Ⅰー4.交易の旺盛(スク文化後期)

Facebook にシェア
LINEで送る
このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

研究ノート01 八重山諸島のスク文化期における交易の展開史


Ⅳ.交易の旺盛(スク文化後期)

13世紀後半~14世紀ころには、西からの中国福建沿岸海商らが、八重山島民との接触・交易を開始し、八重山諸島を元私船の南島の北進交易ルートの一つの拠点として福建産粗製白磁碗、青磁、褐釉陶器(南蛮陶器=スビガミ〔下地、1975/三島、1975〕)をもたらした。1368年、漢民族の国家「明」(1368~1643)が興り、招撫政策に応じる諸国との冊封制度による朝貢・朝貢貿易(公貿易)が行われる。民間貿易(私貿易)は、すべて禁止した。しかし、14世紀中葉~17世紀ころは、海禁政策を犯してでも中国福建沿岸海商らとの私貿易が盛んに行われ、膨大な量の中国製の貿易陶磁(青磁は14、15、16世紀のもの)などが宮古や八重山に持ち込まれた。また、後に染付(青花、16~17世紀のもの)などももたらされている。代表的な遺跡には、石垣島の南海岸のウフスク=大城村遺跡(カンドゥ原遺跡、13~18世紀後半ころ)、北海岸の14~16世紀ころの仲筋貝塚(註14)、元桴海村遺跡(ヤマバレー遺跡、14~17世紀前半ころ)、西表島の東海岸の与那良村遺跡(14~17世紀中葉ころ)、西部の慶田城村遺跡(上村遺跡、14~19世紀後半ころ)、内離島の成屋村遺跡(14~18世紀中葉ころ)などがあげられる(註15)(仲筋貝塚発掘調査団、1981/青山学院大学調査団、1977/1980/1982/1987)。現在、これらの遺跡からは徳之島産のカムィヤキが1片も発見されていない(伊仙町教委、1985a・b/2001/2005)。
14世紀後半からは、中国福建沿岸海商らが明国の海禁政策を犯して宮古や八重山の島々にジャンク船(12世紀ころは指南針を使用、後に羅針盤を設置)(田中、1968/宇野、2005)で来島し、各村々を回航して、盛んに私貿易が行われた。それをものがたるかのように八重山の後期スク時代の遺跡からは膨大な量の中国製の青磁、褐釉陶器、後に染付などの貿易陶磁が出土している。この時代の貿易陶磁は、日本本土や沖縄本島とは比べものにならないほど多量に出土している。沖縄のグスク文化は、14世紀後半ころから中国の明国との朝貢・進貢貿易(公貿易)に支えられていた。一方、宮古や八重山においては民間の中国福建沿岸海商らと私貿易・密貿易を頻繁に行って独自の文化を築いていた。宮古や八重山の歴史の中で一番華やかな時代が、中国福建沿岸海商と大密貿易を行ったスク文化期の14紀以降である。中国福建沿岸海商らが渡航してきた目的は、宮古や八重山の島々で豊富に産出する海産物の宝貝(海巴、スビガイ)、ヤコウガイ=夜光貝(螺殻、ヤフンガイ)、真珠貝、ナマコ(海参、イリク)、フカのひれ(魚翅)、ジュゴン(儒良、ザン)、タイマイ(玳琩、ベッコウガメ)や牛皮、苧麻衣(上布、グイフ)、芭蕉布、薬草などを求めたことが想像され(註16)(大濵、1985/1996/1999、P144~145/2008/2009b/田村、1988/三島、1989/三杉、1987/森、2004/高崎、1971)、その交易品の一つとして中国の貿易陶磁がもたらされた。宮古や八重山の島々が、中継地として私貿易・密貿易の流通の拠点としてのネットワークで結ばれていた。
 石垣島の西海岸にある名蔵湾のシタダル海底遺跡からは、15世紀後半ころの青磁、白磁小皿、褐釉陶器など3500点に及び膨大な量の中国製陶磁とまた数十点の染付(青花)などが、浜辺から海底にかけて広がって出土している。これらの中国製の貿易陶磁も、中国福建沿岸海商らの船(明の私船、ジャンク船)によって持ち込まれたものが、船ごと沈没したものと考えられる(註17)。明国との民間レベルの私船による私貿易・密貿易は定着していたことがわかる(大濵、1990/1999/大濵ほか、2009a)。
 一方、14世紀中葉~16世紀ころは沖縄の琉球王国の官船が、明国への朝貢をおこない、また東南アジアの各地と貿易を行ったりしていた。その際の船も宮古・八重山諸島の島々で水や食料の補給など、あるいは風待ちや避難などで一時寄港し、朝貢貿易の献上産物である宝貝、ヤコウガイ、牛皮、苧麻衣などの調達確保のために来島したとも考えられる(大濵、2008)。
 また、この時期に大和文化集団(九州海商)が持ち込んだと思われる遺物が勾玉などの玉類である。この勾玉は、沖縄本島の恩納村熱田貝塚からグスク系土器・カムィヤキ・滑石製石鍋・玉縁白磁口縁碗・開元通寶(2枚)・刃子などと共伴して出土し、貝塚時代からグスク時代への移行期のものだとされている(沖縄県教委、1978b)。スク文化初期の石垣島のビロースク遺跡(旺盛期12~14世紀ころ)からも勾玉四点・ガラス製丸玉5点が出土している(石垣市教委、1983)。これらの勾玉やガラス丸玉はスク文化期から近世期までの集落跡から必ず出土する。宮古・八重山のスク文化遺跡は、並行する沖縄本島のグスク文化の遺跡よりも多くの勾玉やガラス丸玉などの玉類が出土している(岸本、2003)。14世紀以降、宮古や八重山の婦女子が勾玉を嗜好していたことから(註18)、九州海商らが勾玉やガラス丸玉などの玉類を携え宮古や八重山の島々へ来島したことが推察できる(谷川章雄、2004/2008)。
 1185年の壇の浦の合戦後となる12世紀後半、平家の落人たちが南島の島々へ渡来してきたといわれている(谷川健一・山下編、1992/高橋、1998)。さらに室町時代、14世紀以降は、中世末期から近世初頭にかけて日本では茶道の普及とともに武士や商人らが富や権力の象徴として、また実用の器や容器として中国製貿易陶磁などを重要珍重していた(三上、1969/三杉、1968)。これを背景に、高価な威信財としての中国製貿易陶磁などに欲望を掻き立てられた九州海商らが、小集団を組んで私的な貿易という形で宮古や八重山の島々へ渡来し、当時の宮古や八重山の人々により、九州海商と中国福建沿岸海商らとの交易仲介が行われたのではないか、というのが筆者の仮説(註19)である(大濵、1985/1994b/1996/1999/2008/2009b)。

(参考1)
『15世紀の沖縄先島の農耕をめぐって―石垣島仲筋貝塚出土土器の植物珪酸体 分析―』
【目次】
 1.沖縄先島の考古学編年
2.石垣島仲筋貝塚の概要
3.仲筋貝塚出土土器(試料)について
4.土器胎土の植物珪酸体分析
5.15世紀の沖縄先島の農耕をめぐる問題
【概要】
 石垣島仲筋貝塚は15世紀中葉から後半の所産であり、楕円形の小貝層が点在している。発掘調査は、昭和54年(1979)12月から翌年1月にかけて仲筋貝塚発掘調査団(代表・大濵永亘氏)が実施した。  この時期の社会を考える上で、中国や日本などとの対外的な交易と稲作やウシの飼育など内的な生業の両面にわたって、両者の関係を含めて考究する必要があるように思われる。ここでは生業のあり方を知るアプローチのひとつとして、仲筋貝塚出土土器についての植物珪酸体分析を行ない、イネ科栽培植物の確認を試みることにした。  植物珪酸体は、植物の細胞内に珪酸(SiO2)が蓄積したもので、植物が枯れたあともガラス質の微化石(プラント・オパール)となって土壌中に半永久的に残っている。植物珪酸体分析は、この微化石を遺跡土壌や土器胎土などから検出して同定・定量する方法であり、イネ科栽培植物の同定および古植生・古環境の推定などに応用されている。今回分析対象とした土器は11点であり、うち10点は在地産の外耳土器、1点は搬入品とされる宮古式土器である。胎土はⅠ類4点、Ⅱ類6点、Ⅲ類1点であった。  植物珪酸体分析は、株式会社古環境研究所に委託した。その結果、2点の試料からイネの植物珪酸体が検出されたが、密度が低いことから、遺跡周辺などで稲作が行なわれており、何らかの形で土器胎土の素材の粘土にイネの植物珪酸体が混入したと推定される。イネの植物珪酸体の密度や検出率が低いので、土器胎土の素材として水田や畑の土壌が利用された可能性は低いと考えられる。胎土による違いは考慮する必要はなさそうである。  石垣島におけるこれまでの植物珪酸体分析では、13~15世紀の複数の遺跡の土器からイネが検出され、稲作の存在が推定されている。今回の結果もこれを追認することになった。『李朝実録』の1477年に与那国島に漂着した済州島民の見聞記事から、今後は稲作のあり方の地域差とともに、ムギ類、アワが含まれるエノコログサ属型、キビが含まれるキビ属型などにも留意し、同時に土器の生産と流通のあり方も考えなければならない。(谷川章雄、2009)。

(参考2)
『沖縄石垣島 名蔵シタダル海底遺跡共同研究報告書―大濵永亘氏調査収集資料を中心に―』

【目次】
 第1章 名蔵シタダル海底遺跡の研究史…………………………大濵永亘
 第2章 名蔵シタダル海底遺跡採集明代陶磁器の研究…………関口広次
 第3章 先島の14世紀から16世紀の遺跡について…………….大濵永寛
 第4章 類似陶磁器出土遺跡文献目録……………………………関口広次
 第5章 明代青磁・白磁の胎土と釉薬分析報告…………………………………
     ……… パリノ・サーヴェイ株式会社(植木真吾・矢作健二・斎藤紀行)
 第6章 遺跡・遺物図版
 第7章 名蔵シタダル海底遺跡と15世紀の先島……………………… 谷川章雄

【概要】
 名蔵シタダル海底遺跡は1960年に大濵永亘氏によって発見された。
    これまで沈没船あるいは港とする説があったが、近年、中世の東アジア海域の交流・交易の実態を示す沈没船の資料が改めて評価され、本遺跡は15世紀の先島の対外交流・交易を物語る重要な遺跡として位置づけられるようになった。  
  今回報告した中国陶磁器は、青磁小片を除く総点数3,461点、青磁2,845個体、白磁440個体で、青花は底部片59点と少ない。

   鉄釉壷・甕類は底部から胴部への立ち上がりが残存した破片117点であった。龍泉窯の陶磁器製造業者顧仕成に由来する「顧氏」銘青磁は、15世紀第3四半期~第4四半期のもので、青磁は浙江省龍泉窯のおそらく慶元県竹口地域を中心とする窯のものである。また、割高台白磁小皿は福建省邵武市四都地域で生産された最も廉価な陶磁器であろう。本遺跡出土中国陶磁器は、明代の15世紀第3四半期~第4四半期の一括遺物であり、数量から見ても沈没船である可能性が高い。これらは福建省沿岸の福州・定海地域で集積されて船の積荷となったと推定される。 14~16世紀の石垣島の遺跡において、野面の石積み囲い屋敷遺構をともなう集落形態や、多様な埋葬施設の構造、集団墓の出現などの墓あり方から、社会的関係の強化をともなう階層化した社会構造をうかがうことができる。また、遺跡数は14 世紀になると増加する傾向にあり、この時期に中国陶磁器の出土量が増えることも注目される。 『李朝実録』の成化13年(1477)に与那国島に漂流した済州島民の帰国経路から、石垣島は八重山から宮古を経て琉球国に至る交易、交通のネットワークから基本的に外れていたと考えられる。こうした石垣島の独立性は、福建省沿岸の福州・定海地域を出航し名蔵シタダルの海底に沈んだ沈没船が直接に物語るものであろう。

宝貝の字印

 平得の宇部御嶽遺跡から出土した褐釉陶器(スビガミ)胴部片

(註14)
共同研究報告者の谷川章雄氏は『15世紀の沖縄先島の農耕をめぐって―石垣島仲筋貝塚出土土器の植物珪酸体分析―』の論文の中で(参考1)のような目次に従って概要を報告している。

(註15)
八重山蔵元文書の『八重山島年来記』には、1619年の項に桴海村、1629年の項に仲筋村、大城村、慶田城村などが記されている。この内、仲筋村の元村が仲筋貝塚である。仲筋貝塚からは17~19世紀ころの文物が1点も発見されていない。1651年項にも与那良村が記され、1750年の項には成屋村などの集落名が記載されている(石垣市史編集室、1999)。

(註16)
琉球王国の外交文書『歴代宝案』によると、1434年、琉球王国は貢納品として550万個の海巴(宝貝)、また螺殻(夜光貝)、牛皮、苧麻衣(上布)などを明国へ献上している。また、1477年、朝鮮済州島の船が嵐で難破し、3人が漂流し与那国島の島民に救助され、西表島、波照間島、新城島、黒島、多良間島、伊良部島、宮古島へと順々に転送され帰国している。彼らの見聞記によると、高い島の与那国島や西表島では粟・稲作で、低い島でも粟・黍(きび)・牟麦(おおむぎ)などを栽培している。また、各島々では、牛を飼育し、苧布などを着けていると述べている(国分、1975/三島、1989/森、2004/佐久間、1975/高崎、1971/大濵、1999)。
波照間島の民間伝承の「第46話 鍋掻田(ナビカキマシィ)」(『ばが―島八重山の民話』)のなかにも「(略)そのころ八重山は琉球王が治めていました。首里の王庁から役人がやってきて村むらの人口を調べ、15才から50才までのすべての男女から、人頭税という世界中にも例のない、とても重い税を取り立てていました。税といってもお金ではありません。男は米や粟などの穀物、女は貢衣布(グイフ)といって反物ですが、その外に上木税=ウワキゼイ(物品税)といって海産物(イリク=なまこ、イ―シィ=つのまた、ナチヨーラ=海人草など)や、陸産物(ミングル=木耳、ピパ―ズ=胡椒、フガラ=黒皮、竹、牛皮、煙草など)、船具(フガラツナ=黒縄、しゅら縄など)取り立て、あまつさえ20日オ―デーラといって、1か月に20日は公のための労役にも就かせたのです(略)」と人頭税の重圧に堪えず楽園の南大波照間を目指したことが記載されている(竹原、1978)。また、『八重山島年来記』(石垣市史編集室、1999)の1648年の項に波照間島平田村40~50人が大波照間へ逃亡したことが記されている。このようにしておそらく時代が異なるけれど、中国福建沿岸海商らはスク時代の民間レベルの私貿易・密貿易でも八重山に無尽蔵にある海産物の海巴(宝貝)や螺殻(夜光貝)、ナマコ、人頭税時代の物品税などの牛皮、苧麻衣などの交易産物を求めて海禁政策を犯してでも来島したと思われる(大濵、1985/1994b/1996/1999/大濵、2008/大濵ほか、2009a/2009b)。

(註17)
1961年、ジョージ・H・カー博士やリチャード・ピアソン氏らを遺跡に案内した際はクード遺跡という名称で紹介した。しかし、シタダル浜を中心に中国製貿易陶磁が数多く出土したので、1990年には名蔵シタダル遺跡の名称で報告をした。1999年『八重山の考古学』の出版の際に、高宮廣衞沖縄国際大学名誉教授から「本書は八重山考古学界の財産」という序文をいただいたとき、この遺跡は沈没船で海底に広がる遺跡だというご指摘をうけたので、この機会に名蔵シタダル海底遺跡に訂正した(大濵、1990/1999、P201~212)。
筆者(大濵永亘・関口広次・大濵永寛・谷川章雄)らはこの名蔵シタダル海底遺跡を2009年に下記の通り共同研究で報告した。(参考2)
大濵永亘・関口広次・大濵永寛・谷川章雄『沖縄石垣島 名蔵シタダル海底遺跡共同研究報告書―大濵永亘氏調査収集資料を中心に―』(先島文化研究所/2009年3月刊)

(註18)
近世になって、「八重山蔵元」が勾玉を禁止している。『参遣状抜書(上巻)』の1704年、「65 覚」の項の要約には「一、諸村で身分の上下にかかわらず女性が身につける玉を、14、5個につき代米14、5俵で買い取り、むだに飾りたてるので、王府へ訴えて禁止した。しかし近年になってひそかに用いる者もあるとうわさになっているので、改めて禁止する。もし違反する者がいたら、遠慮なく申しでること。」と記されている(石垣市史編集室、1995)。

(註19)
筆者は、「スク時代の年表」を1996「スク時代の年表」:P174、1999「表1,八重山のスク時代の年表」:P138、2006「三、八重山スク時代の年表」:P32~33などで発表した。


研究ノート01 八重山諸島のスク文化期における交易の展開史

Facebook にシェア
LINEで送る
このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket