Ⅱー4.中世のスク時代の船着場(港)説に対する疑問

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Ⅰ.はじめに 
Ⅱ.名蔵シタダル海底遺跡に関する調査結果や関係論文など(その1)
Ⅱ.名蔵シタダル海底遺跡に関する調査結果や関係論文など(その2)
Ⅲ.名蔵シタダル海底遺跡における中国製の貿易陶磁の散布状況
Ⅳ.中世のスク時代の船着場(港)疑問


Ⅳ.中世のスク時代の船着場(港)説に対する疑問

沖縄石垣島水中発掘調査団(茂在寅男団長)が名蔵湾シタダル浜の前方に二列の大きなサンゴ石灰岩を組み合わせた石積みの遺構を中世のスク時代の船着場(港)の遺構ではないかと1985年に発表した内容には疑問がある。それは以下の理由による。
中世のスク時代の港(船着場)とするならば、飲料水補給のための流水や湧水が豊富になければならない。しかしシタダル岩山には岩と岩との間から滴る水を溜めた水があるだけである。この溜め水は一汲みするとすぐ無くなってしまうほどであり、飲料水の補給は全くできない。また、西向きで潮流は早く、北から風をまともに受け、冬期は港に不向きである。さらに、シタダル浜一帯が港であれば、ここを拠点として荷の積み出しが行われたり、休憩をとったり、多くの人々が出入りをするので、港一帯には食料残滓の貝殻、獣魚骨や地元の土器片などが多く発見されるはずである。また、港の近くや後背地には消費地である大規模なスク時代の中世集落跡が必ずあるはずである。 例えば、石垣島の東海岸の大浜海岸(ガヤシキパマ、アーヌパマ)の後背地としてフルスト原遺跡やウフスク村遺跡などがある。 また、 宮良海岸(ムニンヤーパマ)と宮良下ヌ屋敷(シィムヌカク)遺跡や小波本(クバントゥ)遺跡との関係。 さらに、北海岸の川平湾奥の海岸(ハコーザキィパマ)と後方の仲筋貝塚との関係がある。名蔵シタダル海底遺跡からは、食糧残滓の貝殻、獣魚骨や地元の土器片や近接地に中世の大規模な集落跡などは全く発見されていない。しかし、名蔵シタダル海底遺跡の東南1km程の地に弓の名人であり剛勇のフサキ(富崎)ガバネーが居住したといわれるミナヌスクムルという小高い森がある。しかしここからは今の所、包含層は確認されていない。またミナヌスクムルの西にミンナ森と称される所がある。一説には、ここがフサキガバネーの居住地と言われている。ミンナ森でも青磁、南蛮が数点得られたのみである。生活に関係する土器を伴う遺跡としては、シタダルの東北1kmの地点にクードー貝塚がある。クードー貝塚は規模も小さく、距離的な点、遺物の比較からして、シタダルと直接関係するかは疑問である。また、フサキガバネーにまつわる伝承は幾つか見られる。フサキガバネーが名蔵湾を航行する船を一矢で打ち沈める名人であったとの伝承もある。この伝承は、貿易船が名蔵湾を航行したことを示しているが、シタダルが港であるということには関連付けられない。故に、名蔵シタダル海底遺跡は中世のスク時代の船着場(港)ではなく、従って文化の玄関口でもない。
それではこの港と誤認された石積み遺構はいつ、 誰が造ったのかが問題となる。 それには以下の地元古老たちからの1985年以前での聞き書きがすべてを語ってくれていると思う。
字新川在住の宮里亀吉氏(85才)や字川平在住の仲野源一氏(83才)らは御木本真珠養殖場で働き真珠養殖に長く携わっていて「大正3(1914)年、5月ごろに名蔵湾の観音崎の北側で真珠の養殖をしたが、風のわざわい(台風など)や魚介類などによる被害が大きくなったので2~3年後に崎枝へ移り、そして川平湾に移っていった」と、話している。
また、字新川在住の漁民の高良勇吉氏(56才)は「1960年ころまではエークを漕ぎながら漁撈をしていてシタダル浜は漁民の一時休憩する場所でもあった。 シタダル浜の付近では、ボラを捕るための刺し網をかけたり、かつおの餌をとったりしていた。漁民の先輩たちからは、昔シタダル浜一帯で真珠を作っていたので、この一帯を通称ヒンクンヤー(真珠家)と呼んでいたのを聞いた。沖のクソタレイシグヮ(岩)から板干瀬に沿ってサバニ(船)が往来できるように施されていたし、シタダル岩山の南側のアダンの生い茂ったところにマーギーラ(シャコガイ)が山のように積まれていた。真珠の養殖と関係があるかどうかは専門家でないからなんとも言えないが、20年前には無くなっていた。 また、北側のクマダ浜の平坦地には電信屋の跡だといわれ、崎枝へ向かって海底ケーブル線があった」と述べている。 これらのことから、二列の組み合わせたサンゴ石灰岩の石積みの船着場遺構は、大正3年の御木本幸吉の真珠養殖場の船着場だったのである(牧野、1972)。
さらに決定的な証拠は以下の資料に寄ろう。1987年3月26日から4月12日まで 「石垣市立八重山博物館」で『絵で偲ぶ大田正議の和が島展』が開かれた。展示画のなかに名蔵湾にかってあったミキモト真珠養殖場の全景画あり、その説明書きに「大正3年に名蔵湾クードゥ電信屋の南のシタダル近くに石積みの小湾を築き養殖場とした」と、記されていた。名蔵湾のシタダル浜にある船着場の二列のサンゴ石灰岩の石積み遺構は大正3(1914)年につくられた御木本真珠養殖場の跡であった。
[参考文献]
・青山学院大学調査団・代表三上次男、田村晃一『沖縄・石垣島─ヤマバレ―遺跡発掘調査概報』1977
・青山学院大学調査団・代表三上次男、田村晃一『沖縄・石垣島─ヤマバレ―遺跡第2次発掘調査概報』1980
・青山学院大学調査団・代表三上次男、田村晃一『沖縄・西表島─与那良遺跡発掘調査概報』1982
・青山学院大学調査団・代表三上次男、田村晃一「沖縄県八重山郡竹富町─西表・成屋遺跡発掘調査概報」『青 山史学─第9号』1987
・石垣市総務部市史編集室『参遣状抜書(上巻)』石垣市史叢書8、1995
・石垣市総務部市史編集室『八重山島年来記』石垣市史叢書13、石垣市、1999
・伊仙町教育委員会『カムィヤキ古窯跡群Ⅱ─ため池等整備事業(木之又地区)に伴う発掘調査─5』1985
・大濵永亘「八重山の先史時代を考える」『石垣市史のひろば─第八号』1985 石垣市総務部市史編集室
・大濵永亘「落穂 スク時代」『琉球新報』1994年8月19日
・大濵永亘「名蔵シタダル遺跡について」『南島考古』No.14 1994 沖縄考古学会
・大濵永亘『八重山の考古学』1999 先島文化研究所、自費出版
・大濵永亘『オヤケアカハチ・ホンカワラの乱と山陽姓一門の人々』2006 先島文化研究所
・大濵永亘「八重山諸島の交易-スク文化期を中心に」谷川健一編『日琉交易の黎明─ヤマトからの衝撃』 2008 森話社
・大濵永亘・関口広次・大濵永寛・谷川章雄『沖縄石垣島 名蔵シタダル海底遺跡共同研究報告書―大濵永亘氏調査収集資料を中心に―』(先島文化研究所/2009年3月刊)
・沖縄県立博物館(編)『沖縄出土の中国陶磁(上)』1982 沖縄県立博物館
・岸本竹美「グスク時代及び近世出土の玉製品に関する考察」『紀要 沖縄埋文研究1』2003 沖縄県立埋 蔵文化財センター
・金城亀信ほか『首里城跡 京の内発掘調査報告書(1)』沖縄県文化財報告書第132集』1998 沖縄県教育委 員会
・国分直一「九 原史時代への推移―その背景をなした事情をめぐって」『南島先史時代の研究』1972 慶友社
・佐久間重男「明代の琉球と中国との関係―交易路を中心として」『明代史研究』第3号、1975年12月 明 代史研究会。
・高崎彰「李朝実録より見た15五世紀末の南西諸島・先島社会」『第10次沖縄八重山調査隊─与那国島調査 報告書』1971 早稲田大学アジア学会
・高宮廣衞「Ⅲ 古墳文化の地域特色─11 沖縄」『日本の考古学Ⅳ 古墳時代─上』1967 河出書房
・田中健夫「4 遣明船とバハン船」須藤利一編『船─ものと人間の文化史』1968 法政大学出版局
・仲筋貝塚発掘調査団・代表大濵永亘・関口広次・谷川章雄・中沢富士雄『沖縄・石垣島‐仲筋貝塚発掘調 査報告』1981 自費出版
・韓国文化広報部文化財管理局『新安海底遺物 資料Ⅰ』1983 同和出版公社
・牧野清「真珠養殖事業」『新八重山歴史』1972 自費出版
・三島格「海巴と螺殻―琉球と中国華南の交渉」『南島考古学―南島・大和および華南・台湾』1989第一書房
・森浩一「第6話の対話 宝貝と倭人」『海から知る考古学入門―古代人との対話』2004 角川書店
・森田勉「14~16世紀の白磁の分類と編年」『貿易陶磁研究』2 1982 日本貿易陶磁研究会
・森本朝子・田中克子「沖縄出土の貿易陶磁の問題点―中国粗製白磁とベトナム初期貿易陶磁」(グスク文 化を考える―世界遺産国際シンポジウム〈東アジアの城郭遺跡と比較して〉の記録』沖縄県今帰仁村教育 委員会編、2004 新人物往来社
・山里純一「Ⅲ 遣唐使と南島路」「Ⅳ 南島の貢物・交換物」『古代日本と南島の交流』1999 吉川弘文館・和田久徳・池谷望子・内田晶子・高瀬恭子『明実緑』の「琉球史料(二)─歴代宝案編集参考資料7」2003 (財)沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室

研究ノート02 Ⅳ.中世のスク時代の船着場(港)疑問
Ⅰ.はじめに 
Ⅱ.名蔵シタダル海底遺跡に関する調査結果や関係論文など(その1)
Ⅱ.名蔵シタダル海底遺跡に関する調査結果や関係論文など(その2)
Ⅲ.名蔵シタダル海底遺跡における中国製の貿易陶磁の散布状況
Ⅳ.中世のスク時代の船着場(港)疑問

 

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