).59―『梅榮姓(大宗)孫安』(1)、梅榮姓(大宗)田名仁也孫安(童名・生寿不明)。:父は梅氏4世田名親雲上孫秀(童名:菊千代、唐名:梅春豊、1669~1733年卒)と筆者が推察。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(92)
『岳章氏4世致泰小宗』家譜には「岳章氏4世野底村耕作筆者・与那国仁也致泰(童名:金思、1693~1754年卒)の長女、於那比戸(1724~77年卒)が梅榮氏田名仁也孫安に嫁ぐ」、『麻支姓大宗真方』家譜にも「麻支氏3世黒島仁也真茂(童名:茂勢、1785~1835年卒)の室は梅榮氏小谷仁也孫民の二女、鍋山(1802~53年卒)。」という内容で記載されている。
「梅姓家譜 二世田名親雲上宗好(写本) 田名家」『那覇市史 資料篇第1卷8家譜資料四』(覇市企画部市史編集室/1983年)の「四世田名親雲上孫秀(童名:菊千代、唐名:梅春豊、1669~1733年卒)。五世田名親雲上孫満(童名:真牛、唐名:梅昌行、1699~1746年卒)が1766年新在番筆者として来島、1768年に帰国」という内容で書かれている。
(309).1―①―⑧―○20『長栄氏11世真根小宗』(21)、長栄氏11世古見村耕作筆者・石垣筑登之真根(童名:真勢山、1726~86年卒)。:(155).1ー①―⑧『長栄氏10世真邦小宗』(9):長栄氏10世石垣与人真邦(童名:根豊、1689~1755年卒)の六男。:イ.長田大翁主の子孫(21)
(310).2―②―⑭―○27『嘉善氏10世永専小宗』(28)、嘉善氏10世波照間仁也永専(1727~71年卒)。:(148).2―②―⑭『嘉善氏9世永収小宗』(15):嘉善氏9世波照間首里大屋子永収(童名:松兼、1687~1729年卒)の四男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(85)
(311).60―『米得姓(大宗)秀高』(1)、米得姓(大宗)兼ヶ段尓也秀高(童名・生寿不明)。:父は王府(泊)兼ヶ段筑登之親雲上が在番筆者として1726年来島して1728年帰国した。滞在中の出生子:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(93)
『梅公氏2世孫清小宗』家譜には「梅公氏6世松島尓也孫松(童名:祖良廣、1775~1803年卒)の室が米得氏兼ヶ段尓也秀高の四女、伊津喜(1773~1806年卒)」と書かれている。また『岳章氏4世致泰小宗』家譜には「岳章氏6世黒島仁也致悅(蒲戸、1760~1829年卒)の次女、思津(1788年生まれ~)が嫁于米得氏石垣仁也」と記載されている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「新参米氏兼ヶ段筑久登之―1508、新参大宗米?平良掟親雲上秀珍」と記載されている。家譜実見で確認したい。
(312).27―②―⑦『順天氏5世直賀小宗』(8)、順天氏5世杣山筆者・佐島尓也直賀(童名・生寿不明)。:(170).27―②『順天氏4世直要小宗』(3):順天氏4世慶田城与人直要(童名:祖良廣、1693~1761年卒)の四男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(69)
(313).1―⑮―○21『長栄氏9世真賀小宗』(22)、長栄氏9世登野城目差・大浜仁也真賀(童名:蒲戸、1729~71年):
(222).1―⑮『長栄氏8世真政小宗』(16):長栄氏8世大浜親雲上真政(童名:鶴、1703~61年)の次男:イ.
長田大翁主(長栄姓大宗石垣親雲上信保)の子孫(22)
(314).19―⑨―○21『山陽氏6世長邦小宗』(22)、山陽氏6世安谷屋仁也長邦(1729~90年卒)。:(182).19―⑨『山陽氏5世長岡小宗』(10):山陽氏5世石垣与人長岡(童名:美屋古、1695~1777年卒)の次男。:ロ.那礼当の子孫(22)
(315).6―①―○31『憲章氏8世英喜小宗』(32)、憲章氏8世座喜味尓也英喜(童名:真牛、1730~71年卒)。:(18).6―①『憲章氏3世英政小宗』(2):憲章氏7世伊原間与人英永(童名:津久利、1690~1745年卒)の七男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(86)
(316).19―⑨―○22『山陽氏6世長網小宗』(23)、山陽氏6世竹富耕作筆者・金城仁屋長網(童名:兼茂伊、1731~71年卒)。:(182).19―⑨『山陽氏5世長岡小宗』(10):山陽氏5世石垣与人長岡(童名:美屋古、1695~1777年卒)の三男。:ロ.那礼当の子孫(23)
(317).61―『向倫姓大宗朝義』(1)、向倫姓大宗田島仁也朝義(童名:兼思、1730~71年卒)。:父は首里向氏浦添王子朝満、5世三司官田島親方朝由(童名:眞宇志、唐名:向元良、1655~1737年卒)、三男の6世名嘉山親雲上朝幾(童名:思徳、唐名:向邦恭、1682~1748年卒)が1728年在番筆者として来島し1730年に帰国している。母は平得村住民で百姓赤頭の山里仁也の娘、真武戸(1711~71年卒)。:ヘ.琉球王国の役人(在番筆者)たちとその子孫(94)
向倫姓大田島仁也朝義は『向姓家譜―四世朝充』家譜の「六世朝幾」の項には「思嘉那、八重山居住。母八重山島平江(得)村眞松山城女萬戸、雍正八(1730)年庚戌六月二十九日生」と記載されている。
(318).1―⑮―○22『長栄氏9世真敷小宗』(23)。長栄氏9世真敷(童名・生寿不明)。:(222).1―⑮『長栄氏8世真政小宗』(16):長栄氏8世大浜親雲上真政(童名:鶴、1703~61年卒)の次男。:イ.長田大翁主の子孫(23)
(319).17―④―⑨―⑭『松茂氏6世當泰小宗』(15)、松茂氏6世石垣仁也當泰(童名:石勢能、1730~60年卒)。:(220).17―④―⑨『松茂氏5世當眞小宗』(10):松茂5世仮若文子・石垣尓也當眞(1703~33年卒)の三男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(70)
(320).62―『季山姓大宗由隆』(1)、季山姓大宗桃原与人由隆(童名・不明、1732年生れ~不明)。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(95)
『季山姓大宗由隆』家譜が未確認のため、喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」には「李山氏(田場由起家)―1世(大宗)由隆→2世由連→3世由良→4世由書→5世由珍→6世由栄→7世由起。」と記されている。『季山姓大宗由隆』家と『季順姓大宗由親』家の元祖は「李氏稲福親雲上由秀」と云われている。両家は屋敷を隣接し苗字(田場)・名乗頭「由」も同じである。他の『麻支姓大宗真方』家譜には麻支姓大宗宮良親雲上真方(童名:祖良廣、1704~71年卒)の五女、廣真(1740年生まれ~)が季山氏桃原与人由隆に嫁いだと記載されている。1730年に八重山在番筆者として王府首里李氏田場里之子親雲上来島して1732年に帰国している。生年筆者が推察した。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「李氏 田場親雲上―276、元祖李氏稲福親雲上由秀三世上江洌親雲上由休支流四男李枝起上江洌親雲上由久」と記載されている。家譜の実見で確認したい。
(321).19―①―⑤―○23『山陽氏6世長敏小宗』(24)、山陽氏6世浜川尓也長敏(童名:満慶山、1732~58年卒)。:(115).19 ―①―⑤『山陽氏4世長延小宗』(6):山陽氏5世野底目差・宮良仁屋長祥(童名:真山戸、1697~1732年卒)の三男。:ロ.那礼当の子孫(24)
(322).29―③―⑦『岳章氏6世致長小宗』(8)。岳章氏6世黒島筑登之致長(童名:登久、1733~1804年卒)。:(150).29―③『岳昌氏3世致經小宗』(4):岳章氏5世與那国尓也・新城目差致相(童名:波智、1705~75年卒)の次男。:ト.1611年ころ薩摩藩の進言により系持ちになった岳章姓大宗致崇の子孫(8)
※.思戸金(1734~71年):夫は梅公氏4世大川村杣山筆者・石垣尓也孫孝(童名:真勢山、1725~71年)、父が王府・那覇慎氏謝花親雲上寛金、在番筆者として当島滞在際に出生の娘。弟の慎公姓(大宗)高那与人寛命(1734年生れ~)がいる。:(85).32―④『梅公氏2世孫晋小宗』(5):○へ.琉球王国の役人(在番筆者)たちとその娘(13)
(323).63―『慎公姓(大宗)寛命』(1)、慎公姓(大宗)高那与人寛命(童名・不明、1734年生れ~)。姉の思戸金(1734~71年卒)がいる。(85).33―④『梅公氏2世孫晋小宗』(5):ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(96)
『大史氏8せ高道小宗』家譜には大史氏8世波照間目差高道(童名:真勢山、1758~1814年卒)の室は慎公氏高那与人寛命の娘、真比(1762~98年卒)と記されている。また、梅公氏4世大川村杣山筆者・石垣尓也孫孝(童名:真勢山、1725~71年卒)の継室は王府の那覇慎氏謝花親雲上寛金、在番筆者として当島滞在際に出生の娘、思戸金(1734~71年卒)と書かれている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「愼氏 謝花親雲上―2274、元祖天久子寛年支流三子愼啓秀大見武親雲上寛金」と記載されている。家譜の実見で確認したい。
(324).32―③―⑪―⑱『梅公氏4世孫門小宗』(19)、梅公氏4世孫門(童名・生寿不明)。:(252).32―③―⑫『梅公氏3世孫忠小宗』(13):梅公氏3世花城与人孫忠(童名:石戸能、1707~51年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(97)
(325).12―①―②―⑭『長興氏8世善平小宗』(15)、長興氏8世川平仁也善平(童名:真山戸、1734~93年卒)。:(138).12―①―②『長興氏6世善得小宗』(3):長興氏7世善度の三男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(71)
(326).32―③―⑪―⑲『梅公氏4世孫福小宗』(20)、梅公氏4世野底与人孫福(童名:百、1735~96年卒)。:(252).32―③―⑫『梅公氏3世孫忠小宗』(13):梅公氏3世花城与人孫忠(石戸能、1707~51年卒)の三男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(98)
(327).10―①―⑨―⑮『毛裔氏6世安在小宗』(16)、毛裔氏6世安在(童名・生寿不明)。:(156).10―①―⑨『毛裔氏5世安廣小宗』(10):毛裔氏5世高那与人安廣(童名:谷山、1689~1768年卒)の三男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(99)
※.(76).37―毛孫氏3世伊原間与人盛行(童名:三良、1736~91年卒)=嗣子(1764年家統継)。実父は王府・首里毛氏毛國鼎中城按司護佐丸盛春・九世(唐名:毛応昌)冨川里之子親雲上盛職(1696~1787年卒)が新在番筆者として1736年来島して1738年に帰国、在勤中に平得村住民の百姓赤頭與那原仁也娘、伊津喜を娶り、その出生の息子。:(76).37―『毛孫姓大宗盛永』(1):○へ.琉球王国の役人(在番)たちとその子男[3]・嗣子[3] ※.於那比戸(1737~71年卒)。:夫が長興氏6世高那目差・豊川尓也善章(童名:亀、1735~98年卒)。:(190).12―⑦『長興氏5世善盛小宗』(8):父は王府・流罪で来島の首里毛氏高良里之子親雲上盛真と大浜村住民の百姓で加祢の娘、加和志との娘。:○ヘ.琉球王国の役人たち(流刑者)の娘(14)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「毛氏高良里之子―1617、元祖中城按司・護佐丸盛春、八世高良親雲上盛昌支流二子毛景仰高良親雲上盛眞」と記載されている。家譜の実見で検討したい。
(328).17―⑤―⑮『松茂氏7世當善小宗』(16)、松茂氏7世与那国与人當善(童名:樽、1738~1812年卒)。:(54).17―⑤『松茂氏3世當元小宗』(6):松茂氏6世登野城村耕筆者・波照間仁也當祥(童名:保久利思、1696~1739年卒)の四男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(72)
(329).32―②―⑤―⑳『梅公氏5世孫重小宗』(21)、梅公氏5世宮良与人孫重(童名:鶴千代、1740~1811年卒)。:(151).32―②―⑥『梅公氏3世孫格小宗』(7):梅公氏4世石垣親雲上孫浩(童名:真山戸、1712~90年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(100)
(330).19―③―○24『山陽氏6世長達小宗』(25)、山陽氏6世西表首里大屋子長達(童名:石戸能、1740~1807年卒)。:(81).19―③『山陽氏3世長明小宗』(4):山陽氏5世大浜親雲上長季(童名:真山戸、1705~78年卒)の次男。:ロ.那礼当の子孫(25)
(331).1―①―③―○23『長栄氏10世真求小宗』(24)、長栄氏10世石垣尓也真求(童名:蒲戸、1741~72年卒)。:(79).1―①―③『長栄氏8世信冨小宗』(4):長栄氏9世名蔵与人真征(童名:保久利思、1698~1753年卒)の五男。:イ.長田大翁主の子孫(24)
(332).6―○32『憲章氏9世英棟小宗』(33)、憲章氏9世新川仁也英棟(童名:満慶山、1741~76年卒)。:(7).6―『憲章姓大宗英乗』(1):憲章氏8世古見首里大屋子英等(童名:保久利、1707~72年卒)の四男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(87)
(333).19―①―○25『山陽氏7世長永小宗』(26)、山陽氏7世黒島筑登之親雲上長永(童名:亀、1741~1819年卒)。:(59).19―①『山陽氏3世長孝小宗』(2):黒島目差・黒島筑登之長備(童名:祢重、1710~75年卒)の次男。:ロ.那礼当の子孫(26)
※.真牛(1741~71年卒)。:夫が嘉善氏11世桴海村杣山筆者・宮良仁也永抽(童名:石戸能、1742~71年卒)の室。父は当島の新在番筆者で1740年来島、1742年に帰国。王府・那覇梅氏5世田名親雲上孫満(童名:真牛、唐名:梅豊昌、1699~1746年卒)。母が大川村住民の百姓・赤頭上原仁也の娘、加祢奈志。:(284).2―②―⑮―○27『嘉善氏10世永愛小宗』(28):○へ.琉球王国の役人(新在番筆者)たちとその娘(15)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「梅氏 田名親雲上―2519、元祖宗珍入道宗孫(童名:緑千代、唐名:梅逢春、1554~64年卒)支流四子梅樹茂田名宗好(童名:眞伍良、1600~89年卒)。」と記載されている。( )筆者が記入。
(334).12―①―②―⑪―⑮『長興氏8世善京小宗』(16)、長興氏8世桴海村杣山筆者・大浜尓也善京(童名:真山戸、1742~95年卒)。:(274).12―①―②―⑪『長興氏7世善政小宗』(12):長興氏7世古見耕作筆者・花城尓也善政(童名:金山、1711~59年卒)の次男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(73)
※.梅姓6世孫祥(童名:小樽金、唐名:梅弁昌、1742~82年卒)。父が八重山島の新在番筆者として1740年来島、1742年帰任の王府・那覇梅氏5世田名親雲上孫満(童名:真牛、唐名:梅豊昌、1699~1746年卒)。母は八重山島の大浜村住民の百姓で高浜の娘、比登那志。:○へ.琉球王国の役人(在番)たちとその息子[4]・嗣子[4] 梅姓6世孫祥は兄の梅姓6世田名親雲上孫福(童名:樽金、唐名:梅升旭、1732~72年卒)が無嗣子なので、1772年に跡目家統した。『那覇市史 資料篇第1卷8家譜資料四』(那覇市企画部市史編集室/1983年)の「三六 梅姓家譜 二世田名親雲上宗好(写本)田名家」に記載されている。
(335).2―②―⑯―○28『嘉善氏10世永章小宗』(29)、嘉善氏10世桃原与人永章(童名:保久利思、1743~1809年卒)。:(163).2―②―⑯『嘉善氏9世永業小宗』(17):嘉善氏9世大浜筑登之親雲上永業(1691~1768年卒)の五男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(88)
(336).32―○21『梅公氏5世孫良小宗』(22)、梅公氏5世宮良村耕作筆者・宮良尓也孫良(童名:樽、1743~71年卒)。:(51).32―『梅公姓大宗孫廣』(1):梅公氏4世崎枝目差孫秀(童名:保久利思、1725~78年卒)の長男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(101)
※.思戸兼(1743~71年卒)。:夫・順天氏6世真栄平尓也直般(童名:比戸祢、1738~71年卒)の室。父は新在番筆者・(首里孟氏)佐辺里之子親雲上が新在番として1742年来島し1744年に帰国。平得村住民で百姓の喜佐那志を娶り、滞在中の出生時の娘。:(170).27―②『順天氏4世直要小宗』(3):○へ.琉球王国の役人(在番筆者)たちとその娘(16)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「孟氏 佐邊親雲上―737、元祖大里親方宗森、七世西平親方佐邊親雲上宗令支流次男孟永祺佐邊親雲上康房」と記載されている。家譜の実見で検討したい。
※.於戸(1743~71年卒)。:父は王府首里孟氏大里親方宗森、八代佐邊親雲上宗令長男長嶺親雲上(佐辺里之子親雲上)康昆(童名:松金、唐名:孟受祉、1687~1748年卒)が1742年八重山島在番として来島して1744年に帰国。母が平得村住民の百姓で赤頭の冨里尓也の娘、慶佐真(1730~71年):弟が孟功姓大宗杣山筆者・長嶺仁也康重(童名:松兼、1744~71年卒)。:(338).64―『孟功姓大宗康重』(1):○へ.琉球王国の役人たちの娘(17)
(337).1―○24『長栄氏10世真孝小宗』(25)、長栄氏10世崎山与人真孝(童名:祖良廣、1744~1818年卒)。(1).1―『長栄姓大宗信保』(1):長栄氏9世南風見目差・宮良尓也真升(童名:保久利盛、1717~47年卒)の次男。:イ.長田大翁主の子孫(25)
(338).64―『孟功姓大宗康重』(1)、孟功姓大宗杣山筆者・長嶺仁也康重(童名:松兼、1744~71年):父は八重山
在番として1741年来島し1744年に帰国した。王府首里孟氏大里親方宗森、8代佐邊里之子親雲上宗令、長子長嶺親雲上(佐辺里之子親雲上)康昆(童名:松金、唐名:孟受祉、1687~1748年)。母は平得村住民の百姓で賀堂那上原女、気佐満(1730~71年)。姉が於戸(1743~71年)である。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(102)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「孟氏 長嶺親雲上―745、元祖孟支大里親方宗森、七世佐辺親方宗茂支流孟命新佐辺親雲上宗令」と記載されている。
(339).65―『經林姓(大宗)兼綿』(1)、經林姓(大宗)仲本尓也兼綿(童名・生寿不明)。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(103)
『錦芳氏3世用信小宗』家譜の「錦芳氏9世真謝与人用格(童名:保久利、1713~90年卒)」の項には「(略)次男兼次、母・妾白保村住民無系男・赤伊佐女・嘉那志。乾隆四十五(1780)年庚子生月日不詳。經林氏(大宗)仲本尓
也兼綿(童名・生寿不明)因無男子奉訟為嗣子・別有家譜。 」と書かれている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「經氏 仲本親雲上―1241、元祖中村柄親方兼詮、四世仲本親雲上兼京支流二子經文修仲本親雲上兼値」。「經氏 仲本親雲上―1242、元祖中村柄親方兼詮、五世名嘉山親雲上兼峯支流五子經邦仲本親雲上兼?」。「經氏 仲本親雲上―1243、元祖中村柄親方兼詮、四世仲本親雲上兼京支流三子經文偉仲本親雲上兼近。」と記載されている。また、『八重山島年来記』の1742年に在番筆者仲本筑登之親雲上らが春下島し、1744年の夏帰国されたと記載されている。この在番筆者仲本筑登之親雲上が父親なのか、後日家譜実見で検討したい。
(340).32―○22『梅公氏5世孫茂小宗』(23)、梅公氏5世宮良尓也孫茂(1745~71年卒)。:(51).32―『梅公姓大宗孫廣』(1):梅公氏4世崎枝目差孫秀(童名:保久利思、1725~78年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(104)
※.真那武樽(1745~1821年卒)。夫・毛孫氏3世伊原間与人盛行(童名:三良、1736~91年卒)の継室、父は王府首里曹氏6世宇良親雲上慶盈(童名:松金、唐名:曹統、1688~1746年卒)が当島の新在番筆者1744年来島して1746年に手札改のため与那国島へ渡り帰帆ときに漂流して行方不明。平得村住民百姓の赤頭・山城仁也の娘、保那利との子女:(76).37―『毛孫姓大宗盛永』(1):○へ.琉球王国の役人たちとその娘(18)
(341).8―⑤『伯言氏5世政臣小宗』(6)、伯言氏5世小浜与人政臣(童名・生寿不明)。:(9).8―『伯言姓大宗政通』(1):伯言氏4世石垣親雲上政治(童名:嘉那、1723~73年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(105)
(342).24―③―⑩『文珪氏6世師房小宗』(11)、文珪氏6世新川与人師房(童名:思嘉那、1747~1825年卒)。:(135).24―③『文珪氏4世師等小宗』(4):文珪氏5世黒島首里大屋子師文(童名:真與蒲、1717~85年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(89)
(343).32―②―⑤―⑮―○23『梅公氏5世孫遥小宗』(24)、梅公氏5世鳩間与人(西表尓也)孫遙(童名:松、1747~1801卒)。(282).32―②―⑤―⑮『梅公氏4世孫俊小宗』(16):梅公氏4世宇良与人孫俊(童名:鶴兼、1714~81年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(106)
(344).2―①―④―○29『嘉善氏9世永 小宗』(30)、嘉善氏9世杣山筆者・石垣仁也永 (童名・生不明~1792年卒)。:(73).2―①―④『嘉善氏6世永網小宗』(5):嘉善氏8世杣山筆者・西表仁也永光(童名・生寿不明)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(90)
(345).12―①―②―⑪―⑯『長興氏8世善幸小宗』(17)、長興氏8世大浜尓也善幸(童名:亀、1748~1811年卒)。:(274).12―①―②―⑪『長興氏7世善政小宗』(12):長興氏7世古見耕作筆者・花城尓也善政(童名:金山、1711~59年卒)の三男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(74)
(346).19―⑧―○26『山陽氏7世長興小宗』(27)、山陽氏7世与那国与人長興(童名:真蒲戸、1748~1825年卒)。:(157).19―⑧『山陽氏5世長良小宗』(9):山陽氏6世与那国与人長矩(童名:真牛兼:1717~80年卒)の次男。:ロ.那礼当の子孫(27)
(347).32―②―⑤―⑮―○24『梅公氏5世孫廟小宗』(25)、梅公氏5世鳩間与人孫廟(童名:真山戸、1749~1818年卒)。:(282).32―②―⑤―⑮『梅公氏4世孫俊小宗』(16):梅公氏4世宇良与人孫俊(童名:鶴兼、1714~81年卒)の三男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(107)
(348).56―①『葛孫氏2世秀永小宗』(2)、葛孫氏2世西表目差秀永(童名・生寿不明)。葛孫姓大宗崎枝与人秀継(童名:鶴、1719~71年卒)の次男。:(291).56―『葛孫姓大宗秀継』(1):ヘ.琉球王国の役人たちとそ
の子孫(108)
『葛孫氏2世秀永小宗』家譜が未確認である。『梅公氏2世孫清小宗』家譜に「梅公氏6世大浜仁也孫芳(童名:鶴金、1780~1834年)の室は葛孫氏2世西表目差秀永(童名・生寿不明)の女、宇那利思(1780~1853年)」と書かれている。実家の家譜の「一世秀継」項には「長男秀相(1746~98年)、本室所生。次男秀永、本室所生。次女部那利思(1752~71年)」という内容で書かれている。次男秀永は1748~50年ころに生まれている思われる。
(349).32―②―⑤―⑮―○25『梅公氏5世孫泰小宗』(26)、梅公氏5世古見村杣山筆者・石垣筑登之孫泰(童名:祖良廣、1751~1818年卒)。:(282).32―②―⑤―⑮『梅公氏4世孫俊小宗』(16):梅公氏4世宇良与人孫俊(童名:鶴兼、1714~81年卒)の四男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(109)
※.新参輩氏5世積昌(童名:眞山戸、唐名:輩世清、1751~98年卒)。父は新参輩氏4世安里筑登之親雲上積盈(童名:眞樽、唐名:輩文曾、1712~74年卒)。母は名蔵村住民の百姓で次良川平の娘、鍋。: ○へ.琉球王国からの役人たちの息子[5]・嗣子[5] 「新参輩姓家譜 新参1世安里掟親雲上積正(原本) 安里家」『那覇市史・資料篇第1卷8家譜資料第四集(那覇・泊系家譜)』(那覇市企画部市史編集室/昭和57年)には「新参4世安里筑登之親雲上積盈。童名:眞樽、唐名:輩文曾、行一(長男)。康凞五十二(1712)年癸六月二日生。(略)新参長男積昌。原長男子山戸因為、母八重山島名蔵村百姓男次良川平女鍋居住干彼島雖然父積盈因無嗣。乾隆二十二(1757)年丁丑十一月七日 奏 訟嗣家統者也」と記載されている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「新参輩氏 安里筑登之―2055、新参大宗輩元起安里掟親雲上積正(童名:眞山戸、1614~85年卒)。」と記載されている。( )は筆者が記入。
(350).8―⑥『伯言氏5世政成小宗』(7)、伯言氏5世小浜目差政成(童名・生寿不明)・:(9).8―『伯言姓大宗政通』(1):伯言氏4世石垣親雲上政治(童名:嘉那、1723~73年卒)の四男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(110)

8.1752年生まれの(351).6―①―⑨―○33『憲章氏8世英満小宗』(34)から1802年生まれた(400).6―⑥―⑮―○35―○36『憲章氏11世英叙小宗』(37)まで。

(351).6―①―⑨―○33『憲章氏8世英満小宗』(34)、憲章氏8世桴海村耕作筆者・南風原仁也英満(童名:満慶山、1752~96年卒)。:(102).6―①―⑨『憲章氏6世英休小宗』(10):憲章氏7世川平仁也英方(1745~57年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山(生不伝~1500年卒)とその子孫(91)
(352).2―②―⑧―○30『嘉善氏11世永林小宗』(31)、嘉善氏11世与那国目差・石垣仁也永林(童名:鶴兼、1753~1816年卒)。:(103).2―②―⑧『嘉善氏8世永常小宗』(9):嘉善氏10世野底与人永恵(童名:松千代、1722~
76年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(92)
(353).49―①『明昭氏2世長任小宗』(2)、明昭氏2世古見首里大屋子長任(童名・生寿不明)。:(177).49―『明昭姓大宗長英』(1):明紹姓大宗小浜与人長英(童名:真勢山、1694~1769年卒)の七男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(111)
(354).7―○29『上官氏8世正浮小宗』(30)、上官氏8世石垣仁也正浮(童名:真山戸、1755~89年卒)。:(8).7―『上官姓大宗正廟』(1):上官氏7世當銘仁也正應(童名:祖良廣、1708~66年卒)の四男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(112)
(355).57―①『夏林氏2世賢按小宗』(2)、夏林氏2世名蔵与人賢按(童名:智久利、1755~1786年卒)。:(300).57―『夏林姓大宗賢永』(1):夏林姓大宗大浜親雲上賢永(童名:鶴金、1723~1777年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(113)
※.新参林氏2世佐久川筑登之泰慶(童名:眞蒲戸、唐名:林世榮、1755~99年卒)。:父は八重山島詰醫者・新参林氏1世佐久川親雲上泰郷(童名:眞蒲戸、唐名:林開祖、1719~92年卒)、母は若狭町村無系翁長筑登之親雲上の娘、眞嘉戸(1727~1802年卒)。実母が登野城村住民で百種の本原仁屋の女孫、伊津志:○へ.琉球国の詰醫者とその子男[6]、嗣子[6] 「新参林姓家譜 一世佐久川親雲上泰郷(原本) 佐久川家」『那覇市史 資料篇第1卷8家譜資料四-那覇・泊系』(那覇市企画部市史編集室/1983年)には「新参1世佐久川親雲上泰郷(童名:眞蒲戸、唐名:林開祖、1719~92年卒)。(略)新参長男泰慶(佐久川筑登之、童名:真蒲戸、唐名:林世榮、1755~99年卒)、母八重山島登野城村本原仁屋女孫伊津志。四女思津、乾隆二十二(1757)年丁丑九月十六日生。母八重山島登野城村本原仁屋女孫伊津志。という内容で書かれている。
※.男子、三良(1755年生まれ~)。居住八重山島。父が麻姓11世石嶺眞完(童名:思武太、唐名:麻延翰、1701~61年卒)で1752年八重山島へ流刑され、1761年死亡している。母は石垣村住民で百姓のコンツ。弟に亀(1757年生まれ~)がいる。: ○へ.琉球王国の役人(流刑者)とその息子[7] 「麻姓家譜(原)8世儀間筑登之親雲上眞韶 石嶺家」『那覇市史・資料篇第1卷7家譜資料第三集(首里系家譜)』(那覇市企画部市史編集室/昭和57年)
※.男子、亀(1757年生まれ~)。八重山島に居住。母は八重山島の石垣村住民の百姓でコンツ。父が麻姓11世石嶺眞完(童名:思武太、唐名:麻延翰、1701~61年卒)で1752年八重山島へ流刑され、1761年死亡している。: ○ヘ.琉球王国のその他(流刑者)とその息子[8] 「麻姓家譜(原)八世儀間筑登之親雲上眞韶 石嶺家」『那覇市史・資料篇第1卷7家譜資料第三集(首里系家譜)』(那覇市企画部市史編集室/昭和57年)
※.思津(1757~1827年卒)。:夫が明紹氏3世惣横目筆者・幸地仁也長克(童名:樽、1747~94年卒)。:(177).49―『明昭姓大宗長英』(1):父は那覇若桜町村醫者仲渠村筑登之親雲上諱元恕留在本島之時所生女:○ヘ.琉球国の役人(醫者)たちの娘(19)
(356).9―⑥―⑮『大史氏8世高道小宗』(16)、大史氏8世波照間目差・花城仁屋高道(童名:真勢山、1758~1814年卒)。:(96).9―⑥『大史氏5世高岡小宗』(7):大史氏7世桴海与人高家(1719~88年卒)の三男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(75)
(357).32―③―○26『梅公氏5世孫濱小宗』(27)、梅公氏5世大浜仁也孫濱(童名:樽、1758~卒不詳)。:(83).32―③『梅公氏2世孫清小宗』(4):梅公氏4世仲間与人孫昌(童名:亀千代、1718~85年卒)の三男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(114)
(358).8―⑦『伯言氏5世政盛小宗』(8)、伯言氏5世小浜目差政盛(童名・生寿不明)。:(9).8―『伯言姓大宗政通』(1):伯言氏4世石垣親雲上政治(童名:嘉那、1723~73年卒)の四男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(115)
(359).4―②―③『有若氏9世泰徳小宗』(4)、有若氏9世花城目差・小浜筑登之泰徳(童名:松、1760~1808年卒)。:(297).4―②『有若氏8世泰啓小宗』(3):有若氏8世小浜与人泰啓(1721~71年卒)の六男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(93)
※.男子、金松(1760年生まれ~)。居住八重山島。母は八重山島の石垣村住民で百姓のコンツ。父が麻姓11世石嶺・眞完(童名:思武太、1701~61年卒)で1752年八重山島へ流刑され、1761年死。:「麻姓家譜(原)8世儀間筑登之親雲上眞韶 石嶺家」『那覇市史・資料篇第1卷7家譜資料第三集(首里系家譜)』(那覇市企画部市史編集室/1982年):○ヘ.琉球王国のその他(流刑者)の息子[9] (360).66―『毛麟姓(大宗)盛嘉』(1)、毛麟姓(大宗)仲里仁也盛嘉(童名・生寿不明)。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(116)
『上官氏5世正房小宗』家譜に「上官氏7世正衛―童名:石戸能。號・宗壽。乾隆四十九(1784)年甲辰十一月十八日生。厚實父毛麟氏仲里仁也盛嘉。母梅公氏。然六世正賀男子孫因早子死。是呈請為嗣子続彼家統」と書かれている。また、他の家譜にも憲章氏9世嘉平与人英有(童名:真牛、1764~1814年卒)の三女宇戸真志(1792年生まれ~)が再嫁手毛麟氏名蔵目差盛信(童名・生寿不明)と書かれている。
(361).32―③―⑫―○ 27『梅公氏5世孫致小宗』(28)、梅公氏5世野底与人孫致(童名:祖良廣、1761~1830年卒)。:(252).32―③―⑫『梅公氏3世孫忠小宗』(13):父の梅公氏4世平得村耕作筆者・大浜仁也孫制(童名:石戸能、1727~71年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(117)
※.男子、松(1762年生まれ~)。:実父は首里毛氏11世大山親雲上盛珍(童名:思次良、唐名:毛天祐、1710~79年卒)が八重山島の新在番として1759年来島、1662年帰任。:○ヘ.琉球王国の役人たちの子男[10] 「毛姓家譜(原)三世澤岻親方盛里 上里家」『那覇市史・資料篇第1卷7家譜資料第三集(首里系家譜)』(那覇市企画部市史編集室/1982年)の「11世盛珍」の項には「男子松・居住八重山島登野城村百姓黒島仁也女鍋・乾隆二十七(1762)年壬午閏五月二十九日生」と記されている。
(362).67―『麻枝姓大宗真宜』(1)、麻枝姓大宗上里仁也真宜(童名・生寿不明)。首里麻姓大城按司真武士世麻向茂名城筑登之親雲上真董。母が新川村住民の百姓赤頭西原仁也の能美山。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(118)
『明紹姓大宗長英』家譜には明紹氏3世仲間与人長敦(童名:真勢山、1701~1834年卒)の三室が麻枝氏故上里仁也真宜の長女、真牛(1786~1859年卒)と書かれている。
『八重山島年来記』『御使者在番記』には麻氏名城筑登之親雲上真董、1756年に在番筆者として来島して1758年に帰国。1771年にも祭文使者として再度首里麻氏名城筑登之親雲上真董が、来島している。家譜実見で確認したい。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「麻氏 名城親雲上―1146、元祖麻普爵大城按司眞武八世儀間親雲上眞時支流七子麻此寧名城親雲上眞文」と記載されている。
(363).12―⑰『長興氏8世善教小宗』(18)、長興氏8世桃原村杣山筆者・石垣仁也善教(童名:松、1765~1815年卒)。:(13).12―『長興姓大宗善安』(1):長興氏7世登野城仁也善列(童名:松、1732~1810年卒)の三男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(76)
※.真加銘樽(1766~卒不明):夫の嘉善氏11世石垣筑登之永佐(童名:真勢山、1762~1835年卒)の室。父の王府(那覇封氏)小橋川筑登之親雲上昭致が八重山在番筆者として1764年来島し1766年に帰国した。母は大川村住民の百姓で宮城筑登之親雲上の娘で銘志の子女:(104).2―⑨『嘉善氏9世永由小宗』(10):○ヘ.琉球国の役人(新在番筆者)たちとその娘(20)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「新参鉏小橋川親雲上―2015、新参大宗鉏應基小橋川筑久登之昭員」と記載されている。後日小橋川筑登之親雲上昭致と親族関係があるのか検討したい。
(364).1―①―③―○23―○25『長栄氏11世真演小宗』(26)、長栄氏11世黒島尓也真演(童名・生寿不明)。:(331).1―①―③―○23『長栄氏10世真求小宗』(24):長栄氏10世石垣仁也真求(童名:蒲戸、1741~72年卒)の三男。:イ.長田大翁主の子孫(26)
(365).32―⑪―○28『梅公氏5世孫宣小宗』(29)、梅公氏5世南風見目差・石垣尓也孫宣(童名:保久利、1767~1842年卒)。:(240).32―⑪『梅公氏3世孫久小宗』(12):梅公氏4世崎山村杣山筆者・石垣仁也孫羽(童名:松、1734~90年卒)の三男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(119)
(366).3―①―⑮『錦芳氏11世用益小宗』(16)、錦芳氏11世用益(童名・生寿不明)。:(6).3―①『錦芳氏3世用信小宗』(2):錦芳氏10世崎山与人用宗(童名:樽、1737~1809年卒)の四男。:ホ.慶来慶田城の子孫(16)
(367).32―②―⑤―⑮―○29『梅公氏5世孫記小宗』(30)、梅公氏5世上原目差・黒島仁也孫記(童名:真三戸、1768~1830年卒)。:梅公氏4世宇良与人孫俊(童名:鶴兼、1714~81年卒)の五男。:(282).32―②―⑤―⑮『梅公氏4世孫俊小宗』(16):ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(120)
(368).19-③-○24-○27『山陽氏7世長康小宗』(28)、山陽氏7世宮良与人長康(童名・生寿不明)。:(330).19-③―○24『山陽氏6世長達小宗』(25):山陽氏6世西表首里大屋子長達(童名:石戸能、1740~1807年卒)の次男。:イ.那礼当の子孫(28)
(369).1―○26『長栄氏11世真平小宗』(27)、長栄氏11世真平(童名・生寿不明)。:(1).1―『長栄姓大宗信保』(1):長栄氏10世西表首里大屋子真本(童名:樽兼、1740~99年卒)の次男。:イ.長田大翁主の子孫(27)
(370).2―②―⑭―○28―○31『嘉善氏11世永 小宗』(32)、嘉善氏11世田頭仁也永(童名:兼思、1770~1840年卒)。:嘉善氏10世波照間仁也永専(1727~71年卒)の次男。:(310).2―②―⑭―○27『嘉善氏10世永専小宗』(28):ハ.仲間満慶山とその子孫(94)
(371).6―⑥―⑮―○35『憲章氏10世英暢小宗』(36)、憲章氏10世小浜与人英暢(童名:智久利、1771~1810年卒)。:憲章氏9世石垣仁也英陳(1733~70年卒)の次男。:(193).6―⑥―⑮『憲章氏7世英副小宗』(16):ハ.仲間満慶山とその子孫(95)
(372).1―①―③―○23―○27『長栄氏11世真英小宗』(28)。長栄氏11世真英(童名・生寿不明)。:(331).1―①―③―○23『長栄氏10世真求小宗』(24):長栄氏10世石垣仁也真求(童名:蒲戸、1741~72年卒)の四男。:イ.長田大翁主の子孫(28)
(373).32―②―⑤―⑳―○30『梅公氏5世孫職小宗』(31)。梅公氏5世大浜親雲上孫職(童名:真山戸、1772~1831年卒):(329).32―②―⑤―⑳『梅公氏5世孫重小宗』(21):梅公氏5世宮良与人孫重(童名:鶴千代、1740~1811年卒)の三男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(121)
(374).68―『楊秀姓大宗昌品』(1)、楊秀姓大宗脇筆者・野國仁也昌品(童名:鶴千代、1772~98年卒)。:父は在番筆者(1772年来島)、元祖王府首里楊氏三司官・楊鶴山内親方昌信、楊氏9世野国親雲上昌著(1718年生まれ~)。母は古見村住民で百姓赤頭波照間仁也の娘、那美山(1745~1805年卒)。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(122)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「楊氏 野國親雲上―228、元祖楊太鶴山内親方昌信十世楊應春野國親雲上昌胤支流次男楊邦冶野國親雲上昌央」。「野國親雲上-2631、楊氏昌勝」と記載されている。後日検討したい。
(375).3―②―⑯『錦芳氏9世用淑小宗』(17)、錦芳氏9世西表目差・石垣仁也用淑(童名:亀、1773~1813年卒)。:(55).3―②『錦芳氏6世用正小宗』(3):錦芳氏9世石垣親雲上用致(童名:松、1741~1810年卒)の次男。:ホ.慶来慶田城の子孫(17)
(376).57―①―③『夏林氏3世賢智小宗』(4)、夏林氏3世大浜尓也賢智(童名:鶴、1775~94年卒)。:(355).57―①『夏林氏2世賢按小宗』(2):夏林氏2世名蔵与人賢按(童名:知久利、1755~86年卒)の長男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(123)
(377).7―②―⑨―⑲―○30『上官氏9世正房小宗』(31)、上官氏9世石垣親雲上正房(童名:保久利、1775~1838年卒)。:(198).7―②―⑨―⑲『上官氏7世正作小宗』(20):上官氏8世惣横目川平与人(首里大屋子)正憙(童名:樽金、1749、94年卒)の五男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(124)
(378).56―②『葛孫氏3世秀行小宗』(3)、葛孫氏3世惣横目桴海与人秀行(童名・生寿不明)。:(291).56―『葛孫姓大宗秀継』(1):葛孫氏2世古見首里大屋子秀相(童名:樽、1746~98年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(125)
※.女子、保成(1775年生まれ~)。:父の首里泊村の明氏7世饒平名筑登之親雲上長英(童名:樽金、唐名:明國村、1722~80年卒)が新在番筆者として1773年に来島して1776年帰国した。母は新川村住民の百姓多田良の娘、伊嘉部(1775年生まれ~)。在番筆者として在勤中に出生の娘:○ヘ.琉球国の役人たちとその娘(21)
「明姓家譜 七世饒平名筑登之親雲上長英(原本)嘉陽家」『那覇市史 資料篇第1卷8家譜資料四』(那覇市企画部市史編集室/1983年)には「女子保成、母八重山島新川村多田良女伊嘉部、乾隆四十(1775)年年乙末九月十二日生。居住于八重山島」と書かれている。
(379).32―②―⑰―○31『梅公氏6世孫香小宗』(32)、梅公氏5世謝花尓也孫香(童名:武多勢、1776~1804年卒)。:(289).32―②―⑰『梅公氏4世孫本小宗』(18):梅公氏5世花城尓也孫造(童名:保久利、1746~1798年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(126)
(380).4―④『有若氏9世泰次小宗』(5)、有若氏9世泰次(童名・生寿不明)。:(230).4―①『有若氏7世泰清小宗』(2):有若氏8世崎山村杣山筆者・黒島仁也泰延(童名:真山戸、1747~71年卒)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(96)
(381).17―④―⑯『松茂氏8世當剛小宗』(17)、松茂氏8世大浜親雲上當剛(童名:武喜志、1777~1829年卒)。:(53).17―④『松茂氏3世當永小宗』(5):松茂氏7世大浜親雲上當克(童名:武義志、1741~94年卒)の三男。:ニ.明宇底獅子嘉殿とその子孫(77)
(382).69―『向道姓大宗朝載』、向道姓大宗若文子・與那覇仁也朝載(童名:亀千代、1779~98年卒)。:父は八重山在番筆者として1778年来島し1780年に帰国した王府首里向姓與那覇親雲上朝起。母は平得村住民で百姓赤頭松島仁也の娘、比手真(1768~91年卒)。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(127)
(383).70―『豊有姓(大宗)元潘』、豊有氏(大宗)翁長仁也元潘(童名・生寿不明)。:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(128)
『雍長姓大宗興禰』家譜に3世山城仁也興全(童名:真蒲戸、1802~43年卒)の室が豊有氏(大宗)翁長仁也元潘の次女、真伊津(1802~80年卒)であると記載されている。
明治18(1885)年に旧慣改革を意図した田城安定による『八重山島管内―石垣島大浜間切大川村巡検統誌』に当時大川村に住んでいた人々の住所・氏名録がある。豊有(姓)元潘の子孫たちの一人が字大川に住み、「翁長元永・29才(1856年生まれ~」と書かれている。
『八重山島年来記』『御使者在番記』には1779年に在番筆者として王府首里の翁長筑登之親雲上が来島している。この在番筆者が豊有氏(大宗)翁長仁也元潘の父親なのか、家譜実見で検討したい。
(384).3―①―⑰『錦芳氏11世用詳小宗』(18)、錦芳氏11世名蔵与人用詳(童名:亀千代、1781~1838年卒)。:(6).3―①『錦芳氏3世用信小宗』(2):錦芳氏10世崎山与人用宗(童名:樽、1737~1809年卒)の六男。:ホ.慶来慶田城の子孫(18)
(385).2―②―⑧―○24―○32『嘉善氏11世永陳小宗』(33)、嘉善氏11世波照間首里大屋子永陳(1781~1854年卒)。:(255).2―②―⑧―○24『嘉善氏9世永勝小宗』(25):嘉善氏10世黒島首里大屋子永範(1733~1803年卒)の四男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(97)
※.那比(1782~1835年卒)。夫・梅公氏6世南風見村杣山筆者・渡久山筑登之孫宜(童名:真勢、1773~1841年卒)の室。:(218).32―④―⑨『梅公氏3世孫満小宗』(10):王府首里毛氏識名里子親雲上当島先在番伊良皆親雲上内證之特、竹冨村住民無系前川筑登之女子真那志取合子。:○ヘ.琉球国の役人たちとその娘(22)
(386).19―③―⑲―○28『山陽氏7世長顯小宗』(29)、山陽氏7世盛山与人長顯(童名:保久利、1784~1846年卒)。:(280).19―③―⑲『山陽氏5世長京小宗』(20):山陽氏6世宮良親雲上長友(童名:真山戸、1750~1812年卒)の次男。:童名:ロ.那礼当の子孫(29)
(387).22―①―②『蔡林氏7世全雅小宗』(3):蔡林氏7世西表仁屋全雅(童名:松、1785~1821年卒)。西表村耕作筆者(1841年任)。:(57).22―①『蔡林氏2世全連小宗』(2):蔡林氏6世耕作筆者・波照間仁也全枚
(童名:1744~99年卒)の三男。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(129)
※.武樽(1785~1836年卒)。夫は公治氏6世崎枝村耕作筆者・宮良仁也常易(童名:石戸能、1789~1847年卒)。:(25).20―公治姓大宗常頼』(10):実父の那覇栢氏7世國吉親雲上良遐(童名:真蒲戸、唐名:栢維藩、1720~97年卒)が新在番筆者として1781年に年来島して1784年へ帰任。平得村の波照間屋の娘、伊津喜を娶りその子女。:○ヘ.琉球国の役人(在番)たちの娘(23)
(388).71―『英文姓(大宗)恒鎮』(1)、英文姓(大宗)漢那筑登之恒鎮(童名・生寿不明)。:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(130)
『山陽氏6世長敏小宗』家譜の「7世黒島首里大屋子長周(童名:保久利思、1750~1812年卒)に二女の真加那志(1786年うまれ~)が英文氏漢那仁也恒鎮に嫁ぐという内容で書かれている。また『岳章氏4世致展小宗』家譜にも岳章氏8世黒島仁也致格(童名:松、1814~70年卒)の室は英文氏故漢那筑登之恒鎮の長女、久屋真(1814~65年卒)と記載されている。
『英姓家譜(渡名喜家)』家譜には、父と思われる該当者の「3世重孝(童名:眞志武、唐名:英常春、1612~67年卒)の次男重休が別有家譜の子孫たちか。また、6世恒隆(童名:小樽金、唐名:英偉、1698~1763年卒)、6世恒快(童名:百千代、唐名:英傑、1705~48年卒)、7世恒明(童名:真蒲戸、唐名:英世榮、1732~75年卒)、8世恒得(童名:真蒲戸、唐名:英延棟、1761~95年卒)。」などが書かれている。八重山に来島し、英文姓(大宗)漢那筑登之恒鎮の父が誰か、『英文姓(大宗)恒鎮』家譜の実見で確認したい。
※.(135).33―①―益茂氏6世宮良尓也里盛(童名:蒲戸、1787~1828年)、実父は王府(首里晁氏唐名:晁平章)吉本筑登之親雲上要易が在番筆者として1786年来島し1788年に帰国した。石垣村住民百姓で赤頭の座間味尓也の鶴との息子。妹には南武樽(1789~1851年)がいる。:○ヘ.琉球王国の役人(在番)たちとその子男[11]・嗣子[7] (136).33―①『益茂氏3世里榮小宗』(2)の家譜には益茂氏5世耕作筆者・登野城尓也里興が「無男子為呈請嗣子雖然同氏杣山筆者・石垣尓也奉訟里興為長子依是為次男」と書かれている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「晁氏吉本筑登之親雲上―361、元祖晁永思宮城親雲上吉英七世晁乎章吉本親雲上吉易支流次男晁克愼吉本親雲上吉救。2937、晁氏吉寛 吉本親雲上」と記載されている。家譜実見でどの支流がを検討したい。
(389).3―②―⑱『錦芳氏9世用泰小宗』(19)、錦芳氏9世用泰(童名・生寿不明):(55).3-②『錦芳氏6世用正
小宗』(3):錦芳氏8世石垣親雲上用致(童名:松、1741~1810年)の四男:ホ.慶来慶田城(錦芳姓大宗西表首里大屋子用緒)の子孫(19)
(390).19―③―○29『山陽氏8世長格小宗』(30)、山陽氏8世宮良親雲上長格(1787~1836年卒)。:(81).19―③『山陽氏3世長明小宗』(4):山陽氏7世大浜親雲上長演(童名:真山戸、1760~1821年卒)の三男。:ロ.那礼当の子孫(30)
(391).2―②―⑧―○30―○33『嘉善氏12世永正小宗』(34)、嘉善氏12世黒島首里大屋子永正(1789~1859年卒)。:(352).2―②―⑧―○30『嘉善氏11世永林小宗』(31):嘉善氏11世与那国目差・石垣仁也永林(童名:鶴兼、1753~1816年)の次男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(98)
(392).19―⑧―○30『山陽氏8世長祥小宗』(31)、山陽氏8世仲間村耕作筆者・石垣仁也長祥(童名:真牛、1789~1824年卒)。:(157).19―⑧『山陽氏5世長良小宗』(9):山陽氏7世玻座真仁屋長孝(童名:祖良廣、1756~99年)の次男。:ロ.那礼当の子孫(31)
※.南武樽(1789~1851年卒)。夫は嘉善氏12世宮良仁也永勇(童名:樽、1789~1833年)。:(35).2―②『嘉善氏5世永定小宗』(3):実父は首里晁氏吉本筑登之親雲上要易。当島の在番筆者で1786年来島、石垣村居住の百姓・赤頭の座間味仁也の女、美志を娶り出生の女子。兄の嗣子となった益茂氏6世宮良尓也里盛(童名:蒲戸、1787~1828年卒)がいる。(136).33―①『益茂氏3世里榮小宗』(2):○へ.琉球王国の役人たちの娘(24)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「晁氏吉本筑登之親雲上―361、元祖晁永思宮城親雲上吉英七世晁乎章吉本親雲上吉易支流次男晁克愼吉本親雲上吉救。2937、晁氏吉寛 吉本親雲上」と記載されている。家譜実見でどの支流がを検討したい。
※.加真戸(1789~不明)。:夫は岳章氏6世筑登之座敷・大浜仁也致與(童名:蒲戸、1783~1853年卒)。:父は醫者渡慶次筑登之の娘。:(171).29―⑤『岳章氏4世致泰小宗』(6):○ヘ.琉球王国の役人(醫者)たちの娘(25)
※.女、鶴(生寿不明・1789年生まれ~)。:夫・明紹氏3世平得目差・饒平名筑登之長幸(童名:武勢、1790~1852年卒)の室・離別:(177).49―『明昭姓大宗長英』(1):父は向氏故永元親雲上=1787年来島、1790年帰任の在番・長元親雲上朝賢(首里、向氏):○へ.琉球王国の役人たちの娘(26)
(393).7―②―⑨―⑲―○31『上官氏9世正喜小宗』(32)。上官氏9世大浜親雲上正喜(童名:真牛兼、1790~1863年卒)。:(198).7―②―⑨―⑲『上官氏7世正作小宗』(20):上官氏8世惣横目川平与人(首里大屋子)正憙(童名:樽金、1749~94年卒)の五男。:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(131)
(394).32―②―⑤―⑮―○23―○32『梅公氏6世孫賢小宗』(33)、梅公氏6世桴海与人孫賢(名:樽、1790~1849年卒)。(343).32―②―⑤―⑮―○23『梅公氏5世孫遥小宗』(24):梅公氏5世鳩間目差・西表尓也孫遙(名:松、1747~1801年卒)の四男。:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(132)
(395).32―②―⑤―⑳―○33『梅公氏6世孫里小宗』(34)、梅公氏6世桃原目差孫里(童名:亀千代、1790~1843年卒)。:(329).32―②―⑤―⑳『梅公氏5世孫重小宗』(21):梅公氏5世宮良与人孫重(童名:鶴千代、1740~1811年卒)の六男。:ヘ.琉球王国の役人たちの孫(133)
(396).72―『倪榮姓大宗賢生』(1)、倪榮姓大宗安仁屋仁也賢生(童名:真蒲戸、1794~1826年卒)。:父は在番筆者(1792年来島して1794年帰任)、那覇倪氏本部親雲上宗賢、8代之孫世器安仁屋筑登之親雲上賢昌(1736年生まれ~)の第四子。母は真榮里村住民の百姓赤頭宮里仁也女子久屋真(1774~1841年卒)。:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(134)
(397).73―『扶佐姓(大宗)林均』(1)、扶佐姓(大宗)照屋仁也林均(童名・生寿不明)。:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(135)
『梅公氏5世孫重小宗』家譜には「梅公氏7世鳩間与人孫昌(1804~68年卒)の室は扶佐氏照屋仁也林均の長女、武樽(1805~53年卒)という内容で書かれている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「新参扶氏 照屋親雲上―1870、新参大宗扶君慈照屋親雲上林全」と記載されている。家譜実見で確認したい。
(398).10―①―⑨―⑯『毛裔氏8世安定小宗』(17)、毛裔氏8世伊原間与人安定(童名:樽金、1795~1853年卒)。:(156).10―①―⑨『毛裔氏5世安廣小宗』(10):毛裔氏7世若文子・恩河仁也安現(童名:亀千代、1756~97年卒)の三男。:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(136)
※.真和津(1795~1853年卒)。:夫は梅公氏6世盛山村耕作筆者・西表仁也孫堅(1799~1851年卒)。:父は王府首里金氏漢那里之子親雲上の娘:(336).32―○21『梅公氏5世孫良小宗』(22):○へ.琉球王国の役人たちの娘(27)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「金氏 漢那親雲上―638、大宗金貴識名親雲上安忠」と記載されている。家譜実見で確認したい。
(399).19-③―○31『山陽氏8世長列小宗』(32)、山陽氏8世名蔵目差・大浜仁也長列(童名:石戸能、1796~1833年卒)。(81).19―③『山陽氏3世長明小宗』(4):山陽氏7世大浜親雲上長演(童名:真山戸、1760~1821年卒)の五男。:ロ.那礼当の子孫(32)
(400).6―⑥―⑮―○35―○36『憲章氏11世英叙小宗』(37)、憲章氏11世野底与人英叙(童名:嘉路、1802~64年卒)。:(371).6―⑥―⑮―○35『憲章氏10世英暢小宗』(36):憲章氏10世小浜与人英暢(童名:智久利、1771~1810年卒)の三男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(99)

9.1805年ころ生まれの(401).74―『向仁姓大宗朝盛』(1)から1876年生まれた(423).89―『馬姓系大宗良昻』(1)まで。

(401).74―『向仁姓大宗朝盛』(1)、向仁姓大宗朝盛(童名・生寿不明)。:父は元祖尚清王、8男尚洪徳読谷山王子朝苗、9世向為旭桑江親雲上朝雄、第四子。:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(137)
『向仁姓大宗朝盛』家譜が未確認のため、喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」には「元祖ハ尚清王八男尚洪徳読谷山王子朝苗九世尚為旭桑江親雲上朝雄第四子」と書かれている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「向氏 桑江親雲上―611、元祖尚洪徳讀谷山王子朝苗八世向汝弼桑江親雲上朝良支流三男為盡桑江親雲上朝昌」。「向氏 桑江親雲上―613、元祖尚洪徳讀谷山王子朝苗九世向為爲旭桑江親雲上朝雄支流四男善良桑江親雲上朝盛」と記載されている。後日検討したい。
(402).57―④『夏林氏3世賢憲小宗』(5)、夏林氏3世西表首里大屋子賢憲(童名・生寿不明)。:(300).57―『夏林姓大宗賢永』(1):夏林氏2世宮良親雲上賢則(童名:松、1762~1813年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(138)
(403).75―『向長姓大宗朝里』(1)、向長姓大宗朝里(1805年生まれ~)。:父は在番筆者、首里王府向氏宜野座里之子親雲上朝泰。母が盛山村住民の本原氏の娘、真比。:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(139)
『向長姓大宗朝里』家譜が未確認のため、喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」には「向家(宮良旅館)―1世(大宗)朝里→2世朝道→3世朝宜→4世朝伝→5世朝栄。父ハ首里王府宜野座里之子親雲上朝里、1804年八重山在番トシテ赴任、其時盛山村本原氏女真比ヲ妾トシテ朝道ヲ生ム」と記載されている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「向氏 宜野座親雲上―506、尚清八子洪徳九世維藩支流四子永康宜野座親雲上朝常」と記されている。家譜実見で向氏宜野座里之子親雲上朝泰との関係を確認したい。
※.女・牛(1805年生まれ~)。:夫は山陽氏9世黒島仁也長秀(童名:樽金、1803年生まれ~)。の継室。:父は先在番浜元親雲上の次女。1802年新在番の浜元親雲上朝章(首里・向氏)が来島・1804年に帰任。:(315).⑲―⑨―○22『山陽氏6世長網小宗』(23):○ヘ.琉球王国からの役人たちの娘(28)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「向氏 濱元親雲上―32、元祖尚維衡浦添王子朝満八世向天爵具志頭按司朝騎支流二子向延輔具志頭里之子親雲上朝教」と記載されている。後日家譜実見で検討したい。
(404).3―①―⑲『錦芳氏12世用議小宗』(20)、錦芳氏12世宮良親雲上用議(童名:松兼、1806~1872年卒)。:(6).3―①『錦芳氏3世用信小宗』(2):錦芳氏11世黒島首里大屋子用庸(童名:保久利、1761~1825年卒)の次男。:ホ.慶来慶田城の子孫(20)
(405).32―②―⑤―⑳―○34『梅公氏7世孫領小宗』(35)、梅公氏7世大目差・黒島尓也孫領(童名:本心、1808~56年卒)。:(329).32―②―⑤―⑳『梅公氏5世孫重小宗』(21):父の梅公氏6世小浜目差・仲里尓也孫康(童名:真牛金、1765~1812年卒)の次男。:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(140)
(406).76―『向姓大宗朝登』(1)、向姓大宗朝登(1809年生まれ~)。:父は在番筆者、首里向氏源河親雲上朝亮。母は平得村住民の真栄里家の娘、真伊津。:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(141)
『向姓大宗朝登』家譜が未確認のため、喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」には「向氏(石垣朝英家)―1世(大宗)朝登→2世朝定→3世用信→4世朝英→5世朝浩→6世朝康。父ハ首里尚氏源河親雲上朝亮デアル氏ハ1808年4月6日八重山在番トシテ赴任シタトキ平得村真栄里家ノ真伊津ヲ妾トシテ朝登ヲ生ム」と書かれている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「向氏 源河親雲上―577、元祖尚弘信本部王子朝平支流四男諱安泰瀬嵩親方朝康」と記載されている。家譜実見で検討したい。
※.男子、蒲戸(1809年生まれ~)。:父の新参二世有銘親雲上泰典(童名:眞山戸、唐名:林世昌、1758年生まれ~)が1807年八重山島詰醫者として来島。母は竹富村住民で百姓東里屋の保久利の娘、眞伊奴:○へ.琉球王国からの役人(醫者)たちの息子[12] 「新参林姓家譜 一世佐久川親雲上泰郷(原本)佐久川家」『那覇市史 資料篇第1卷8家譜資料四』(那覇市企画部市史編集室/1883年)には「新参二世有銘親雲上泰典(童名:眞山戸、唐名:林世昌、1758年生まれ~)には男子蒲戸、嘉慶十四(1809)己巳十二月二十一日生。母八重山島竹富村東里屋保久利女眞伊奴」と記載されている。
(407).32―②―⑤―⑳―○35『梅公氏7世孫令小宗』(36)、梅公氏7世桴海村杣山筆者・與那原仁也孫令(童名:真山戸、1811~53年卒)。:(329).32―②―⑤―⑳『梅公氏5世孫重小宗』(21):梅公氏6世小浜目差・仲里尓也孫康(童名:真牛金、1765~1812年卒)の三男。:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(142)
※.咸姓10世外間政宜(童名:眞蒲戸、唐名:咸賢紙、1812年生まれ~)。:父は咸姓9世外間政隆(童名:樽金、唐名:咸那寳、1784~1828年卒)。母は宮良村住民の百姓波仁屋の妹、久屋麻:○へ.琉球王国からの役人たちの息子[13]・嗣子[8] 泊系「四七 咸姓家譜 一世江甫 政重(原本) 外間家」『那覇市史 資料篇第1卷8家譜資料四』(那覇市企画部市史編集室/1983年)の「九世政隆」項には「長男政宜、母八重山島宮良村男波仁屋妹久屋麻。道光三(1823)年癸未九月二十日政隆因無子奏 訟為継子」と書かれている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「咸氏 外間親雲上―1473、大宗咸榮江甫政重(童名:不伝、生日忌日不伝)。」と記載されている。
(408).10―②―⑰『毛裔氏9世安泰小宗』(18)、毛裔氏9世安泰(童名・生寿不明)。:(64).10―②『毛裔氏3世安維小宗』(3):毛裔氏8世波照間尓也安久(童名:樽兼、1779~1835年卒)の四男。:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(143)
※.女、蒲戸(1820年生まれ~)。夫は山陽氏9世山里仁也長真(童名:保久利、1818~59年卒)。:養父が山陽氏8世南風見与人長政(童名:真蒲戸、1794~1842年卒)。:(275).19―⑰『山陽氏5世長真小宗』(18):実父の王府那覇湖平筑登之親雲上嘉盛が当島の在番筆者として1818年来島、1820年に帰国。滞在中に石垣村住民で百姓の川平筑登之の娘銘多を娶りその娘。然不能帯帰永為娘子。:○へ.琉球王国の役人(在番筆者)たちの娘(29)
※.女子、真牛(1821年生まれ~)。夫は季順氏5世大浜仁也由慎(童名:樽金、1819~63年卒)。(145).47―『季順姓大宗由親』(1):養父が山陽氏9世宮良親雲上長房(童名:保久利思、1800~54年卒)。:(321).19―①―⑤-○23『山陽氏6世長敏小宗』(24):実父の那覇泉崎村用氏仲村渠筑登之親雲上致 が当島の在番筆者として1820年来島し1822年に帰国した。滞在の時に母が登野城村住民の百姓多仁の娘、嘉那志との出生子女。:○へ.琉球王国の役人(在番)たちの娘(30)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「新参用氏 仲村渠親雲上―449、大宗用啓基仲村渠致元」と記載されている。家譜実見で検討したい。
(409).77―『胡福姓大宗正保』(1)、胡福姓大宗山城正保(1824~53年卒):新在番筆者として1822年来島して1824年に帰国。母は真栄里村住民の百姓山城筑登之の娘、嘉那志。:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(144)
喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」には「山城正保氏―父ハ那覇胡氏正秀三男山城筑登之親雲上正粮デアル、1822在番筆者トシテ勤務シタ時、真栄里山城筑登之ノ女嘉那志ヲ妾トシテ正保ヲ生ム、嘉那志(かなし)ハ八重山民謡中ノ王座ヲ占ムルトバラーマ節ノ女主人デアル絶世ノ美人デアッタ」と書かれている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「胡氏 山城親雲上―2411、元祖玉寄筑登之正治六世山城親雲上正盛支流二子胡世茂山城正愛」と記載されている。家譜実見で確認したい。
※.女、真市(1825年生まれ~)。夫は長栄氏耕作筆者・大浜仁也信仝(童名・生寿不明)。:養父が毛裔氏8世伊原間与人安定(童名:樽金、1795~1853卒年)。:(398).10―①―⑨―⑯『毛裔氏8世安定小宗』(17):実父は首里向氏高宮城里之子親雲上朝章、当島在番筆者の時、母は平得村住民の百姓赤頭山城仁也の娘、鍋を娶りその娘。:○へ.琉球王国の役人(在番)たちの娘(31)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「向氏 高宮城親雲上―520、元祖尚紀美里王子朝禎六世向昌期大宜見按司朝常支流次男向有儀世冨慶親方朝功」。「向氏 高宮城親雲上―556、元祖尚楊叢勝連王朝宗六世向自長伊是名親方朝隣支流次男向傑伊是名親雲上朝祥」と記載されている。後日、家譜実見で検討したい。
※.女、鍋山(1825~62年卒)。夫は長栄氏12世石垣村耕作筆者・大浜仁也信全(童名:真山戸、1825~1879年卒)。:(169).1―⑨『長栄氏8世真方小宗』(10):実父は首里捷姓故高宮城里之子親雲上昌演、当島在番筆者(1824年来島、1826年帰任)の時出生の娘。:○ヘ.琉球王国の役人たちの娘(32)
※.女、真嘉戸思(1825年生まれ~)。:養父が上官氏9世石垣親雲上正房(童名:保久利、1775~1838年卒)。:(377).8―②―⑨―⑲―○30『上官氏9世正房小宗』(31):実父は首里殷氏神谷親雲上庸従、当島在番筆者(1824年来島、1826年帰任)之時出生之女子也。母は石垣村住民の百姓川平筑登之の娘、美多。:○へ.琉球王国の役人(在番筆者)たちの娘(33)
(410).3―②―⑯―⑳『錦芳氏11世用米小宗』(21)、錦芳氏11世黒島仁也用米(童名:松兼、1830年生まれ~)。:(375).3―②―⑯『錦芳氏9世用淑小宗』(17):錦芳氏10世鳩間目差・慶田城仁也用快(童名:松、1797~1854年卒)の四男。:ホ.慶来慶田城の子孫(21)
※.女子、亀(1833年生まれ~)。夫は道光二十二(1842)年壬寅従春立船附跟小浜目差信栄王府到于、毛氏糸満里之子親雲上盛元六男・糸満子盛雅:養父が山陽氏9世宮良親雲上長房(童名:保久利思、1800~54年卒)。:(321).19-①―⑤―○23『山陽氏6世長敏小宗』(24):実父は首里吉氏湊川親雲上孟孝、当島在番(1832年来島、1834年帰任)の時、平得村住民で崎枝屋の娘、於那比戸を娶りその出生娘。:○へ.琉球王国の役人(在番)たちの娘(34)
(411).78―『易廣姓大宗寛大』(1)、易廣姓大宗照屋寛大(1836年生まれ~)。:父は在番筆者(首里、易氏)照屋筑登之親雲上寛賀が1835年来島、1838年に帰任:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(145)
明治18(1885)年に旧慣改革を意図した田城安定による『八重山島管内―石垣島大浜間切大川村巡検統誌』に当時大川村に住んでいた人々の住所・氏名録がある。「字大川に住民。易廣氏照屋寛大・49才(1836年生まれ~)。」という内容で書かれている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「易氏 照屋親雲上―798、元祖浦添親方寛安四世照屋親雲上寛條支流次男易應祥照屋親雲上寛道」。「易氏 照屋親雲上―799、元祖易樂水浦添親方寛安三世易承祉照屋親雲上寛盈支流三男、易文明・照屋親雲上寛道」。「易氏 照屋親雲上―800、元祖易樂水浦添親方寛安七世易述業照屋親雲上寛端支流六男易永彜照屋子寛俊」。「易氏 照屋親雲上―801、元祖浦添親方寛安四世照屋親雲上寛條支流長子易承祥照屋親雲上寛盈」。「易氏 照屋親雲上―802、元祖易氏浦添親方寛安六世照屋親雲上寛等支流四男易弘績照屋親雲上寛伹」。「易氏 照屋親雲上―803、元祖浦添親方寛安八世照屋親雲上寛位支流四男易開基照屋親雲上寛休」。「易氏 照屋親雲上―804、元祖浦添親方寛安六世易宗善照屋親雲上寛昆支流六男易述良照屋親雲上寛尊。」と記載されている。照屋筑登之親雲上寛賀がどの支流なのか家譜実見で確認したい。
※.女子、真鶴(1836年生まれ~)。夫は長栄氏宮良仁也信舒(童名・生寿不明)。実父は在番筆者の東氏11世知念親方政行(童名:松金、唐名:東仕鐸、1779~1867年卒)が1835年来島し1838年に帰国した。在勤中に平得村住民で百姓平得筑登之の娘、於那比戸(1813年生まれ~)を娶り、出生した娘。:(409).77―『東明姓12世政傳小宗』(1):○へ.琉球王国の役人たちの娘(35)
(412).79―『東明姓12世政傳小宗』(1)、東明姓12世波照間首里大屋子政傳(童名:真山戸、1838年生まれ~)。:父は王府首里東姓10世知念親方政方、次男の11世知念親方政行(童名:松金、唐名:東仕鐸、1779~1867年卒)が在番筆者として1835年来島して1838年に帰国した。母は平得村の住民で百姓の平得筑登之の娘、於那比戸(1813年生まれ~)。姉に真鶴(1836年生まれ~)がいる。:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(146)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「東氏 知念親方(知念親雲上)―1707、元祖東開極東風平親方政眞支流二子東元明高良親雲上政重。東氏 知念―1737、元祖東氏東風平親方政眞六世知念親雲上政辰支流三子東永榮知念親雲上政成。知念里之子―2746、東氏政敷」と書かれている。後日検討したい。
(413).2―②―⑧―○24―○32―○34『嘉善氏13世永端小宗』(35)、嘉善氏13世西表目差・波照間仁也永端(童名:樽金、1839~1910年卒)。:(385).2―②―⑧―○24―○32『嘉善氏11世永陳小宗』(33):嘉善氏12世黒島与人永演(1801~73年卒)の三男。:ハ.仲間満慶山とその子孫(100)
(414).80―『向明姓大宗朝基』(1)、向明姓大宗真謝与人(花城)朝基(童名:松金、1839年生まれ~)。:父は王府(首里向氏)、在番筆者(1838年来島して1840年に帰任)花城親雲上朝要(1753年生まれ~)。母は石垣村住民で百姓大浜屋の大浜筑登之親雲上石目。妹の思戸(1841年生まれ~)が憲章氏11世仮若文子・仲程仁也英芳(童名:兼思、1839年生まれ~)に嫁いでいる。:(179).6―①―⑭『憲章氏7世英應小宗』(15):ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(147)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「向氏 花城親雲上―47、元祖尚氏浦添王子朝満七世具志頭按司朝弘支流三男尚天祚具志頭里之子親雲上朝恩」。「向氏 花城親雲上―69、元祖尚韶威今帰仁王子朝典十世尚正中恩河親方朝材支流次男尚重華花城親方朝楞」。「向氏 花城親雲上―133、元祖尚氏浦添王子朝満七世具志頭按司朝彌支流四尚天保具志頭里之子親雲上朝俟」と書かれている。王府(首里、向氏)花城親雲上朝要はどの支流の子孫たちなのかを家譜実見で確認したい。
※.思戸(1841年生まれ~)。夫が憲章氏11世仮若文子・仲程仁也英芳(童名:兼思、1839年生まれ~)。:(179).6―①―⑭『憲章氏7世英應小宗』(15):実父は王府・首里向氏故花城親雲上朝要、当島在番之時(1638年来島して1840年に帰国)出生の娘。兄の向明姓大宗真謝与人朝基(童名:松金、1839年生まれ~)。:(414).80―『向明姓大宗朝基』(1):○へ.琉球王国の役人(在番)たちとその娘(36)
(415).81―『易労姓(大宗)歸愷』(1):易労姓(大宗)照屋仁也歸愷(童名・生寿不明)。:ヘ.王府の役人たちのその子孫(148)
『雍長姓大宗興禰』家譜には「雍長氏3世興全(1802~43年卒)の女、鍋山(1841~97年卒)、嫁于易労氏照屋仁也歸愷」と書かれている。
※.真加戸(1841年生まれ~)。夫は山陽氏8世大浜仁也長建(童名:真山戸、1845年生まれ~)。:(330).19―③―○24『山陽氏6世長達小宗』(25):実父は那覇若狭町村亀濱筑登之親雲上、当島詰醫者之時之出生娘:○へ.琉球王国の役人(醫者)たちの娘(37)
※.女子、思亀(1843~60年卒)。:養父・養子が山陽氏9世宮良親雲上長房(童名:保久利思、1800~54年卒)。:(321).19―①―⑤―○23『山陽氏6世長敏小宗』(24):実父は在番筆者として1842年来島、1844年に帰任したの首里向氏・仲吉里之親雲上朝惟。母は大川村住民の百姓故宮城筑登之の娘、真伊津との子女。:○へ.琉球王国の役人(在番筆者)たちの娘(38)
※.女、真加戸(真嘉戸、1843年生まれ~)。:養父が山陽氏9世新川目差長秀(童名:祖良廣、1811~52年卒)。:(275).19-⑰『山陽氏5世長真小宗』(18):実父の泊村松氏3世長嶺筑登之親雲上記喜(童名:真蒲戸、唐名:松景福、1791~1866年卒)が在番筆者として1842年来島し1844年に帰任した。滞在中に大浜村住民百姓で田盛屋の阿良を娶り、その時出生の娘、久屋。然不能帯帰而永為養子。:○へ.琉球王国の役人(在番筆者)たちの娘(39)
(416).82―『松封姓大宗紀常』(1)、松封姓大宗仲地仁也紀常(童名:蒲戸、1844年生まれ~)。:父は八重山在番として1841年来島し1844年帰任した(泊系)松氏3世長嶺筑登之親雲上紀喜(童名:眞蒲戸、唐名:松景福、1791~1866年卒)。母は大浜村住民の百姓田盛屋の眞禰の娘、久屋真。:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(149)
『松封姓大宗紀常』家譜が未確認のため、喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」には「松封氏(仲地家)―1世(大宗)紀常→2世紀談→3世紀雄→4世紀昭。那覇ノ松氏長嶺筑登之親雲上紀喜ハ八重山在番筆者トシテ1842年ニ赴任。大浜村田盛リヤマヲ妾ニ紀常ヲ生ム」と書かれている。
「松姓家譜 新参二世金城筑登之紀雅(原本)仲地家」『那覇市史 資料篇第1卷8家譜資料四』(那覇市企画部市史編集室/1983年)には「女子眞嘉戸・道光二十三(1843)年癸卯七月九日生、母八重山島大浜村田盛屋男眞禰女子久ヤマ、男子蒲戸・道光二十四(1844)年甲辰十二月二十六日生同母姉、眞嘉戸同腹」と記されている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「松氏 金城親雲上―1454、新参大宗松天培金城元順紀嘉(童名:思五郎、1716~82年卒)。松氏 仲地親雲上―1455、元祖松天培金城元順紀嘉支流二世松開芳金城筑登之紀雅(童名:亀、1755~85年卒)。」という内容で書かれている。(  )は筆者が記入。
※.男・亀(1844年生まれ~)、1850年呈請父佐久川為嗣子登御国許:養父錦芳氏10世大浜親雲上用登(童名:松、1798~1854年卒)。(55).3-②『錦芳氏6世用正小宗』(3):実父は八重山在番筆者として1842年来島し1844年に帰任した那覇李氏佐久川筑登之親雲上喜管。母は登野城村住民百姓の新城筑登之の娘、真牛との出生の息子:○へ.琉球王国の役人(在番)たちの子男[14] 『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「李氏 佐久川親雲上―2477、元祖古波倉親雲上喜廣、五世喜瀬親雲上喜成支流二子李自新佐久川親雲上喜安」と記載されている。この家譜実見で那覇李氏佐久川筑登之親雲上喜管との関係があるのか検討したい。
(417).83―『容康姓大宗義建』(1)、山田義建(童名:樽、1847年生まれ~)。:父は在番筆者(1846年来島として1847年帰任)、那覇泊村容氏10世山田筑登之親雲上義順(童名:樽金、唐名:容偉道、1795~1862年卒)。母は大川村の住民で百姓本名屋の宮城筑登之の娘、真伊津。:ヘ.琉球王国の役人(在番筆者)たちの子孫(150)
『容康姓大宗義建』家譜が未確認のため、喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」には「容康氏(山田家)―1世(大宗)義建→2世義兼→3世義智→4世義晃→5世義道。父ハ那覇泊村容氏山田筑登之親雲上義順ハ八重山在番筆者として1846年ニ赴任其ノ子孫デアル」と書かれている。
「容姓家譜―9世山田筑登之親雲上義教(原本) 山田家」『那覇市史 資料篇第1卷8家譜資料四-那覇・泊系』(那覇市企画部市史編集室/1983年)には「10世義順。童名:樽金:唐名:容偉道。行四(四男)。乾隆六十(1795)年乙卯十一月十日生。(略)男子樽、道光二十七(1847)年丁未4月十六日生。母八重山島大川村本名屋宮城筑登之女眞伊津。(略)道光二十五(1845)乙巳二月遡日為八重山島在番筆者。翌年3月二十五日那覇川開洋四月二日到于彼地公務全竣同二十八(1848)年戌申六月八日帰国。(略)同治元(1862)年壬戌五月
二十日卒壽六十八.號・仁心」と記載されている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「容氏 山田親雲上―1438、元祖容肇昌久米村具志川親雲上義貴八世山田親雲上義神支流二子(九世)容秉禮山田親雲上義教(童名:真山戸、1748~1809年卒)。」と書かれている。
(418).84―『浩善姓大宗加秀』(1)、古波蔵加秀(1847年生まれ~)。:父は在番筆者(那覇、浩氏)古波蔵筑登之親雲上加頼が1846年来島して1848年に帰国している。:ヘ.球王国の役人たちの子孫(151)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「新参浩氏 古波蔵親雲上―2585、父無系古波蔵親雲上新参大宗浩氏眞蒲戸」と記載されている。後日、家譜実見で在番筆者の那覇、浩氏の古波蔵筑登之親雲上加頼との関係があるのか確認したい。
※.女、真鶴(1847年生まれ~)。夫は山陽氏10世具志堅仁也長保(童名:樽金、1835~74年卒)。:(224).19―①―⑤―⑫『山陽氏5世長寧小宗』(13):養父が松茂氏9世西表首里大屋子當泰(童名:武慶志、1799~1847年卒)。:(53).17―④『松茂氏3世當永小宗』(5):実父は首里武氏奥原親方宗珍、当島在番(1846年来島、1847年帰任)詰之時女子。また養父の家譜には「在番首里武姓渡名喜親雲上宗珍、母が大川村居住の阿利屋本原筑登之の女子」と書かれている。:○ヘ.琉球王国の役人(在番)たちの娘(40)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「武氏 奥原親雲上―652、元祖江洌按司宗祖七世大城筑久登之宗房支流次男武國柱奥原親雲上宗忠。658、元祖武氏江洌按司宗祖九世奥原親雲上宗満支流次男武成徳奥原親雲上宗参。2660、武氏崇孝 奥原親雲上」と記載されている。家譜の実見で検討したい。
※.真嘉戸(カマト=後にスミ、1853~1943年卒)。夫は山陽氏10世瀬名波仁也長政(童名:真牛、1854~92年卒)。:(392).19―⑧―○30『山陽氏8世長祥小宗』(31):養父が錦芳氏大浜仁也用方:実父は当島筆者(1852年来島、1853年帰任)の首里駱氏森永筑登之親雲上春綱の娘。:○ヘ.琉球王国の役人たちの娘(41)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「2666、駱氏春胤 森永親雲上」と記載されている。家譜実見で首里駱氏森永筑登之親雲上春綱との関係を確認したい。
(419).85―『梁保姓大宗得禎』(1)、梁保姓大宗真志喜得禎(1854年生まれ~)。:父は唐人送届方・富山通事、那覇久米村潔氏嫡子真志喜親雲上得功。母は大浜村住民の百姓黒島筑登之の娘、蒲戸。:ヘ.琉球王国の役人たちの子孫(152)
『梁保姓大宗得禎』家譜が未確認のため、喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」には「梁保氏(真志喜家)―1世(大宗)得禎→2世得喜→3世得吏。父ハ那覇久米村潔氏嫡子真志喜親雲上得功デ1853年異国船ガ八重山ニ漂着シタノデ之レガ検視処置ノタメ王命ニヨリ八重山ヘ来島。其時ニ大浜村黒島筑登之ノ女蒲戸ヲ妾トシテ得禎ヲ生ム」と記載されている。
※.女、眞加登(1854年生まれ~)。養父が毛裔氏10世大筆者・池城筑登之安暢(童名:石戸能、1810~54年卒)。:(56).10―①『毛裔氏3世安核小宗』(2):実父は首里向氏読谷山里之子親雲上朝睦。当島在番渡海之時出産。母は御大川村住民百姓で通事屋の山戸・妹、加那志。:○ヘ.琉球王国の役人(在番)たちの娘(42)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「向氏 讀谷山親雲上―34、元祖尚和讀谷山王子朝憲支流四子向大燕讀谷山里之子親雲上朝翼。34、元祖尚和讀谷山王子朝憲支流三子向大勲讀谷山里之子親雲上朝令」家譜の実見でどの支流なのかを確認したい。
※.女、真加戸(1855年生まれ~)。養父が李保氏5世波照間首里大屋子喜與(童名:真蒲戸、1805年生まれ~)。:(122).43―『李保姓大宗喜時』(1):実父は王府・首里晏氏吉濱筑登之親雲上憲従、当島御使者為附醫者渡海之時(1853年来島~1854年帰任)、母大浜村住の赤頭慶田城仁也の女子:○ヘ.琉球王国の役人(醫者)たちの娘(43)
※.真蒲戸(1855年生まれ~)。養父が李保氏5世波照間首里大屋子喜與(童名:真蒲戸、1805年生まれ~)。:(122).43―『李保姓大宗喜時』(1):実父は王府・首里晏氏吉濱筑登之親雲上憲従、当島御使者為附醫者渡海之時、母大浜村住民百姓の赤頭慶田城仁也の娘。久屋真との出生双子姉妹。:○ヘ.琉球王国の役人(醫者)たちの娘(44)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「晏氏 吉濱親雲上―890、大宗晏氏孟徳嶋袋親雲上憲亮」と記載されている。家譜の実見で首里晏氏吉濱筑登之親雲上憲従の関係を確認したい。
※.加那志(1857年生まれ~)。養父が東明氏12世波照間首里大屋子政傳(童名:真山戸、1838年生まれ~)。:実父首里章氏上間里之子親方親雲上正承、母は登野城村居住の百姓・宮城屋の宮城筑登之の娘で孫・真牛:(412).79―『東明姓系図家譜12世政傳小宗』:○ヘ.琉球王国の役人たちの娘(45)
(420).86―『向栄姓大宗朝寛』、向栄姓大宗天久朝寛(1861年生まれ~)。父は検見使者(1860年来島して1862年に帰国した)首里向氏8世天久親雲上朝標と大浜村住民の黒島筑登之の娘、母の蒲戸との出生息子:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(153)
『向栄姓大宗朝寛』家譜が未確認のため、喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」には「向栄氏(天久家)―1世(大宗)朝寛→2世朝昌→3世朝吉。父ハ首里向氏八世天久親雲上朝標デアル氏ハ1860年検見御使者トシテ八重山ヘ来島ノ時大浜村黒島筑登之ノ女蒲戸ヲ妾トシテ朝寛ヲ生ム」と記載されている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「向氏 天久親雲上―483、元祖名護王子朝元支流四男向承基天久親方朝榮」と記載されている。家譜の実見で確認したい。
※.女・思戸金(1861年生まれ~)。:養父が錦芳氏12世宮良親雲上用議(童名:松兼、1806~72年卒)。:実父の首里向氏浦添里之子親雲上朝睦が1860年に在番官で来島、1862年帰任。平得村住の西表屋・浦戸の妹・於那比戸を娶りその娘:(404).3―①―⑲『錦芳氏11世用議小宗』(20):○ヘ.琉球王国の役人(在番)たちの娘(46)
※.女、真鶴(1861年生まれ~)。夫の文林氏11世大浜仁也方暉(童名:樽兼、1848年生まれ~)の継室。:(12).11―『伯言姓大宗政通』(1):養父が毛裔氏10世大筆者・池城筑登之安暢(童名:石戸能、1810~54年卒)。:(56).10―①『毛裔氏3世安核小宗』(2):実父は首里向氏読谷山里之子親雲上(渡慶次親雲上)朝睦。王府役渡唐之洋中途逢風本島漂至之時、母真加登同腹(大川村住民百姓通事屋の山戸・妹、加那志)。:○ヘ.琉球王国の役人(在番)たちの娘(47)
※.松氏5世紀整(童名:思亀、唐名:松向榮、1863年生まれ~)。父は泊・松氏4世紀周(童名:樽金、唐名:松懐亮、1829年生まれ~)。母は宮良村の住民の百姓稲福筑登之の娘、麻和津。:○ヘ.球王国の役人たちの子男[15]、嗣子[9] 「松姓家譜 新参2世金城筑登之紀雅(原本)仲地家」『那覇市史 資料篇第1卷8家譜資料四』(那覇市企画部市史編集室/1983年)には「嗣子・紀整、実母八重山島宮良村二番與頭波武稱屋之福盛筑登之女麻和津」と記載されている。
※.松氏5世紀愼(童名:思亀、唐名:松永輝、1864年生まれ~)。父は泊・松氏4世紀能(童名:眞蒲戸、唐名:松懐圭、1831年ま生れ~)。母は大川村の住民で西盛屋・金の妹、加那。:○ヘ.球王国の役人たちの子男[16]、嗣子[10] 「松姓家譜支流 新参2世金城筑登之紀雅(原本) 仲地家」『那覇市史 資料篇第1卷8家譜資料四』(那覇市企画部市史編集室/1983年)には「嗣子・紀愼、母八重山島大川村七番與頭花城親雲上與内西盛屋之金妹加那」と記載されている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「松氏 仲地親雲上―1455、元祖松天培金城元順紀喜(童名:思五郎、1716~82年卒)支流二世松開芳金城筑登之紀雅(童名:亀、1755~85年卒)。」と記載されている。( )筆者が記入。
※.女子・鍋(1864年生まれ~)。夫が毛裔氏大川与人安英(童名・生寿不明)。養父が山陽氏8世伊原間与人長建(童名:鶴千代、1814~86年卒)。:実父の首里毛氏嵩原里之子親雲上安彜が1863年に在番筆者で来島、1866年帰任。大浜村住民で黒島屋の黒島筑登之の妹・此佐との娘:(386).19―③―⑲―○28『山陽氏7世長顯小宗』(29):○ヘ.琉球王国の役人(在番)たちの娘(48)
※.男子・樽(1865年生まれ~)。:父は譜代5世漢那憲快(童名:思仁王:唐名:昴端麟、1837年生まれ~)、母は新川村住民で不久利の妹、伊津恵。○ヘ.球王国の役人たちの子男[17] 「昴姓家譜―新参1世山田筑登之親雲上憲英(原本) 安慶田家」『那覇市史 資料篇第1卷8家譜資料四-那覇・泊系』(那覇市企画部市史編集室/1983年)には「譜代5世憲快。童名:思仁王:唐名:昴端麟。行一(長男)。道光十七(1837)年丁酉三月遡日生。(略)男子・樽。母八重山島新川村十一番與頭波座眞目差黒島尓也與合東屋眞母利屋之男不久利妹伊津恵。同冶四(1865)年乙丑二月十一日生」と記載されている。また、『石垣市史―八重山史料集3 豊川家文書Ⅱ』(編集:石垣市史編集委員会室/発行:石垣市/1997年)の「四三 地籍簿」の1908年には字新川に「漢那憲則」と書かれている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「新参昴氏 安慶田親雲上―2447、新参大宗昴顯親山田筑登之親雲上憲英(童名:真三良、1713~84年卒)」と記載されている。(  )筆者が記入。
(421).87―『馬姓大宗良定』(1)、馬姓大宗翁長良定(1867年生まれ~)。:父は1866年検見使者(首里、馬氏)翁長親雲上良暢が来島、その子息。母は宮城カナシ。:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(154)
『馬姓大宗良定』家譜が未確認のため、喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」には「馬氏(翁長家)―1世(大宗)良定→2世良整→3世良樹。父ハ首里馬氏翁長親雲上良暢氏デ1866年検見御使者トシテ来島ノ時ニ宮城カナシヲ妾トシテ良定ヲ生ム」と記載されている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「馬氏 翁長親雲上―1232、元祖調元幸地親方良昌六世翁長親方良平支流四男馬承禧翁長親雲上良典」。「馬氏 翁長親雲上―1233、元祖馬調元幸地親方良昌七世翁長親雲上良知支流二子馬鞍綏定翁長里之子良淑」。「馬氏 翁長親雲上―1234、元祖馬調元幸地親方良昌六世翁長親方良平支流二子馬承美翁長親雲上良寛」。と書かれている。首里馬氏翁長親雲上良暢氏がどの支流なのか、これらの支流の家譜の実見で検討したい。
(422).88―『薛良姓大宗賀意』(1)、薛良姓大宗比嘉賀意(1867年生まれ~)。:父は(那覇、薛氏11世比嘉筑登之親雲上賀救(童名:眞市、唐名:薛錦和、1814年生まれ~)が在番筆者として1866年来島し、1868年に帰国途中に浙江に漂流、1869年帰国。八重山在番として在勤中の息子:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(155)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「薛氏 比嘉親雲上―2361、大宗明道江洌親雲上賀章(童名:賀瑠目、唐名:明道、月日不詳」と記載されている。( )筆者が記入。
※.女・真牛(1871年生まれ~)。:養父が松茂氏10世崎枝首里大屋子當行(童名:保久利、1835~1909年卒)。:(381).17―④―⑯『松茂氏8世當剛小宗』(17):実父は王府の泊村柳氏又吉筑登之親雲上康明、当島在番筆者(1870年来島、1972年帰任)。母が大浜村住民の下野屋・黒島筑登之の娘、於那比戸との出生女:○ヘ.琉球王国の役人(在番)たちの娘(49)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「柳氏 又吉親雲上―1394、元祖摩文仁?親雲上康長、五世又吉康峯支流三子柳大用又吉康博」と記載されている。後日、家譜実見で王府・泊村柳氏又吉筑登之親雲上康明との関係を検討したい。
(423).89―『馬姓系大宗良昻』(1)、馬姓系大宗仲吉良昻(1876年生まれ~)。:1874年に検見・御使者の首里馬氏仲吉里之子親雲上良平が来島して1876年に帰国した。滞在中に登川オナリとの出生子:ヘ.琉球王国の役人たちとその子孫(156)
『馬姓系大宗良昻』家譜が未確認のため、喜舎場永珣『八重山歴史』(1954年)の「3 姓氏一覧」には「馬氏(仲吉家)―1世(大宗)良昻→2世良整。父ハ首里馬氏仲吉里之子親雲上良平氏デ1874年剣見御使者トシテ来島ノ時ニ登川オナリ妾トシテ良昻ヲ生ム」と記載されている。
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「馬氏 仲吉親雲上―1670、元祖馬良詮大浦添親方良憲八世板良敷親雲上良元支流二子超?名嘉地親雲上良實」と記載されている。後日、家譜実見で王府・首里馬氏仲吉里之子親雲上良平との関係を検討したい。
※.女、思戸(1876年生まれ~)、養父が松茂氏10世崎枝首里大屋子當行(童名:保久利、1835~1909年卒)。:(381).17―④―⑯『松茂氏8世當剛小宗』(17):実父は王府・首里麻氏長濱筑登之親雲上真雄、1875年検見官相附在島之時、母が大浜村居住の下野屋・黒島筑登之娘、於那比戸との出生娘:○ヘ.琉球王国の役人たちの娘(50)
『氏集 首里・那覇』(編集・発行:那覇市企画部市史編集室/1976年)には「麻氏 長濱親雲上―1171、元祖大城按司眞武12世長濱親雲上眞永支流二子麻永勢長濱親雲上眞元」と記載されている。家譜実見で王府の首里麻氏長濱筑登之親雲上真雄との関係を検討したい。
※.女、真鍋(1876年生まれ~)。:養父が松茂氏10世崎枝首里大屋子當行(童名:保久利、1835~1909年卒)。:(381).17―④―⑯『松茂氏8世當剛小宗』(17):実父は王府・首里麻氏長濱筑登之親雲上真雄、為検見官相附在島之時、母が大浜村居住・下野屋の黒島筑登之娘、於那比戸との出生娘。姉・思戸(1876年生まれ~)。妹・真鍋(1876年生まれ~)と双子姉妹。:○ヘ.琉球王国の役人(検見官)たちの娘(51)

Ⅷ.まとめ

上記の「4.八重山系(大宗 ・小宗)家譜の一覧」は、筆者の管見で現存する家譜の始祖・元祖を時系列的に記載し、1500~23年までの「八重山頭職時代」、1524年竹富島ウラカイジに「八重山蔵元」(政庁)創設から1897年廃庁までの八重山家譜(大宗・小宗)の累計である。今回筆者の報告には、現存する家譜に書かれた人物を時系列に検証し、同一一門(一族)名称の古い人の世代交代サイクルの20~30年などに遡り目安の人物年代を元祖・始祖・大宗と推察した。しかし、家譜での見落し誤りなどがたくさんあり、この機会に未確認家譜資料の提供や積極的な修正をお願いします。この1500年後の実在した人物などの報告実証資料によりこれからの科学的な八重山の歴史観が正しく構築できれば幸いである。今後家譜の見落しの挿入や家譜の新実見などで家譜(大宗・小宗)の累計が若干増える可能性はある。
筆者の管見調査で現在「八重山蔵元」の最後の家譜は、(423).89―『馬姓系大宗良昻』(1)である。この家譜の馬姓系大宗仲吉良昻は1874年、父の検見御使者の首里馬氏仲吉里之子親雲上良平が来島して1876年に帰国した。八重山滞在中に母・登川オナリとの出生子である。
現在、八重山での大宗 ・小宗含めて家譜の累計は423冊(大宗89冊・小宗334冊)である。

(1) .1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」で琉球王国に忠誠を誓った石垣島出自のイ.長田大翁主(ナータウフーシュ)、ロ.那礼当(ナレイトウ、生不詳~1500年卒)、ハ.仲間満慶山(ナカマミツケイマ、生不伝~1500年卒)。波照間島出自のニ.明宇底獅子嘉殿(ミウスクシシカドゥン、生不明~1500年卒)などの子孫たちの家譜(大宗・小宗)の冊数は下記の通りである。
イ.長田大翁主(ナータウフーシュ、長栄姓大宗信保=童名:真與蒲、生寿不伝)の(1)=家譜が最初の1冊目.1(大宗番号)―長栄姓の子孫たちの家譜総累計(大宗・小宗)が28冊(7%)である。
ロ.那礼当(ナレイトウ、生不詳~1500年卒)の大宗は五代目の(23)=家譜は23冊.19(大宗時系列番号)―山陽姓大宗長光(童名:祖良廣、1584~1661年)である。大宗と小宗(分家)した子孫たちの山陽姓一門総家譜累計は32冊目(8%)となる。
ハ.仲間満慶山(ナカマミツケイマ、生不伝~1500年卒)の子息・8人兄弟首里大屋子の子孫たちの総家譜(大宗・小宗)累計が100冊(24%)である。うち、最初の(2)=家譜は2冊.2(大宗時系列番号)―嘉善姓一門総家譜が35冊、(4).4―有若姓は5冊、(5).5―成功姓が2冊、(7).6―憲章姓は36冊、(17).15―戴長姓が4冊、(31).24―文珪姓一門は11冊、(35).25―建昌姓・(36).26―守恒姓・(39).28―永緩姓・(47).31―永茂姓らの各一門が1冊ずつ、(52).33―益茂姓一門が3冊である。仲間満慶山の8人首里大屋子の大宗の総家譜累計が、11冊(12%)、また小宗家譜の総累計89冊(27%)となっている。
ニ.明宇底獅子嘉殿(ミウスクシシカドゥン、生不明~1500年卒)の子息3人兄弟与人たちの子孫たちの総家譜(大宗・小宗)が77冊(18%)である。うち(8)=総家譜の時系列に8冊.7(大宗の時系列番号)―大史姓一門が16冊、(12).11―文林姓は6冊、(13).12―長興姓が18冊、(14).13―林松姓・(15).14―忠温姓・(19).16―忠順姓らの各一門は1冊ずつ、(20).17―松茂姓が17冊、(21).18―徳容姓は3冊、(25).20―公孫姓・(26).21―順栄姓・(28).23―公治姓らの各一門(門中)が1冊ずつ、(38).27―順天姓は8冊、(41).30―登梯姓・(129).45―恵林姓・(130).46―松林姓などの各一門が各1冊ずつ)である。明宇底獅子嘉殿の子孫たちの大宗家譜の総累計15冊(17%)、小宗家譜の総累計62冊(19%)となっている。
(2).1522年与那国島「鬼虎征伐」が起こり、当主・宮古の忠導氏正統仲宗根豊見親玄雅から依頼され、琉球王国へ忠誠を誓って参戦した西表島出自のホ.慶来慶田城(ケライケダグスク、錦芳姓大宗用緒・童名:真茂能、生寿倶不伝)の(3)=時系列家譜が3冊.3が大宗たちの時系列番号。錦芳姓家譜が21冊(5%)である。
※.『錦芳姓大宗家譜』に「尚真王世代嘉靖年間(1522~26年)」に父用緒が「西表首里大屋子」に任、嫡子の用庶は「与那国与人」任と書かれていることから1522年与那国島「鬼虎征伐」に参戦したと推察した。
(3). ト.1611年ころに薩摩藩の進言により系持ちになった字大浜の崎原村出自の(40)が時系列家譜の40冊.29は大宗時系列番号。岳章姓大宗致崇の一門総家譜が8冊(2%)である。
また、リ.1721年に初代・大阿母(1502年任)多田屋遠那利(宇那利、生寿不明)の勲功陳情により系持ちになった平得村出自の(226)=総家譜が226冊.52(大宗番号)―多田姓の子孫たちが1冊ある。
父が八重山出自の大宗系持ちたちの総家譜累計は30冊(34%)、大宗・小宗家譜の総累計267冊(63%)となっている。
(4). ヘ.琉球王国の役人たち(使者、漂流者、役人、在番、流刑者、その他)と子孫たちは下記の通りである。
父が琉球王国の沖縄本島出身(役人・その他)の子息・娘たちは計:126件(人)である。そのうち八重山出自の大宗となった子息は58人、大宗家譜は58冊。また娘たちが51人、嗣子(養子)は10人、不明が7人である。
現在、筆者が現存する家譜から元祖・始祖の八重山外出自者家譜を挙げると上官姓・伯言姓らの大宗から始まり、ヘ.琉球王国の役人たちの子孫の大宗総累計が58冊(65%)、家譜(大宗・小宗)総累計156冊(37%)となっている。今後不明者の家譜の実見や見落としなどがあり、若干増えると思われる。
(9)が家譜の時系列の9冊.8は時系列大宗の家譜番号―上官姓総家譜累計が32冊、(10).9―伯言姓は8冊、(11).10―毛裔姓が18冊、(27).22―蔡林姓は3冊、(51).32―梅公姓が36冊である。
(58).34―元長姓、(67).35―文明姓、(72).36―朝勧姓、(76).37―毛孫姓、(77).38―符正姓、(78).39―毛林姓、(95).40―青白姓、(111).41―陽信姓、(112).42―仲容姓、(122).43―李保姓、(126).44―葉茂姓、(145).47―季順姓、(167).48―麻武姓らの各一門(門中)が1冊ずつである。(177).49―明昭姓は2冊である。(183).50―孝祐氏、(213).51―重喜姓、(234).53―麻支姓、(267).54―雍長姓、(277).55―季林姓らの各一門は1冊ずつである。(291).56―葛孫姓が3冊、(300).57―夏林姓が4冊である。(304).58―趙和姓・(308).59―梅榮姓、(311).60―米得姓、(317).61―向倫姓、(320).62―季山姓、(323). 63―慎公姓、(338).64―孟功姓、(339).65―經林姓、(360).66―毛麟姓、(362).67―麻枝姓、(374).68―楊秀姓、(382).69―向道姓、(383).70―豊有姓、(388).71―英文姓、(396). 72―倪榮姓、(397).73―扶佐姓、(401).74―向仁姓、(403).75―向長姓、(406).76―向姓、(409).77―胡福姓、(411).78―易廣姓、(412).79―東明姓、(414).80―向明姓、(415).81―易労姓、(416).82―松封姓、(417).83―容康姓、(418).84―浩善姓、(419).85―梁保姓、(420).86―向栄姓、(421).87―馬姓、(422).88―薛良姓、(423)=家譜時系列総累計.89(大宗時系列総累計番号)―馬姓系らの各一門は1冊ずつとなっている。

17世紀前葉ころの大部分の大宗出生が不詳、不伝、不可考と書かれている。平均の世代交代は20~30年、20才前後で長男・長女が生まれ、30~50才ころに役職に就き活躍したと仮定して4つに分類した。
この4つの分類に従って大宗出自人物の時系列的に古い年代の方から順序に下記のような方法で記載した。大宗家譜番号-『家譜名』:名乗名(童名:生年~卒年):役職名(役職任か、または勤務期間)、大宗の不明者については名乗名の古い方を(大宗)として仮記入し*コメントした。今後の研究課題とした。 また、現在不明家譜の発見により、共有できる研究者により積極的な修正をお願いしたい。

 

 

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