Ⅱ-1.はじめに ノート2

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研究ノート02 名蔵シタダル海底遺跡の研究史

Ⅰ.はじめに

Ⅱ.名蔵シタダル海底遺跡に関する調査結果や関係論文など(その1)

Ⅱ.名蔵シタダル海底遺跡に関する調査結果や関係論文など(その2)

Ⅲ.名蔵シタダル海底遺跡における中国製の貿易陶磁の散布状況

Ⅳ.中世のスク時代の船着場(港)疑問


Ⅰ.はじめに

九州島の南端薩南半島から台湾まで、1,200kmにわたり弧状に連なり点在する島々を南島(南西諸島・琉球列島)と呼んでいる。この南島に点在する島々の中でも、北の大隅諸島から奄美諸島を経て沖縄諸島までは、一つの島から隣接する島が見えるために丸木舟などによる有視界渡海が可能である。ところが、沖縄島と宮古島の間は、約300km離れているため中間洋上において沖縄島や宮古島が見えなくなる。また、そこには水深1,000mの海溝があり宮古凹地と呼ばれている。そのためか、縄文・弥生式土器文化伝播の南限は、この沖縄諸島となっている。宮古諸島から先は八重山諸島、台湾、台湾の西には中国大陸、そして台湾の南はバシー海峡の島々を経てフィリピンのルソン島、東南アジア島嶼地域へと有視界渡海可能な間隔で島々が連なっているため島伝いの移動が比較的容易である。(大濵 2008)
この南島の最南端の宮古・八重山諸島は先島と呼ばれている。先島の先史時代は、奄美・沖縄諸島の先史文化との関連がなく、特異な物質文化が形成・展開したので先島文化圏と呼び(大濵 1999)、この先島文化圏は、文化内容の違いなどによって、大きく古い順に先史時代の「第一期」(滝口ほか 1960)赤色土器文化(大濵、2000)、「第二期」無土器文化(大濵、1975/2004)、原史時代の「第三期」スク文化(大濵 1985)(註1)の三つの時期に考古学編年されている(大濵、1999)。この先島の先史文化は、世界で稀に見る「第一期」の赤色土器文化から「第二期」の無土器文化へと変遷し、それは、異なる人間集団・民族の移動や交替によるものと考えられる。またその文化源流は、中国南部・台湾やフィリピンなどにあり、集団の移動や種族の交替により先島の先史文化が形成されたと考えられる。これは、先島が地理的に中国大陸と島々を結びつける位置にあったからであり、永い年月にわたって民族や文化の交流ルートの架橋として幾重の多様な南方的な先史文化を受容し、複雑な文化要素を内包することになったと考えられている(大濵 1999)。
八重山諸島の各文化のカーボンデイティング(放射性炭素年代測定法)などの結果による時代区分は、次の通りである。

「第一期」赤色土器文化(4,250~3,260年BP)
「第二期」無土器文化(2,200~940年BP)
「第三期」スク文化(11世紀~16世紀)
赤色土器文化と無土器文化の間には約1,000年間の断絶・空白がある。この年代懸隔(ミッシング・リンク=空白時代)を埋める遺跡や遺物はこれまでのところ見つかっていない。また、赤色土器文化や無土器文化がどれだけ古く遡るか(上限)、また、赤色土器文化がどこまで続くか(下限)などは不明である(大濵 1999)。
八重山諸島の外来文化の受容は、古く7世紀に遡り、その最初はやはり北方・九州からの影響であった。それは、遣唐使船などに見られる造船技術の発達にあり、大型・高度化した結果と思われる。その後、南島ブランド(南島産物)掛け軸の軸木や太刀の柄の材となる赤木(アカギ)、牛車の屋根に飾る材である檳榔(びろう=クバ)、儀礼用の杯、螺鈿(らでん)細工の素材具のヤコウガイなどの威信材を求めて南島の島々への往来が頻繁に行われた(山里 1999)。ところで、沖縄のグスク時代(11~16世紀)の遺跡から数多く発見される武器や武具は、八重山のスク文化期の遺跡からほとんど発見されていない。また、沖縄で広く見られる城郭・土塁・堀切などの防御的な施設も宮古・八重山にはない。ただ、スク文化の遺跡の立地場所(例えば石灰岩上)によっては屋敷の囲いの石垣がある。また、彼らの居住した場所から権力や富の象徴的な文物(例えば龍泉青磁の花瓶便や大型香炉あるいは元青花など)は出土せず、どのスク文化の遺跡からも画一的な生活用品(八重山では土鍋用の外耳土器、宮古は水運搬用の宮古式土器など)や数多くの中国製の食膳具・貯蔵具の貿易陶磁などが出土している(大濵 20069)。近世にみられたマラリヤの蔓延などもなかったと考えられる。それらのことが、誰もが頻繁に渡来して来た理由の一つであろう。ただし、スク文化の前期(11~14世紀)と後期(14世紀中葉~16世紀)では若干の相違が認められる。このスク文化と接触・交易をした集団には、九州海商や中国福建沿岸海商(大濵 1999 P143/佐久間 1975/和田ほか 2003)(註2)などが考えられる。
交易の萌芽(スク文化前期)の初期にあたる11~13世紀中葉ころの交易は、北からの南進した九州海商が主な担い手だったと考えられる。南島経営(佐藤 1970/国分 1972)により徳之島産のカムィヤキが南島一円で消費され、その流布とともに沖縄本島のグスク文化を受容した(高宮 1967)。ところで、スク文化期の遺跡群は、そのほとんどが海岸低地砂丘や海岸寄りの台地(洪積世や海岸段丘)に立地しているが、初期には内陸部での展開が認められる。すなわち12~13世紀以降の遺跡群は、粟・麦・稲作農耕の最適地となる2~3km内陸部のイシクムリィ(独立した石灰岩の山)上に立地している。これに並行して、生産具も石器から鉄器、煮沸具は焼石による石蒸焼き料理(Stone oven)やストーン・ボイリングから長崎産の滑石製石鍋や土鍋(外耳土器)、食膳具・貯蔵具は葉(クワズイモ、バショウ、クバ、ハマユウなど)や貝殻・竹筒・革袋から中国産の白磁・青磁・褐釉陶器、徳之島産のカムィヤキ、壺形土器へと大きく変化したと考えられる。さらに、石灰岩に立地する遺跡に限るが、屋敷の囲い野面石積み石垣などもこのころから開始されたと考えられる。
交易の旺盛(スク文化後期)の13世紀後半~14世紀ころからは、西からの中国福建沿岸海商らが、八重山島民らと接触・交易を開始し、八重山諸島を元私船の南島の北進交易ルートの一つの拠点として福建産粗製白磁碗(註3)、青磁、褐釉陶器(南蛮陶器=スビガミ)をもたらした。1368年、漢民族の国家「明」が興り、招撫政策に応じる諸国との冊封制度による朝貢・朝貢貿易(公貿易)が行われる。民間(私)貿易は、すべて禁止した。しかし、この明国の海禁政策が始まっても、中国福建沿岸海商らが私船のジャンク船に羅針盤を設置(田中 1968)し、宮古や八重山の島々に産出する交易物産(海産物など)を求めて回航てきたのである。従って、当時の遺跡は島々の周囲を取り巻く裾礁(リーフ)の割れ目(船の出入りに利用された)が一望できる台地一帯への立地が目立つ(大濵 2008)。
中国福建沿岸海商らが渡航した目的は、宮古や八重山の島々で豊富に産出する海産物の宝貝(海巴、スビガイ)、ヤコウガイ=夜光貝(螺殻、ヤフンガイ)、真珠貝、ナマコ(海参、イリク)、フカのひれ(魚翅)、ジュゴン(儒良、ザン)、タイマイ(玳琩、ベッコウガメ)や牛皮、苧麻衣(上布、グイフ)、芭蕉布、薬草などを求めたことと想像され(三島 1889/森 2004/高崎 1971)(註4)、その交易品の一つとして中国陶磁がもたされた。 宮古や八重山の島々が、中継地として私貿易の流通の拠点としてのネットワークで結ばれていたと想定する。
14世紀中葉~16世紀ころは、大量の中国の青磁・白磁などの陶磁器が宮古や八重山に持ち込まれた。また、後に染付け(青花、16~17世紀のもの)などをもたらされている。さらに民間の九州海商らが装飾具の勾玉(ガーラ玉)、丸玉、ガラス玉などの玉類を携帯え(岸本 2003)頻繁に来島した(註5)。それは、茶道の普及とともに武士や商人らが富や権力の象徴であり威信材として、また実用の器としても中国製の貿易陶磁などを求めたことによる。ここに宮古や八重山の島々を中継の拠点にして、北からの九州海商ら、そして西からの中国福建沿岸海商らとの私貿易が盛んに行われ、16世紀ころそのその頂点に達した時代といえよう。代表的な遺跡には、石垣島の北海岸の仲筋貝塚(14~16世紀ころ)、元桴海村遺跡(14~17世紀前半ころ)、西表島の東海岸の与那良村遺跡(14~17世紀中葉ころ)、西部の内離島の成屋村遺跡(14~18世紀中葉ころ)などがあげられる(中筋貝塚調査団  1981/青山学院大学調査団1977/1980/1982/ 1987)(註6)。なお現在までに、これらの遺跡からは徳之島産のカムィヤキ(11世紀~13世紀ころ)が一片も発見されていないことを付加しておく(伊仙町教委 1985)。
さて、名蔵シタダル海底遺跡は、石垣島の西海岸,名蔵湾の南島側一帯に位置する南のシタダル浜から北側のクマダ浜、クードー浜にかけての海岸から及び海底に広がる遺跡である。「シタダル」とは、岩と岩の間から水がしたたり落ちる地形の様子から名づけた地名である。かつて、この地で、御木本幸吉が真珠の養殖を大正3(1914)年5月に着手していた(牧野 1972)。それゆえ漁民はこの一帯をヒンクンヤー(真珠の家)とも呼んでいた。
この名蔵シタダル海底遺跡からは大量の中国製の貿易陶磁が一括して出土している。これらの大部分は、青磁碗や白磁小皿、褐釉陶器(南蛮陶器=スビガミ)などの破片である。他に中国の銭貨「開元通寶」(621年初鋳)や「洪武通寶」(1368年初鋳)なども採集されている。この遺跡の性格については、大別して「港(船着場)とする説」、「沈没船(難破船)とする説」、「台風などのため名蔵湾に避難した際に、荷がこぼれたとする説」の三つの説があった。また、「沈没船(難破船)とする説」でも沈没船(難破船)は、一艘ではなく二艘とする考え方を唱える研究者もいる。陶磁研究家関口廣次氏や著者などは、1978年まで当地を共同調査研究した結果から、沈没船で一艘とする説が妥当と考えている。
日本国内で名蔵シタダル海底遺跡のように一括大量の中国製の貿易陶磁が出土している例はなく、貿易陶磁研究のなかでも交易実態解明に注目されるべき遺跡であるが、意外にもここをとりあげた研究者は少ない。これまで名蔵シタダル海底遺跡と関わることがらや論文、新聞上での記事などについて狭学でそしりをまぬがれないが、筆者が知る範囲の資料を時系列に網羅して下記に示すこととする。
(註1)
八重山諸島の石垣島、西表島、竹富島、小浜島、黒島、新城島(下地島)、波照間島で、地名の「○○○スク」・語彙が変化して「〇〇〇シュク」と呼ばれるところに遺跡が多く確認できるのでスク文化と提唱した(大濵、1985)。
(註2)
『太祖実録』(明実録)の景泰3(1452)年6月辛已(20日)の条に海禁政策下にあっても福建沿岸の居民(泉州・福州出身など)が母国で物資を購入し琉球王国に赴き私(密)貿易をしていることが記載されていることから、中国福建沿岸海商という名前に訂正した(大濵、1999、P143/佐久間、1975/和田ほか、2003)。
(註3)
森本朝子・田中克子「沖縄出土の貿易陶磁の問題点―中国粗製白磁とベトナム初期貿易陶磁」(グスク文化を考える―世界遺産国際シンポジウム〈東アジアの城郭遺跡と比較して〉の記録』沖縄県今帰仁村教育委員会編、2004 新人物往来社)のなかに、福建産粗製白磁という名称で説明をしている。
(註4)
琉球王国の外交文書『歴代宝案』によると、1434年、琉球王国は貢納品として550万個の海巴(宝貝)、また螺殻(夜光貝)、牛皮、苧麻衣(上布)などを明国へ献上している。また、1477年、朝鮮済州島の船が嵐で難破し、三人が漂流し与那国島の島民に救助され、西表島、波照間島、新城島、黒島、多良間島、伊良部島、宮古島へと順々に転送され帰国している。彼らの見聞記によると、高い島の与那国島や西表島では粟・稲作で、低い島でも粟・黍(きび)・牟麦(おおむぎ)などを栽培している。また、各島々では、牛を飼育し、苧布などを着けている。おそらく民間レベル交易で八重山に無尽蔵にある海巴(宝貝)や螺殻、牛皮、苧麻衣(上布)などの交易産物を求めて中国福建沿岸海商らは来島したと思われる(三島、1989/森、2004/高崎、1971)。
(註5)
近世になって、八重山蔵元が勾玉を禁止している。『参遣状抜書(上巻)』(石垣市史叢書8、石垣市総務部市史編集室1995)の1704年、項の要約には「1、諸村で身分の上下にかかわらず女性が身につける玉を14、5個につき代米14、5俵で買い取り、むだに飾りたてるので、王府へ訴えて禁止した。しかし近年になってひそかに用いる者もあるとうわさになっているので、改めて禁止する。もし違反する者がいたら、遠慮なく申しでること」と記されている。
(註6)
八重山蔵元文書の『八重山島年来記』(石垣市史叢書13、石垣市総務部市史編集室1999)には、1619年の項に桴海村、1629年の項に仲筋村が記されている。この仲筋村の元村が仲筋貝塚である。仲筋貝塚からは17~19世紀ころの文物が一点も発見されていない。1651年項にも与那良村が記され、1750年1750の項には成屋村などの集落名が記載されている。


研究ノート02 名蔵シタダル海底遺跡の研究史

Ⅰ.はじめに
Ⅱ.名蔵シタダル海底遺跡に関する調査結果や関係論文など(その1)
Ⅱ.名蔵シタダル海底遺跡に関する調査結果や関係論文など(その2)
Ⅲ.名蔵シタダル海底遺跡における中国製の貿易陶磁の散布状況
Ⅳ.中世のスク時代の船着場(港)疑問

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