Ⅰ-3-2.スク文化前期の遺跡

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研究ノート01 八重山諸島のスク文化期における交易の展開史


2.スク文化前期の遺跡

以下、代表的な遺跡について触れる。
石垣島の北端、無土器文化終末期の平久保ジーバ川河口貝塚では、徳之島産のカムィヤキ3点、頭部欠の局部磨製石斧1点、敲石1点、土器小破片を数片採集した(大濵、1999、P105)。これまで海岸低地砂丘から採集された土器破片のほとんどは、小破片で形状不明、混和材として貝殻が混入している。このうちカムィヤキの3片は、古手の11世紀後半の第Ⅰ式に帰属する壺の口縁1片、碗の口縁1片、壺の胴部1片である。この遺跡一帯からほかの外来文物などが発見されないことから、11世紀後半に徳之島のカムィヤキなどを携えて来島した人々が、無土器時代の先住民と融和しつつ定住し、初めて土器技術を伝えたと推測される。とくに、石鍋模倣土器・滑石混入土器などの出土状況や形態・調整からは、土器技術にたけた人が土器を生産していた可能性が高い(大濵、2008)。
1978年に調査された船越貝塚では、スイジガイ製利器1点、磨製石斧22点、くぼみ石3点、敲石1点が出土している。併せて調査された隣接のナガタ原貝塚出土の土器のなかには、口縁部に粘土帯を垂直に貼り付けた縦耳の外耳把手1点が初めて得られた(沖縄県教委、1979b)。この縦耳の外耳把手は、沖縄本島のグスク時代においてその出土が見られることが指摘されているが、資料が増加していくなかでその外耳把手土器は沖縄本島の中部文化圏で石鍋模倣土器と呼ばれるものと縦耳の形状が共通しており、素地に赤粒や石英、滑石などが混入しているのが特徴である。中国製の玉縁白磁口縁碗と共伴している(北谷教委、2003)。また、ナガタ原貝塚出土の土器の多くは、多量の貝殻砕片を混入し稀に石英粒、赤粒(土器をつぶしたものか?)が混入するのが特徴とされている。筆者は本遺跡やその周辺から中国製の玉縁白磁口縁碗一点(大濵、1999、P139)や土器片、南側から数10片の土器片を採集している。その内の口縁部資料には、「く」の字に屈曲し、縦の刷毛目調整が認められるものや、逆「L」字状に折れるものなど特殊な口縁部が得られている。これはいわゆる北方の内地本土の並行の土師器と形態的に類似すると思われる。この土器に類似した土器片は、宮古島の無土器文化のアラフ遺跡第Ⅱ層からも2片出土している。この土器の放射性炭素年代測定法による測定結果は、土器に付着した煤から、「西暦836~878年」、炭化物からは「西暦1181~1224年」に遡るという(江上、2007)。
1983年、波照間島北西海岸の海岸低地砂丘に立地している無土器文化の大泊浜貝塚の調査では、第Ⅳ層から長崎県西彼杵半島産の滑石製石鍋、徳之島産のカムィヤキや鉄ノミ、さらには中国製の薄手の白磁端反碗、玉縁白磁口縁碗、褐釉陶器などが共伴して出土した(沖縄県教委、1986)。
また1997年、安里進、春成秀爾氏らによる大泊浜貝塚の調査では、第Ⅳ層より、土坑墓に埋葬された伏臥屈葬の女性1体と新生児1体が検出されている。埋葬された女性には、頭部に外耳土器を被せ、頭部・腰部にシャコガイが添えられていた。シャコガイを埋葬遺体に添える風習は、沖縄諸島の貝塚時代後期の埋葬習俗と共通する。また、土器片を頭部にかぶせることも沖縄諸島の貝塚時代後期の土器を被せた頭骨との関連を想起させると記述している(安里・春成、2001)。この副葬品の外耳土器は、胴部の外耳把手が耳の形状で横位に付けられるタイプの土器で、八重山のスク文化には普通に見られる土器である。しかし、スク文化初期の外耳把手は、口唇部に接しながら縦耳の長形状を呈しており、石鍋模倣土器とは異なっている。近年における八重山諸島での石垣市教育委員会文化課の発掘調査をふまえれば、14世紀から16世紀前半と考えられる。近接してすぐ後方の石灰岩海岸段丘上のブリブチ遺跡から外耳土器や中国製の福建産粗製白磁(註9)1点、徳之島産のカムィヤキ1点、土製小型鞴の羽口2点、鉄滓2点などを採集している(大濵、1992/1999、P220)。これらの遺跡との関連も視野に入れるべきであろう。
1977年、石垣島や西表島の海岸寄りの台地末端をくまなく踏査した。その結果、先史時代の赤色土器文化期の多くの石斧や土器などに混じって、スク文化前期と考えられる多くのカムィヤキや数片の中国製の貿易陶磁などを採集した。これらの遺跡群(石垣島の平地原遺跡・大田原遺跡・シーラ原遺跡、西表島の与那良原遺跡)には、食料残滓の貝殻などが見られないという共通性がある(註10)。これは浜辺で貝類などの貝肉だけを抜き身作業し、貝殻は浜辺に捨てて貝肉を食料として遺跡へ持ち込んだためと推察される(大濵、1999、P141・190/2008)。
石垣島の西部にある平地原遺跡からは、カムィヤキ10点(その内口縁1点)を採集した(大濵、1999、P141)。その口縁1点は古手の11世紀後半のものである。この遺跡からは、スク文化期のほかの文物が1点も発見されないことから、沖縄本島のグスク文化期のなかで徳之島産のカムィヤキが先行した時代(高宮、1967)と同様の展開があったのか検討も必要である。
また、喜界島の城久遺跡群の山田中西遺跡Ⅰ・山田中西遺跡Ⅱ(註11)・山田半田(喜界町教委、2006/2008 /2009)、奄美大島笠利町万屋泉川遺跡(名瀬市教委、2005)、沖縄本島の北谷城第七遺跡(北谷町教委、1985)・後兼久原遺跡(北谷町教委、2003/沖縄県埋文センター、2004)などから出土したものと類似の産地不明の本土産須恵器を、平地原遺跡の後方にある浦田原遺跡から1点(写真3、4)採集した(大濵、1999、P190)。この浦田原遺跡採集の須恵器は、壺またはカメなどの肩部片で、外面が細線平行叩きで灰黒色を呈し、内面は灰褐色を呈し、指頭によるナデ調整を行っている。この須恵器は、鹿児島県の万之瀬川中流域の中岳山麓須恵器古窯跡群のなかの獄山須恵器古窯跡第2支群出土の須恵器に酷似している(上村・坪根、1985)。この須恵器は中岳山麓古窯群の製品の可能性があり、今後胎土分析などを行いたいと思う(大濵、2008)。
石垣島南海岸の内陸部には、轟川、宮良川、名蔵川などの中流に注いでいる枝川がいくつもあり、その小川周辺は稲作農耕に最適な場所である。また、石灰岩地帯のために畑の耕土の深さは浅いが常に乾燥し、麦や粟の畑作農耕に好適な土地である。またその内陸部は、『八重山嶋由来記』(1705年作成)などに記載され、口碑伝承で各村の発祥地とされ、海岸から約2~3キkmにかけて石灰岩上や独立した岩山のイシクムリィ上に立地している。石底山(石城山)遺跡、ピーラ(平喜名)遺跡、平得アラスク村(伝アラスク村跡)遺跡、ウイスズ村(ウイヌスズ)遺跡、仲本村(伝仲本村遺跡群・平得仲本御嶽)遺跡、宇部御嶽(平得仲本御嶽)遺跡、ヤドゥムレー遺跡、ダンダ山遺跡、ウイズ遺跡などが連綿と点在している(註12)。(大濵、1999/沖縄県教委、1976/1978a/1979a/1985/1994a)。
ヤドゥムレー遺跡からは、徳之島産のカムィヤキ7点(内1点が口縁で古手の11世紀後半の第Ⅰ式)や福建産粗製白磁碗の底部2点、青磁碗2点、青磁口折口縁皿2点(内1点には外面上に蓮弁文)、褐釉陶器3点、土器も3点を採集した(大濵、1999、P184)。南側周辺のダンダ山遺跡からは煮沸具としての内地本土の土師器を模倣したと思われる口径約28cmで口縁部が「くの字型」の鍋、或いは鉢形を呈する土器(写真5)を採集した(大濵、2008/2009b)。
ペーフ山(桃里恩田)遺跡(竹原、1978/石垣市教委、1982)や平得の仲本村遺跡の石敷遺構からは炭化した米・麦が検出された(石垣市教委、1982/沖縄県教委、1976)。田畑遺構などはまだ発見されていないが、煮沸具としての「くの字型」土器などからこの一帯が肥沃な水田地帯であり、徳之島産のカムィヤキは種籾などを貯蔵する大切な容器として使われたことと推察される。西かわらや東かわらの兄弟が創建した宮良と白保両村の人々が最初に居住した地と伝承のある水嵩一帯の「セツコマ」がこのヤドゥムレー遺跡やダンダ山遺跡である(大濵、1999、P184)。四か村の発祥地といわれる石底山遺跡からも多くの土器に混じってカムィヤキの胴部一片や籾痕付土器破片が出土している(沖縄県教委、1978a/大濵、1999、P153・165)。また、平得アラスク村遺跡の野面積み石垣屋敷跡を地元の人々は「ブスヌヤーイシガキ(武士の家の石垣)」、または「ブスヌヤー(武士の家)」とも呼んでいる。一方、これらの遺跡からは、海が一望できない。これらのことから北からの渡来者によって粟・麦や稲作などの農耕が行われ、農耕社会に入ったことが推察できる。これらの遺跡群のほとんどは、1500年のオヤケアカハチ・ホンカワラの乱の前後に何らかの理由で居住地としての利用が放棄されており、集落がほかへ移った可能性がある(大濵、2008)。
石垣島の西海岸・シーラ原遺跡からは、徳之島産のカムィヤキ31点(その内口縁3点)、福建産粗製白磁碗の底部1点、青磁碗3点、青磁口折口縁皿1点、褐釉陶器5点、土器などを採集した(大濵、1999、P190)。カムィヤキの口縁は第Ⅰ式に属し11世紀後半の文物である。
また、西表島の東部・仲間第二貝塚からは、穿孔のある滑石製石鍋1点、カムィヤキ17点(その内2点が口縁で第Ⅰ式)、玉縁白磁口縁碗1点、グスク系土器や石垣島の船越貝塚から採集した土器に類似した土器1点などを採集(写真6)した(大濵、1999、P65)。ただし、このほかにスク文化期の外来文物となる中国製の白磁や青磁などは確認されていない。これに対し、沖縄本島のグスク文化期の遺跡からは、これらの外来文物も必ずセットで数多く出土している。
また、スク文化初期の各遺跡における外来文物の個別の出土状況をみると、長崎県彼杵半島産の滑石製石鍋や中国製の玉縁白磁口縁碗よりも、徳之島産のカムィヤキが数多く出土していることがわかる。したがって、南島の最南端八重山諸島では、カムィヤキの流通を担った人々によって、南島経営が行われたと考えられる(大濵、2008)。
竹富島西海岸の無土器文化終末期のカイジ浜貝塚からは、石鍋模倣土器が出土している(沖縄県教委、1994b)。また、北海岸の新里村遺跡から滑石製品や滑石混入土器が1点ずつ出土している(沖縄県教委、1990b)。新里村の西北岬からは、北に石垣島、西南に小浜島や西表島などの各島々や海を航行する船が一望できる。さらに対岸東前方の石垣島には、スク文化前期に繁栄したビロースク遺跡や滑石製石鍋片1点が出土した山原貝塚が立地しており(石垣市教委、1984)、両島に居住していた人々の頻繁な往来が想定できる(註13)。このように比較的大きな島に隣接した小さな島の積極的な利用は、約3300年前に東南アジアからオセアニアへの移住に成功し、土器や黒曜石の海上輸送もおこなっていたラピタ人の居住パターンにも見受けられる(Kirch、2000)。したがって時代や地域は異なるものの、新里村の立地環境を考慮すると、ビロースク遺跡がスク時代の初期に北から渡来した九州海商らの本拠地だとすると、新里村はその前進基地ではなかったかと推察できる。
石垣島の南海岸に位置するビロースク遺跡は、独立した石灰岩山のイシクムリィ上に立地し、かつては海が一望できた。この遺跡では、1981・82年に石垣市教育委員会によって発掘調査が行われた。調査の結果、主な遺構として円形状平地住居跡、台形状掘立柱建物遺構、長方形状平地住居跡、炉跡、便所のような遺構、石垣遺構、埋葬人骨、排水溝などが検出された。また、炭化した麦や米も検出されている。米作については炭化米1粒だけの検出なので断定できないが、炭化麦は30粒程度検出されているので麦作がかなり盛行したと推測されている。麦や米の穂摘み用具には、クロチョウガイ製貝包丁が利用されている。また、偶然に青磁口折口縁皿が1点、完品(写真7,8)で出土した。この皿は腰部から口縁部に向かって緩やかに立ち上がり、口縁が折れ平鍔となる。文様は外面に二本線の蓮弁文を施し、内底は圏線内には貼り付けにより双魚文を施している。ほかにも徳之島で生産された外来文物のカムィヤキ、中国製の白磁碗(その内、口禿碗1点・玉縁口縁碗3点・主に福建産粗製白磁碗)や青磁碗(内、劃花文碗・弦文帯碗・鎬蓮弁文碗・外反口縁碗・口折口縁皿)、褐釉陶器などが多く出土している(石垣市教委、1983)。
石垣島の山原貝塚(12~16世紀)は、1959年早稲田大学八重山学術調査団(滝口宏団長)によって発掘調査が行われ、石組遺構が検出された(滝口ほか、1960)。また、1982年から83年の両年度にわたり石垣市教育委員会によって発掘調査が行われている。調査の結果、石列遺構や溝状遺構が検出された。土器をはじめ石器四点(叩石2点・砥石2点)、滑石製石鍋1点、カムィヤキが128点、中国製の白磁碗62点(その内、口禿碗2点・玉縁口縁碗1点・福建産粗製白磁碗)、青磁碗222点(劃花文碗・弦文帯碗・鎬蓮弁文碗・雷文帯碗・外反口縁碗)、染付碗3点、褐釉陶器などの日常生活用具、ヤス状骨製品8点、鉄製品12点(刀子1点・角釘4点・鉄鍋7点)、装身具の玉類10点(勾玉3点・ガラス丸玉5点・小玉2点)、北宋銭貨四枚などが出土している(石垣市教委、1984)。山原貝塚の旺盛期年代はヒメジャコ貝の放射性炭素年代測定法で西暦1350(±100)年など14世紀中葉ころの年代が比定されている(ピアソンほか、1990)。九州海商らによる南島経営は、しっかりと根付いていたことがわかる(大濵、2008)。

(註6)
「外耳土器」の名づけ親であり沖縄考古学先駆者の鳥居龍蔵博士が1904年来島。川平貝塚(川平村字獅子森の遺跡)を初めて考古学的な発掘調査し、「八重山の遺跡に就いて」の論文の項で「土器は素焼であって、其色は埴色を呈し、質は余り堅くない。而して土器面にはひとつも模様の存することなく、全く無紋様である。且つ其形状を敢えて記すべき程の特質は認めないが、ただここに注目すべきは、土器の両端に耳型把手の付着されている事で、これは長方形の耳型把手が水平に土器の外部側面に付着され、其の耳型の先端は稍や円味を帯びて居る。この種の土器は未だ本邦の何処からも発見したことなく、これの発見されたのは実にこの遺跡を以て嗃矢とする。私はこの土器の有する耳は、よくこの土器のキャラクタースチツクの存する所を示すものであると思ふ。故に私はこれを殊更に呼ぶに、今ここに外耳土器(ソトミミドキ)なる名称を以てせんとするのである」と記載されている(鳥居、1905/1922)。

(註7)
筆者がこれまで八重山のスク時代の地表調査から採集した外来文物を整理したところカムィヤキ(徳之島産)の破片が多く出土していることがわかった。2007年10月20日、日本考古学協会主催の秋季大会への出席の折にカムィヤキを持参したところ、新里亮人氏よりこれらのカムィヤキのほとんどが、11世紀後半の古い年代の第Ⅰ式段階に帰属するとの指摘を受けた。
(註8)
2007年10月21日、日本考古学協会主催の秋季熊本大会への出席の折に、これまで採集したカムィヤキなどを持参した。その際、福岡市教育委員会埋文課専門委員の山崎純男氏より胴部の小破片のため断定はできないが高麗陶器の可能性があるというご指摘を受けた。
(註9)
森本朝子・田中克子2004「沖縄出土の貿易陶磁の問題点―中国粗製白磁とベトナム初期貿易陶磁―」『グスク文化を考える―世界遺産国際シンポジウム〈東アジアの城郭遺跡と比較して〉の記録』沖縄県今帰仁村教育委員会編、新人物往来社:p353~370のなかに、福建産粗製白磁という名称で説明をしている。
(註10)
これらの遺跡からは食料残滓が発見されないので、この外来文物はこれまで埋納品または埋葬品とし、一帯で祭祀と関わる遺跡だと思っていた。しかし、土器や年代の違う外来文物などの発見から定住したことがわかった。(大濵、1999、P65・141・190)
(註11)
『城久遺跡群・山田中西遺跡Ⅱ』(喜界町教委、2008)には、「須恵器は総数112点が出土している。産地不明のものがほとんどであるが、一部は金峰町中岳山麓古窯群の須恵器に類似していることが指摘されている。現段階では9世紀以降のものであると考えている。今後は胎土分析を通じて産地の特定を行うとともに、時期の確定を行うことが必要であり、課題である」と述べられている。


写真3
浦田原遺跡から出土した本土産須恵器の表

写真4
浦田原遺跡から出土した本土産須恵器の裏
(註12)
各遺跡の名称は、古記録(八重山蔵元文書など)に記載された集落名称や地もとで呼ばれている名称に統一し、報告書名は(  )で表記した。(平得公民館建設記念誌編集委員会、1978/竹原、1978)

写真5
ダンダ山遺跡から出土した土師器を模倣した土器

写真6
仲間第二貝塚から出土した滑石製石鍋(上左)、玉縁白磁口縁碗(上右)、カムィヤキ壺(下2点)
(註13)
新里村遺跡からは炭化米や石器(石斧、敲打器、石皿、砥石)などが出土している。石垣島と竹富島の間には、稲作などの船による遠距離通耕(安渓、2007)や石材の緑色片岩、花崗岩、カンラン岩、砂岩などを求めての往来があったと思われる(大濵、2008)。

写真7
ビロースク遺跡から出土した青磁口折口縁皿の中面

写真8
ビロースク遺跡から出土した青磁口折口縁皿外面

 


研究ノート01 八重山諸島のスク文化期における交易の展開史

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